夜に溶ける約束

遊鷹太

文字の大きさ
2 / 10

第2話:赤いネオン

しおりを挟む
雨上がりの夜、地方都市の住宅街から少し離れた路地裏に、赤いネオンの灯が滲むように揺れていた。バーの入口に吊るされた看板は古び、湿った空気に溶け込むようにかすれていた。沙織は夫の後ろを歩きながら、濡れた舗道に映る自分の影をぼんやりと見つめた。足音が小さく響き、夜風が湿った衣服の裾を揺らすたび、彼女の胸には名状しがたいざわめきが広がった。

店内に入ると、アルコールとタバコの匂いが鼻をついた。薄暗い照明の下、カウンターの奥でバーテンダーがグラスを拭いている。沙織の夫、健一はすでに仲間たちと笑い声を上げており、彼女の存在など気にも留めていないようだった。テーブル席には、健一の部下である駿が座っていた。長身でスーツが似合うその姿は、店内のくすんだ空気の中で異様に際立っていた。沙織が席に着く瞬間、駿の視線が一瞬だけ彼女を捉えた。その目は鋭く、まるで何かを見透かすような強さがあった。沙織は咄嗟に目を逸らし、胸の鼓動が速まるのを意識した。

「沙織さん、今日は珍しいですね。こんな遅くまで付き合ってくれるなんて」
駿の声は低く、どこかからかうような響きを帯びていた。沙織は微笑みを浮かべながら、言葉を探した。
「ええ、たまにはいいかなって。健一も楽しそうだから」
彼女の声は控えめで、夫の名を口にするたびに微かな棘を感じた。健一は隣で部下たちと仕事の話を続け、妻の言葉など耳に入っていないようだった。

「健一さん、ほんと仕事熱心ですよね。俺なんか、いつも圧倒されちゃう」
駿はそう言いながら、グラスを傾けた。琥珀色の液体が揺れ、グラスが触れ合う音が一瞬だけ沈黙を破った。沙織は彼の指先がグラスを握る様子を無意識に見つめ、すぐに目を逸らした。ソファの布地のざらつきが手のひらに感じられ、なぜか落ち着かなかった。

「駿くんは、いつもそんな風に言うけど、健一だってあなたを信頼してるわよ」
沙織は努めて穏やかに言ったが、駿の視線が再び彼女を捉えたとき、心臓が小さく跳ねた。彼の目は笑っているようでいて、どこか深い影を宿していた。

「信頼、か。重い言葉ですね。沙織さんには、そういうの似合わない気がするけど」
彼の言葉には意味深な響きがあり、沙織は一瞬言葉を失った。赤いネオンが窓から差し込み、テーブルの上に揺れる光が二人の間に奇妙な境界線を描いていた。彼女は夫の方をちらりと見たが、健一は依然として仲間たちとの会話に夢中だった。その無関心が、沙織の胸に冷たい風を吹き込むようだった。

「どういう意味?」
沙織は小さく尋ねた。声は震えそうになり、彼女は唇を軽く噛んだ。駿は微笑み、肩をすくめた。
「いや、沙織さんって、もっと自由な人に見えるってだけ。なんか、縛られてる感じがしない」
彼の言葉は軽く、しかしその裏に隠された何かが沙織の心をざわつかせた。自由。彼女が長い間忘れていた言葉だった。母として、妻として、毎日を淡々と生きる中で、彼女の内側に眠る「女」が目を覚ますような感覚が、ふと胸をよぎった。

バーの空気は重く、湿った衣服の匂いと夜風に混じる香水が混ざり合っていた。沙織はグラスに手を伸ばし、冷たいガラスの感触に一瞬だけ現実を引き戻された。だが、駿の視線が彼女を離さない。彼の目には、まるで彼女の内面を暴き出すような力が宿っているようだった。

「沙織さん、疲れてるんじゃないですか? なんか、顔色が冴えない」
駿の声は優しく、しかしその奥に隠された好奇心が沙織を落ち着かなくさせた。彼女は微笑みながら首を振った。
「大丈夫。ちょっと眠いだけ」
「なら、俺が送りますよ。健一さん、遅くまで話してそうですし」
彼の提案は自然で、しかしその裏に潜む何かが沙織の心を揺さぶった。彼女は一瞬、夫の方を見た。健一は依然として彼女を顧みず、笑い声を上げていた。その無関心が、沙織の胸に小さな亀裂を生んだ。

「ありがとう。でも、大丈夫よ。自分で帰れるから」
彼女の声は弱く、駿の視線が一瞬だけ鋭くなった。彼は小さく頷き、グラスを口に運んだ。だが、その沈黙の中には、言葉にできない緊張が漂っていた。沙織は自分の指先に残る湿気を感じながら、なぜか彼の体温を意識してしまった。赤いネオンの光が彼の顔を照らし、精悍な輪郭が一層際立っていた。

