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第1話:沈んだ瞳
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雨が上がったばかりの夜、地方都市の住宅街は湿った空気に包まれていた。沙織は自宅の応接間の窓辺に立ち、濡れた舗道に映る薄暗い街灯の光をぼんやりと眺めていた。カーテンの隙間から漏れる明かりが、彼女の華奢な肩に淡い影を落とす。部屋の中は静かで、ただ時計の秒針が刻む音だけが小さく響いていた。
夫の健一は今夜も帰りが遅い。いや、遅いというより、帰る気があるのかすらわからない。沙織はソファに腰を下ろし、膝の上で指を組み合わせてため息をついた。34歳。専業主婦としての日々は、まるで色褪せた絵画のように単調で、彼女の内に渦巻く虚無感を埋めるものは何もなかった。かつての恋の熱も、女としての輝きも、どこか遠くに置き去りにしたような感覚が胸を締め付ける。
「ただいま」
ドアが開く音とともに、健一の低い声が響いた。沙織は反射的に立ち上がり、玄関へと向かう。
「おかえりなさい。ご飯、温め直す?」
「いや、いい。もう食べてきた」
健一はそう言いながら、沙織に目を合わせることなくリビングを横切る。スーツの肩にはまだ雨の雫が残り、湿った衣服の匂いが鼻をついた。彼の冷たい態度は、まるで彼女の存在を空気のように扱うかのようだった。沙織は唇を噛み、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。
その週末、健一の部下である駿を交えた家族ぐるみの飲み会が自宅で開かれた。応接間にはビールの缶やグラスが並び、子供たちが寝静まった後の大人たちの笑い声が響く。沙織は台所で料理の後片付けをしながら、時折リビングの様子を窺っていた。健一は部下たちと仕事の話を繰り広げ、彼女には一瞥もくれない。
「沙織さん、いつもこんなに美味しい料理作ってるんですか? いや、ほんとすごいな」
突然、背後から声がかけられた。振り返ると、そこには駿が立っていた。長身で精悍な顔立ち、スーツの似合う体格。27歳という若さを感じさせない落ち着いた視線が、沙織をまっすぐに見つめている。彼女は一瞬言葉に詰まり、頬が熱くなるのを感じた。
「あ、ありがとう。たいしたものじゃないけど……」
「いや、ほんと。俺、料理とか全然ダメなんで、こういう家庭的な味に弱いんですよ」
駿は笑いながら、彼女の手元に置かれた皿を指さした。その仕草に、沙織はなぜか胸がざわつくのを感じた。彼の視線には、ただの社交辞令ではない何かが含まれているように思えた。女として見られている——そんな直感が、彼女の心に小さな火を灯した。
「駿、こっち来いよ。次のプロジェクトの話、聞きたいだろ」
健一の声がリビングから響き、駿は沙織に軽く会釈をしてその場を離れた。沙織は彼の背中を見送りながら、指先に残る皿の冷たさと、胸の奥でくすぶる熱を同時に感じていた。アルコールとタバコの匂いが混じる空気の中、彼女の心は久しく忘れていたざわめきを帯びていた。
飲み会が終わり、客が帰った後の深夜、沙織は応接間のソファに座り、グラスを片手に一人残っていた。窓の外では再び雨が降り始め、ガラスに雫が伝う音が静かに響く。健一はすでに寝室に引き上げ、彼女を一人残していた。ソファの布地のざらつきを指でなぞりながら、沙織は駿の視線を思い出していた。あの目。まるで彼女の内側を暴くような、強い光を帯びた瞳。
「沙織さん、いつも笑顔だけど、なんか……寂しそうですね」
飲み会の最中、駿がふと漏らした言葉が耳に残っていた。彼女はグラスを傾け、アルコールの苦みが喉を通るのを感じた。寂しい。確かにその通りだ。だが、それを口に出して認めることは、彼女にとってあまりにも危険な一歩だった。
雨の音が強まり、窓を叩く音が重く響く。沙織は立ち上がり、窓辺に近づいた。濡れた舗道に赤いネオンの光が反射し、夜の街がぼんやりと滲んでいる。彼女の胸には、理性と欲望がせめぎ合うような緊張感が広がっていた。駿の存在が、彼女の日常に投げかけた小さな波紋は、すでに抑えきれないほどに広がり始めていた。
「また、会うことになるのかな……」
