愛人をつくればと夫に言われたので。

まめまめ

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本編

9-3

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 下から上へと背中に指が這う。
 無遠慮に暴いてくるその手は、ひきつれた皮膚をなぞって。
 反射的に肩に力が入って、背が反ってしまう。

 でも、私の前にはテラスの柵があるし、ラルフが覆いかぶさってくるから逃げられなくて。
 それをいいことに今度は手のひら全体で背を撫でてくる。


「…急に、どうしたの…。」
「…初めて見た。」


 背後にぴたりとくっついてくるラルフが、独白するように呟く。
 耐えられなくて目を固く閉じても、肌で感じる体温と香りからは逃げられない。
 いつもは優しい友人の、確かな熱。

「今日、そんなドレスだったんだね。」
「う、うん…。」
「ねえ覚えてる?」

 こて、と私の後頭部に、彼の額が預けられた。

「俺を助けてくれて、小さい背中が血まみれになりながらさ、メルは俺に『ケガはない?』って聞いてくれたんだ。それから寝込んでいる間も『私は大丈夫だから』ってずっと言うの。」
「だって、本当に大丈夫だったの。かすっただけだったから。」
「こんな傷、普通の女の子が耐えられる痛さじゃないよ。」

 背を撫でていた手に力が入る。

「俺、何度も見えないここを想像したんだ。どれくらいの傷だったのか。まだ痛まないか。どんな痕を残してしまったのか。俺は見ることも触ることもできなかったから。」

 傷跡を触っていた手は上にのぼり、胡桃色の髪を内側から梳く。
 そのまま肩から前の方に髪が流され、晒された右肩と背中を冷たい風が撫でた。

 ラルフの身体が少し離れた。
 その代わりに背中に感じる、視線。

 ラルフに見られているのが恥ずかしくて、ラルフがどんな顔をして話しているのか確認することも怖くて。
 俯いていると、ふいに後ろから右手を引かれ、振り向くよう促された。


「でも、今日初めて見て、心の底から思った。…綺麗だって。」


 紫の瞳は陽に照らされて揺れていて、その力強さが逸らすことを許してくれない。


(こんな眼…)

 分かりたくない。知りたくない。
 でも、こんな揺らめく水晶のような瞳を向けられてしまったら、嫌でも気づかされてしまう。

 友だちとして言っているわけではない、と。
 私を励ますための優しい言葉なのではない。


「好きな子の身体に、自分のせいで傷が残ってしまったのに。…どうしたらいい?罪悪感ではないものに、胸をかき乱されるんだ。」


 両手を掴まれ、ラルフの胸に持っていかれる。
 助けて、と縋るように両手を包まれ、唇を摺り寄せられる。
 どくどくと鼓動するラルフの心臓を直接感じてしまい、慌てて手を引こうとしてもラルフはそれを許してくれない。

「ラルフ、ごめん、ごめんなさい…っ、私、あなたの気持ち、ちゃんと気が付いていなくて…。」
「そんなのはどうでもいい。俺のわがままなんだ。弱っている君につけ込んだ。」
「でも、でも…10年間も苦しませてしまった、あなたを…。いくら謝っても、謝り切れな」
「謝らないでよ。」


 そしてそれ以上喋れないように、大きな胸の中に閉じ込められる。

 いつかもこんなことがあった。
 でも、ラルフの気持ちを知ってしまった。

 知ってしまった以上、私は彼に触れることはもうできない。
 それにこの場所は会場にいるお客様からも見えてしまう。

 焦って両手で胸を押し返してもびくともしない。
 それどころか更に力を入れられてしまい、もう身動きがとれない。

 ラルフは私の頭と腰をかき抱き、私の肩に顔を埋める。


「メル、俺はそんなに優しい人間じゃない。俺のために負った傷だと思うと、どうしようもなくなるんだ。」
「ラルフ、お願い、離して…!」
「だめだよ。俺を愛人にしてくれるんでしょ?」


 頭を掴まれたまま、耳元で囁かれる。


「ごめん、できない…。私を好いてくれている人の気持ちを無下にするなんて、私、」
「謝るくらいなら傍に置いてよ。」

「俺はそれで救われる」―――最後の言葉は痛いほど切なくて。

 どんな思いで、怪我をした後、会ってくれていたのか。
 騎士見習いで入寮した後、会えていないときも想ってくれていたのだろうか。
 それなのに結婚した私におめでとうと言ってくれた。
 夫婦生活が上手くいかなくて悩む私に優しく寄り添ってくれた。

(どんな、想いで―――…)

 無神経に甘えていた自分の、なんと恥ずかしいことか。

 申し訳なくて、胸が苦しくて、上手く息ができない。


「俺、メルが喜ぶことならなんでもするよ。子どもができなければいいんでしょ?シルヴェスター様が拒否したここだって、俺が代わりに撫でるよ。本当だったら、俺とメルだけのものだったんだ。」


