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第2話:赤いネオン
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雨上がりの夜、地方都市の住宅街から少し離れた路地裏に、赤いネオンの灯が滲むように揺れていた。バーの入口に吊るされた看板は古び、湿った空気に溶け込むようにかすれていた。沙織は夫の後ろを歩きながら、濡れた舗道に映る自分の影をぼんやりと見つめた。足音が小さく響き、夜風が湿った衣服の裾を揺らすたび、彼女の胸には名状しがたいざわめきが広がった。
店内に入ると、アルコールとタバコの匂いが鼻をついた。薄暗い照明の下、カウンターの奥でバーテンダーがグラスを拭いている。沙織の夫、健一はすでに仲間たちと笑い声を上げており、彼女の存在など気にも留めていないようだった。テーブル席には、健一の部下である駿が座っていた。長身でスーツが似合うその姿は、店内のくすんだ空気の中で異様に際立っていた。沙織が席に着く瞬間、駿の視線が一瞬だけ彼女を捉えた。その目は鋭く、まるで何かを見透かすような強さがあった。沙織は咄嗟に目を逸らし、胸の鼓動が速まるのを意識した。
「沙織さん、今日は珍しいですね。こんな遅くまで付き合ってくれるなんて」
駿の声は低く、どこかからかうような響きを帯びていた。沙織は微笑みを浮かべながら、言葉を探した。
「ええ、たまにはいいかなって。健一も楽しそうだから」
彼女の声は控えめで、夫の名を口にするたびに微かな棘を感じた。健一は隣で部下たちと仕事の話を続け、妻の言葉など耳に入っていないようだった。
「健一さん、ほんと仕事熱心ですよね。俺なんか、いつも圧倒されちゃう」
駿はそう言いながら、グラスを傾けた。琥珀色の液体が揺れ、グラスが触れ合う音が一瞬だけ沈黙を破った。沙織は彼の指先がグラスを握る様子を無意識に見つめ、すぐに目を逸らした。ソファの布地のざらつきが手のひらに感じられ、なぜか落ち着かなかった。
「駿くんは、いつもそんな風に言うけど、健一だってあなたを信頼してるわよ」
沙織は努めて穏やかに言ったが、駿の視線が再び彼女を捉えたとき、心臓が小さく跳ねた。彼の目は笑っているようでいて、どこか深い影を宿していた。
「信頼、か。重い言葉ですね。沙織さんには、そういうの似合わない気がするけど」
彼の言葉には意味深な響きがあり、沙織は一瞬言葉を失った。赤いネオンが窓から差し込み、テーブルの上に揺れる光が二人の間に奇妙な境界線を描いていた。彼女は夫の方をちらりと見たが、健一は依然として仲間たちとの会話に夢中だった。その無関心が、沙織の胸に冷たい風を吹き込むようだった。
「どういう意味?」
沙織は小さく尋ねた。声は震えそうになり、彼女は唇を軽く噛んだ。駿は微笑み、肩をすくめた。
「いや、沙織さんって、もっと自由な人に見えるってだけ。なんか、縛られてる感じがしない」
彼の言葉は軽く、しかしその裏に隠された何かが沙織の心をざわつかせた。自由。彼女が長い間忘れていた言葉だった。母として、妻として、毎日を淡々と生きる中で、彼女の内側に眠る「女」が目を覚ますような感覚が、ふと胸をよぎった。
バーの空気は重く、湿った衣服の匂いと夜風に混じる香水が混ざり合っていた。沙織はグラスに手を伸ばし、冷たいガラスの感触に一瞬だけ現実を引き戻された。だが、駿の視線が彼女を離さない。彼の目には、まるで彼女の内面を暴き出すような力が宿っているようだった。
「沙織さん、疲れてるんじゃないですか? なんか、顔色が冴えない」
駿の声は優しく、しかしその奥に隠された好奇心が沙織を落ち着かなくさせた。彼女は微笑みながら首を振った。
「大丈夫。ちょっと眠いだけ」
