触れない距離、触れられる距離 -秒とミリ秒のあいだで-

yukataka

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第1章 ミリ秒の手

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高架のループが街を囲っていた。鋼材の継ぎ目が風に鳴り、テストラインの軌道が低く唸る。運行センターの壁一面に広がるモニターは、青白い地図と数値を映している。秒針ではなく、ログのタイムスタンプが時を刻む。

三条いつきは蛍光オレンジの安全ベストに白いシャツ。袖口はきっちりと二回折られ、胸ポケットから覗くのは消しゴムで角の取れたシャープペン。眼鏡のフレームは細く、髪は朝の定数のように整っている。人付き合いの変数は苦手でも、制御ループなら心拍に合わせて語れる。

「停止プロファイルはSカーブ。最大減速度1.1m/s²、ジャークは0.5m/s³に制限。ブレーキ遅れ補償は二百ミリ秒。……よし」

独り言はメトロノームだ。すぐ背後で控えめな咳払いがした。

振り返ると、紺色の制服。肩章の金糸が灯りを掬う。御子柴海斗は高い背と、姿勢の良さで空気の水平を正すような男だった。制帽は脇に抱え、手首には古い機械式の腕時計。盤は傷だらけで、秒針が震えるたび小さな戦いの音がする。無駄な言葉を持たない顔つきに、目だけが遠いホームの灯りを見ている。

「御子柴さん。今日は手動介入の評価、よろしくお願いします」

「任された区間で人がやるのは、止めることだけだ」

その声は乾いているのに、音の最後に温度が残る。いつきはわずかに頷いた。彼は過去にオーバーラン事故を起こした運転士だ、と聞いている。秒単位の世界は残酷だ。七秒、という数字が人を夜の底に置き去りにすることだってある。

試験車両は、側面がまだ仮の白いラッピングのまま、車庫から顔を出した。前面に薄く貼られたLIDARの黒い帯と、天井際に並んだカメラ群。いつきはタブレットで車上のログ画面を開く。

「今日は模擬的な路面コンディション変化を入れます。雨と、薄い反射。減速度の追従に、手動の上書きがどのくらい遅れるか」

「遅れるか、ではなく、遅らせるか、だ」

御子柴は運転台に座り、左手でマスコンの形を確かめる。右手はブレーキハンドルに軽く触れるだけ。手の甲に線路の砂のような古い傷がある。

出発信号が白く点り、試験車両は静かに動き出した。モーターの高周波が床から微かに伝わる。自動運転のアルゴリズムが、加速を滑らかに描く。外では高架下の自転車屋がシャッターを開け、並んだサドルが朝日の粒を受ける。

最初の停止位置、標定。ホームの端が近づき、モニターの円が縮む。いつきは数字を追い、指先で空中に短い式を書くように動かす。

—速度、23km/h。距離、75m。制動開始、ジャーク制限有効—

「入るよ」

御子柴の呟きと同時に、車両は予定通り減速し、停止位置一〇センチ手前で微速に落とし、ピタリと止まる。車内にほとんど揺れがなかった。

「悪くない」

「悪い部分があれば教えてください」

「悪くないって言っただけだ」

会話は短い。けれど、その短さが、歩幅の合う歩行のように心地よい。一周目は教科書のように進み、二周目、いつきは模擬雨天を入れた。架線柱に取り付けた霧ノズルから細かい水が吹かれ、レールが銀色を増す。ホームの案内板は濡れ、表面がわずかに鏡になる。

次の停止。カメラが反射を拾う。LIDARは返りが強くなり、距離推定が一瞬だけ跳ねる。いつきの瞼が揺れた。

一〇〇ミリ秒。その狂いが制御に乗る前に、御子柴の右手が動いた。ブレーキハンドルが握られ、微妙な力で引き込まれる。自動運転のブレーキ曲線と、人の指の曲線が重なり、車両はわずかに強い減速で、停止位置から七十センチ先で震えながら止まった。