 こみ上げるものが喉につまって言葉すらも出てこない。
 代わりにふるふると頭を横に振っても、それすらもできないように頭を抑えられる。


「…愛させてくれるだけでいいんだ。…今まで通り。」


 優しい声。でも、拒否することを頑なに拒む。
 私が、彼をこうさせてしまった。


「…ごめ、ん、ラルフ。できない。…できないよ、私もう結婚したの。」
「分かってる。だから俺を愛してくれなくてもいい。」
「そんなのだめよ。自分を愛してくれない人の傍にいるなんて、そんなことあなたにさせられない。」
「でもメル、シルヴェスター様は君を愛してくれるの?」
「…っ…!」


 ラルフの言葉が胸に刺さる。
 蓋をしていたはずの心の隙間に刃をたてられて、過去に傷ついた記憶が染み出てくる。
 だめだ、傷ついてはいけない。私は愛されたかったわけではない、と必死に頭の中で繰り返す。
 過ぎたことを願ってはいけないと、何度も自分に言い聞かせたはずだ。


「…ごめん。君を傷つけたいわけじゃない。」

 夕陽に照らされるラルフの顔は寂し気で。
 恐らく私も、酷い顔をしているんだと思う。

 なぜだろう、動いていないはずなのに、ラルフが遠くに感じる。


「…愛されたいわけじゃないの。」


 そっとラルフに握られた手を解き、一歩後ろに下がる。

 呟いた言葉はラルフに言ったわけではなく、自分に対する言葉だった。
 だって、言葉にして言わないと、きっと心が勝手に望んでしまうから。


「私はあの人の妻だから。愛とか、そんな甘い関係ではないかもしれない。それでも夫婦として私たちなりの関係を築いていかなきゃいけないって、私気が付いたの。」

「なら、俺をこのまま傍に置いてよ。」
「…できないわ。」


 首を振る私に、「なぜ」と問いたげにラルフが悲痛な目で見つめてくる。


「あなたを愛せないからよ。あなたは大切な友人だもの。だから10歳の私もあなたを助けたの。それがあなたの重荷になっているのなら…ごめんなさい。」
「…メル。」
「もう10年経ったわ。優しくしてくれてありがとう。立ち直らせてくれてありがとう。でも、友だちとしての優しさじゃないなら、私はもう受け取れない。」


 精一杯の誠意を、真っすぐ目を見て伝えたいのに、叶わない。
 紫の目は閉じられて、拒否される。
 力なく首を横に振るラルフは10歳のときの頼りない少年のようで。

「…分かってよ、ラルフ。」

 私のお願いにも首を振られる。

「なんでもお願いをきくって、言ったじゃない…。」

(…どうして…)

 胸の中に、どうしようもない疑問が湧き出る。

 どうして私が傷ついてしまうんだろう。
 優しくしてもらったくせに、突き放しておいて。

 もう踏み越えてはいけない、見えない壁が私とラルフの間に、確かにできていた。


 私が、泣く側じゃないのに。




「…メルヴィーナ。」



 静寂を破ったのは、テラスの扉が開く音だった。
 夫が珍しく少し慌てた様子で私の腕を引く。

 いつもは冷たい夫の手が温かく感じ、自分の身体が冷え切っていたこと遅れて気が付いた。

「…あの。」
「招いていない客が来た。部屋に入った方がいい。」

 ラルフのことは全く目に留めず、ずかずかと歩いていく。
 夫の声色は少し張り詰めていて、あまり良くないことが起きたのだと心臓が僅かに絞られた。

「どういったお客様です。」
「後で話す。君は他の客が表に出ないようにしておいてくれ。私が外で対応してくる。」
「大丈夫ですか?」
「大したことはない。ただ、君はあまり窓に近づくな。」


 物騒なことを言われ、先ほどまでの悲壮な心情が一気に鎮火される。
 夫は、私とラルフが話していたことなんて全くお構いなしに急げと言わんばかりに肩を押して部屋に入るよう促す。
 しかし、私の顔を見た夫は、はたとその手を止め、切れ長の目を僅かに見開いた。


「また泣いていたのか。」


 そんなことを気にするなんて珍しいので、うんともすんとも言えずに固まっていると、ぬっと腕が伸びてきた。
 思わず胸の前に手を出して防御態勢を取ってしまう程、異例の行動だった。
 しかし、私の心配をよそに、夫は手袋をはめたままの指で、乱暴に目元を拭ってきた。


 訳が分からなくて、ぽかんとしていると、またもや「早く入れ」と肩を押される。


 ラルフ、と思って振り向いてみたが、背の高い夫が壁となってラルフの顔は見えないまま扉が閉められた。

 私が会場に戻った後も、ラルフは姿を見せなかった。

(…これで、いい。)

 乱暴に拭われて目元の化粧は崩れていたが、どうにか張り付けた笑顔で侯爵夫人の役割は全うできたと思う。
 これが私の生きる道だ。

 ラルフが立ち直らせてくれたから。
 だから私は、立派に生きていきたい。


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