「なら、俺が送りますよ。健一さん、遅くまで話してそうですし」
彼の提案は自然で、しかしその裏に潜む何かが沙織の心を揺さぶった。彼女は一瞬、夫の方を見た。健一は依然として彼女を顧みず、笑い声を上げていた。その無関心が、沙織の胸に小さな亀裂を生んだ。
「ありがとう。でも、大丈夫よ。自分で帰れるから」
彼女の声は弱く、駿の視線が一瞬だけ鋭くなった。彼は小さく頷き、グラスを口に運んだ。だが、その沈黙の中には、言葉にできない緊張が漂っていた。沙織は自分の指先に残る湿気を感じながら、なぜか彼の体温を意識してしまった。赤いネオンの光が彼の顔を照らし、精悍な輪郭が一層際立っていた。
夜が更けるにつれ、店内の喧騒は遠ざかり、沙織の耳にはグラスの触れ合う音と、窓の外を走る車の音だけが響いていた。彼女の胸には、背徳の予感が芽生え始めていた。駿の存在が、彼女の心の奥底に眠る何かを呼び起こしている。それは、長い間抑え込んでいた欲望だった。夫の冷たい態度と対比するように、駿の視線は彼女を「女」として見つめているようだった。
「沙織さん、俺、ちょっと外で一服してきます。よかったら、一緒にどうですか?」
駿の声は静かで、しかしその誘いは沙織の心を強く揺さぶった。彼女は一瞬迷い、夫の方をちらりと見た。健一は依然として彼女に気づかず、仲間たちと笑い合っていた。沙織の胸に、孤独と誘惑がせめぎ合うように広がった。
「ええ、ちょっとだけなら」
彼女の声は小さく、しかしその一言が、彼女自身を未知の領域へと踏み込ませる一歩だった。駿が立ち上がり、彼女の後ろを歩く瞬間、沙織は彼の気配を背中で感じた。夜風が吹き込む店の外で、赤いネオンの光が二人の影を長く伸ばしていた。沙織の心は、理性と欲望の狭間で揺れ動きながら、駿の存在を意識せずにはいられなかった。
この夜が、彼女にとって何かを変える予感がした。雨上がりの湿った匂いと、駿の香水が混じる空気の中で、沙織は自分の心が溶けていくような感覚を覚えた。次の瞬間、彼女がどう動くのか、彼女自身にもわからなかった。だが、駿の視線が彼女を捉えるたび、彼女の内側に眠る何かが、静かに目を覚ましていくのを感じていた。
店内に入ると、アルコールとタバコの匂いが鼻をついた。薄暗い照明の下、カウンターの奥でバーテンダーがグラスを拭いている。沙織の夫、健一はすでに仲間たちと笑い声を上げており、彼女の存在など気にも留めていないようだった。テーブル席には、健一の部下である駿が座っていた。長身でスーツが似合うその姿は、店内のくすんだ空気の中で異様に際立っていた。沙織が席に着く瞬間、駿の視線が一瞬だけ彼女を捉えた。その目は鋭く、まるで何かを見透かすような強さがあった。沙織は咄嗟に目を逸らし、胸の鼓動が速まるのを意識した。
「沙織さん、今日は珍しいですね。こんな遅くまで付き合ってくれるなんて」
駿の声は低く、どこかからかうような響きを帯びていた。沙織は微笑みを浮かべながら、言葉を探した。
「ええ、たまにはいいかなって。健一も楽しそうだから」
彼女の声は控えめで、夫の名を口にするたびに微かな棘を感じた。健一は隣で部下たちと仕事の話を続け、妻の言葉など耳に入っていないようだった。
「健一さん、ほんと仕事熱心ですよね。俺なんか、いつも圧倒されちゃう」
駿はそう言いながら、グラスを傾けた。琥珀色の液体が揺れ、グラスが触れ合う音が一瞬だけ沈黙を破った。沙織は彼の指先がグラスを握る様子を無意識に見つめ、すぐに目を逸らした。ソファの布地のざらつきが手のひらに感じられ、なぜか落ち着かなかった。
「駿くんは、いつもそんな風に言うけど、健一だってあなたを信頼してるわよ」
沙織は努めて穏やかに言ったが、駿の視線が再び彼女を捉えたとき、心臓が小さく跳ねた。彼の目は笑っているようでいて、どこか深い影を宿していた。