夜が更けるにつれ、店内の喧騒は遠ざかり、沙織の耳にはグラスの触れ合う音と、窓の外を走る車の音だけが響いていた。彼女の胸には、背徳の予感が芽生え始めていた。駿の存在が、彼女の心の奥底に眠る何かを呼び起こしている。それは、長い間抑え込んでいた欲望だった。夫の冷たい態度と対比するように、駿の視線は彼女を「女」として見つめているようだった。

「沙織さん、俺、ちょっと外で一服してきます。よかったら、一緒にどうですか?」
駿の声は静かで、しかしその誘いは沙織の心を強く揺さぶった。彼女は一瞬迷い、夫の方をちらりと見た。健一は依然として彼女に気づかず、仲間たちと笑い合っていた。沙織の胸に、孤独と誘惑がせめぎ合うように広がった。

「ええ、ちょっとだけなら」
彼女の声は小さく、しかしその一言が、彼女自身を未知の領域へと踏み込ませる一歩だった。駿が立ち上がり、彼女の後ろを歩く瞬間、沙織は彼の気配を背中で感じた。夜風が吹き込む店の外で、赤いネオンの光が二人の影を長く伸ばしていた。沙織の心は、理性と欲望の狭間で揺れ動きながら、駿の存在を意識せずにはいられなかった。

この夜が、彼女にとって何かを変える予感がした。雨上がりの湿った匂いと、駿の香水が混じる空気の中で、沙織は自分の心が溶けていくような感覚を覚えた。次の瞬間、彼女がどう動くのか、彼女自身にもわからなかった。だが、駿の視線が彼女を捉えるたび、彼女の内側に眠る何かが、静かに目を覚ましていくのを感じていた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)その後

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合つまた。 その後、大学を卒業した祐輔(ユウスケ)の新たなストーリーが始まった。 全15話を予定

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

不倫妻への鎮魂歌 ―サレ夫が選んだ、最も残酷で静かな復讐―

MisakiNonagase
大衆娯楽
「サレ夫、再生。不倫妻、転落。──その代償は、あまりに重い。」 「嘘で塗り固めた20年より、真実で歩む明日がいい。」 失って初めて気づく、守られていた日々の輝き。 46歳の美香にとって、誠実な夫と二人の息子に囲まれた生活は、退屈で窮屈な「檻」だった。若い男からの甘い誘惑に、彼女は20年の歳月を投げ打って飛び込んだ。 しかし、彼女が捨てたのは「檻」ではなく「聖域」だったのだ。 不倫、発覚、離婚、そして孤独。 かつての「美しい奥様」が、厚化粧で場末のスナックのカウンターに立つまでの足取りと、傷つきながらも真実の幸福を掴み取っていく夫・徹の再生を描く。 家族とは何か、誠実さとは何か。一通の離婚届が、二人の人生を光と影に分かつ。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく… なお、スピンオフもございます。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

熟女教師に何度も迫られて…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
二度と味わえない体験をした実話中心のショート・ショート集です

背徳のミラールージュ(母と子 それぞれが年の差恋愛にのめり込んでいく鏡写し)

MisakiNonagase
恋愛
24歳の市役所職員・中村洋平には、自慢の恋人がいた。2歳年上の小学校教師、夏海。誰もが羨む「正解」の幸せの中にいたはずだった。 しかし、50歳になる母・美鈴が21歳の青年・翔吾と恋に落ちたとき、歯車は狂い出す。 ​母の恋路を「不潔だ」と蔑んでいた洋平だったが、気づけば自分もまた、抗えない引力に引き寄せられていた。  その相手は、母の恋人の母親であり、二回りも年上の柳田悦子。 ​純愛か、背徳か。4年付き合った恋人を捨ててまで、なぜ僕は「彼女」を求めてしまうのか。 交差する二組の親子。歪な四角関係の果てに、彼らが見つける愛の形とは――。

還暦妻と若い彼 継承される情熱

MisakiNonagase
恋愛
61歳の睦美と、20歳の悠人。ライブ会場で出会った二人の「推し活」は、いつしか世代を超えた秘め事へと変わっていった。合鍵を使い、悠人の部屋で彼を待つ睦美の幸福。 しかし、その幸せの裏側で、娘の愛美もまた、同じ男の体温に触れ始めていた。 母譲りの仕草を見せる娘に、母の面影を重ねる青年。 同じ男を共有しているとは知らぬまま、母娘は「女」としての業(さが)を露呈していく。甘いお土産が繋ぐ、美しくも醜い三角関係の幕が上がる。

処理中です...