沙織は独り言のように呟き、夜風に混じる香水の残り香を吸い込んだ。彼女の瞳には、沈んだ影と、微かに燃える予兆が宿っていた。雨の夜が更ける中、彼女の心はまだ知らない未来へと、静かに動き始めていた。
夫の健一は今夜も帰りが遅い。いや、遅いというより、帰る気があるのかすらわからない。沙織はソファに腰を下ろし、膝の上で指を組み合わせてため息をついた。34歳。専業主婦としての日々は、まるで色褪せた絵画のように単調で、彼女の内に渦巻く虚無感を埋めるものは何もなかった。かつての恋の熱も、女としての輝きも、どこか遠くに置き去りにしたような感覚が胸を締め付ける。
「ただいま」
ドアが開く音とともに、健一の低い声が響いた。沙織は反射的に立ち上がり、玄関へと向かう。
「おかえりなさい。ご飯、温め直す?」
「いや、いい。もう食べてきた」
健一はそう言いながら、沙織に目を合わせることなくリビングを横切る。スーツの肩にはまだ雨の雫が残り、湿った衣服の匂いが鼻をついた。彼の冷たい態度は、まるで彼女の存在を空気のように扱うかのようだった。沙織は唇を噛み、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。
その週末、健一の部下である駿を交えた家族ぐるみの飲み会が自宅で開かれた。応接間にはビールの缶やグラスが並び、子供たちが寝静まった後の大人たちの笑い声が響く。沙織は台所で料理の後片付けをしながら、時折リビングの様子を窺っていた。健一は部下たちと仕事の話を繰り広げ、彼女には一瞥もくれない。
「沙織さん、いつもこんなに美味しい料理作ってるんですか? いや、ほんとすごいな」
突然、背後から声がかけられた。振り返ると、そこには駿が立っていた。長身で精悍な顔立ち、スーツの似合う体格。27歳という若さを感じさせない落ち着いた視線が、沙織をまっすぐに見つめている。彼女は一瞬言葉に詰まり、頬が熱くなるのを感じた。
「あ、ありがとう。たいしたものじゃないけど……」
「いや、ほんと。俺、料理とか全然ダメなんで、こういう家庭的な味に弱いんですよ」
駿は笑いながら、彼女の手元に置かれた皿を指さした。その仕草に、沙織はなぜか胸がざわつくのを感じた。彼の視線には、ただの社交辞令ではない何かが含まれているように思えた。女として見られている——そんな直感が、彼女の心に小さな火を灯した。
「駿、こっち来いよ。次のプロジェクトの話、聞きたいだろ」
健一の声がリビングから響き、駿は沙織に軽く会釈をしてその場を離れた。沙織は彼の背中を見送りながら、指先に残る皿の冷たさと、胸の奥でくすぶる熱を同時に感じていた。アルコールとタバコの匂いが混じる空気の中、彼女の心は久しく忘れていたざわめきを帯びていた。
飲み会が終わり、客が帰った後の深夜、沙織は応接間のソファに座り、グラスを片手に一人残っていた。窓の外では再び雨が降り始め、ガラスに雫が伝う音が静かに響く。健一はすでに寝室に引き上げ、彼女を一人残していた。ソファの布地のざらつきを指でなぞりながら、沙織は駿の視線を思い出していた。あの目。まるで彼女の内側を暴くような、強い光を帯びた瞳。
「沙織さん、いつも笑顔だけど、なんか……寂しそうですね」
飲み会の最中、駿がふと漏らした言葉が耳に残っていた。彼女はグラスを傾け、アルコールの苦みが喉を通るのを感じた。寂しい。確かにその通りだ。だが、それを口に出して認めることは、彼女にとってあまりにも危険な一歩だった。
雨の音が強まり、窓を叩く音が重く響く。沙織は立ち上がり、窓辺に近づいた。濡れた舗道に赤いネオンの光が反射し、夜の街がぼんやりと滲んでいる。彼女の胸には、理性と欲望がせめぎ合うような緊張感が広がっていた。駿の存在が、彼女の日常に投げかけた小さな波紋は、すでに抑えきれないほどに広がり始めていた。
「また、会うことになるのかな……」
沙織は独り言のように呟き、夜風に混じる香水の残り香を吸い込んだ。彼女の瞳には、沈んだ影と、微かに燃える予兆が宿っていた。雨の夜が更ける中、彼女の心はまだ知らない未来へと、静かに動き始めていた。
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