「信頼、か。重い言葉ですね。沙織さんには、そういうの似合わない気がするけど」
彼の言葉には意味深な響きがあり、沙織は一瞬言葉を失った。赤いネオンが窓から差し込み、テーブルの上に揺れる光が二人の間に奇妙な境界線を描いていた。彼女は夫の方をちらりと見たが、健一は依然として仲間たちとの会話に夢中だった。その無関心が、沙織の胸に冷たい風を吹き込むようだった。
「どういう意味?」
沙織は小さく尋ねた。声は震えそうになり、彼女は唇を軽く噛んだ。駿は微笑み、肩をすくめた。
「いや、沙織さんって、もっと自由な人に見えるってだけ。なんか、縛られてる感じがしない」
彼の言葉は軽く、しかしその裏に隠された何かが沙織の心をざわつかせた。自由。彼女が長い間忘れていた言葉だった。母として、妻として、毎日を淡々と生きる中で、彼女の内側に眠る「女」が目を覚ますような感覚が、ふと胸をよぎった。
バーの空気は重く、湿った衣服の匂いと夜風に混じる香水が混ざり合っていた。沙織はグラスに手を伸ばし、冷たいガラスの感触に一瞬だけ現実を引き戻された。だが、駿の視線が彼女を離さない。彼の目には、まるで彼女の内面を暴き出すような力が宿っているようだった。
「沙織さん、疲れてるんじゃないですか? なんか、顔色が冴えない」
駿の声は優しく、しかしその奥に隠された好奇心が沙織を落ち着かなくさせた。彼女は微笑みながら首を振った。
「大丈夫。ちょっと眠いだけ」
「なら、俺が送りますよ。健一さん、遅くまで話してそうですし」
彼の提案は自然で、しかしその裏に潜む何かが沙織の心を揺さぶった。彼女は一瞬、夫の方を見た。健一は依然として彼女を顧みず、笑い声を上げていた。その無関心が、沙織の胸に小さな亀裂を生んだ。
「ありがとう。でも、大丈夫よ。自分で帰れるから」
彼女の声は弱く、駿の視線が一瞬だけ鋭くなった。彼は小さく頷き、グラスを口に運んだ。だが、その沈黙の中には、言葉にできない緊張が漂っていた。沙織は自分の指先に残る湿気を感じながら、なぜか彼の体温を意識してしまった。赤いネオンの光が彼の顔を照らし、精悍な輪郭が一層際立っていた。
夜が更けるにつれ、店内の喧騒は遠ざかり、沙織の耳にはグラスの触れ合う音と、窓の外を走る車の音だけが響いていた。彼女の胸には、背徳の予感が芽生え始めていた。駿の存在が、彼女の心の奥底に眠る何かを呼び起こしている。それは、長い間抑え込んでいた欲望だった。夫の冷たい態度と対比するように、駿の視線は彼女を「女」として見つめているようだった。
「沙織さん、俺、ちょっと外で一服してきます。よかったら、一緒にどうですか?」
駿の声は静かで、しかしその誘いは沙織の心を強く揺さぶった。彼女は一瞬迷い、夫の方をちらりと見た。健一は依然として彼女に気づかず、仲間たちと笑い合っていた。沙織の胸に、孤独と誘惑がせめぎ合うように広がった。
「ええ、ちょっとだけなら」
彼女の声は小さく、しかしその一言が、彼女自身を未知の領域へと踏み込ませる一歩だった。駿が立ち上がり、彼女の後ろを歩く瞬間、沙織は彼の気配を背中で感じた。夜風が吹き込む店の外で、赤いネオンの光が二人の影を長く伸ばしていた。沙織の心は、理性と欲望の狭間で揺れ動きながら、駿の存在を意識せずにはいられなかった。
この夜が、彼女にとって何かを変える予感がした。雨上がりの湿った匂いと、駿の香水が混じる空気の中で、沙織は自分の心が溶けていくような感覚を覚えた。次の瞬間、彼女がどう動くのか、彼女自身にもわからなかった。だが、駿の視線が彼女を捉えるたび、彼女の内側に眠る何かが、静かに目を覚ましていくのを感じていた。
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