—オーバーラン、0.7m—

警報が鳴るわけではない。しかし、空気が一瞬凍った。御子柴は息を止めていたらしい。彼の喉仏が上がり、遅れて空気が胸に入る。

「……戻す」

彼はハンドルを緩め、逆向きの力で車輪をわずかに回し、車両をゆっくり後退させる。ホームの黄色い点字ブロックの端に、車体の影がゆっくり重なり直る。ぴたり、定点。

いつきはタブレットを睨む。反射。飽和。閾値。言葉が脳内を走る前に、口が動いた。

「今の介入、早すぎます。アルゴリズムの補正に先んじると、カスケードで振動が出る」

御子柴は視線だけで彼女を見た。黒目が奥まで暗く、そこにホームのLEDが点のまま映っている。

「止めるのに、遅いはない」

「あります。最適停止の“美しさ”は、乗客の体感に繋がる。美しさは安全の一部です」

言ってしまってから、いつきは自分の言葉が硬いことに気づく。御子柴は短く鼻で笑い、しかし嘲りではなかった。

「美しさ、ね。じゃあ俺は醜い止め方を覚えてる」

彼は前を見たまま続けた。

「七年前。雨。ホームの端で人が立っていた。信号は開いてる。タイヤは滑り、俺は止められなかった。二両目のドアの前だった。七秒。全部が遅かった」

数字が刃物みたいに空気を切る。いつきの胸に、冷たいものが落ちる。この男の秒針は、その日のまま少し曲がって動いているのかもしれない。

「あなたは止めた。でも、自分を許していない」

いつきの声は低く、彼女自身もそれを驚いた目で受け止める。御子柴は返事をしない。彼の手の甲の傷が、古地図のひび割れみたいに見えた。

三周目、いつきは反射対策の閾値を一段だけ下げる。ミリ秒の世界で、迷いは精度の敵だ。ログのグラフは改良に反応し、振動は消え、停止はふたたび美しくなる。御子柴はハンドルから手を放し、手のひらを裏返して眺めた。

「今のは、綺麗だ」

「はい」

短い肯定が、薄い紙が一枚重なるみたいに二人の間に置かれる。

昼過ぎ、運行センターに戻る。濡れたスニーカーの足音が床に小さく残る。いつきは紙コップのコーヒーを受け取り、熱さで指先を逃がした。御子柴はコーヒーに砂糖を二つ落とし、かき混ぜない。

「さっきの反射、データを見せてくれ」

いつきはタブレットを差し出す。彼の肩に近づくと、制服の織り目のくっきりした質感が目に入る。洗剤の匂いと、わずかなオイルの香り。画面の波形に二人の顔がうっすら重なる。

「ここ。返りが飽和して、距離推定が跳ねてる。ここでアルゴリズムが“躊躇”する」

「人も躊躇する」

「異常値処理を強くすると、感度が死ぬ。見たいものが見えなくなる」

「見たくないものだけが見えるのも困る」

ことばの応酬は、論争というより小さな手合わせだ。いつきは指で波形を拡大し、ミリ秒単位のちいさな乱れを指し示す。

「ここで私の世界が揺れる」

御子柴は彼女の横顔を見た。正確な線で描かれた横顔。眼鏡の奥の目が、グラフの交点のように静かに燃えている。彼は視線を画面に戻し、短く言った。

「直そう」

「はい」

「俺にも、わかるように教えてくれ」

「……わかりました」

彼の「俺にも」という言い方に、敗北ではなく共闘の匂いがあった。二人は椅子を寄せ合い、ログを追い、仮説を立て、小さなパラメータをいじる。いつきは無意識に呼吸を数え、御子柴は無意識に時計の秒針を見守る。秒とミリ秒が、同じテーブルに座る。

夕方、最後の試験。風は少し強くなり、架線が鳴いた。ホームのLEDが点き、空は薄く灰色。車内は乗客のいない静けさに満ち、扉が閉まる音が大きく響く。出発。加速。減速。停止。

—オーバーラン、0.0m—

「美しい」

御子柴が先に言った。いつきは笑顔というより、肩が重力から解放されるみたいに、僅かに息を漏らした。次の瞬間、車体が微かに揺れ、いつきが踏み出した足の先で床が少し滑った。反射的に伸びた彼女の手を、御子柴が掴む。硬い掌。温度は思っていたより高い。彼女の息が喉の奥で止まり、ミリ秒の世界が、妙に長い。

「……ありがとう」

いつきが言い、手が離れる。彼の指が遅れて名残を断ち切る。二人は同時に笑みをこぼし、目を逸らす。沈黙は、悪くない沈黙だ。

ホームの端で風が走り、LEDの光が二人の影を薄く敷く。御子柴の時計の秒針が一つ進む。いつきのタブレットのタイムスタンプが一つ更新される。異なる時間の器で、同じ長さの一秒が満ちる。

「明日もやるんだろ」

「やります。あなたにしかできない遅らせ方があるなら、私にしかできない早め方があるはずです」

御子柴は小さく頷いた。彼の横顔の硬さが、少し柔らぐ。七秒の亡霊はまだ背後に立っているかもしれない。でも、列車は前へ動く。ミリ秒の調整で、秒の祈りを支える。

環状の線路の向こう、街の灯りが点き始める。ループは世界を囲むが、世界を閉じ込めない。二人の歩幅が、一歩だけ、同じ長さになった。
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