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違和感
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「今まで本当にありがとう。もし君がいなかったら、俺はきっとここまでこれなかった。ダプアにいた時からずっと、君は俺を守ってくれた。本当なら、君の傍でこの恩を返さなくちゃいけないんだと思う。でも、ごめん。俺はもうここにはいられない。こんなことが誠意になるかはわからないけど、君には俺の本当の名を明かしておく。君のお父さんは俺をレイヴンと呼んだ。それも間違いではないんだけど、俺の故郷では、綴りは同じでも読み方が違う。俺の故郷では、ローウェンと読む。アシュテネのローウェン。それが俺の、本当の名前」
シルキィは日記に綴られた文字を指で追いながら、声に出して読み上げた。
アシュテネのローウェン。その名はよく知っている。アシュテネ王の一人息子。帝国の侵略で行方知らずとなった王子である。
どうして百年前の日記にその名が出てくるのか。同名の別人であろうか。違う。そもそもアシュテネは二十年ほど前に興った新興国だ。この時代には存在するわけがない。
「え……ちょっと待って」
そこに至って、シルキィは先程の妙な違和感を思い出した。
そうだ。ラ・シエラも同じである。その名は、シルキィの祖父が時の皇帝に領地を賜った折につけられたものだ。百年前、その地には別の名がついていた。
何故レイヴンの口から、ラ・シエラの名が出てきたのか。
「つまり、アシュテネのローウェンがレイヴンで……じゃあ百年前にレイヴンがいたっていうのは、嘘ってこと?」
だが、エリーゼの手記はどうみても新しいものではない。装丁の朽ち方も、紙の状態も、インクの掠れ具合も、間違いなく古書のそれである。
ローウェンあるいはレイヴンは、百年前の時代に確かに生きていた。事実レイヴンの足跡が残っているのだから、そこを否定することは出来ない。
「わかんない。どういうことなの」
倉庫の外から聞こえてくる轟音や、地下までを揺るがす振動は今も続いている。
シルキィは構わず続きを読み進めようとする。鉄の扉が勢いよく開かれた音で、それは中断された。
「きゃあっ!」
「チャンスです。逃げますよ」
びっくり眼でイライザを見上げたシルキィは、彼女に強引に手を取られ引っ張り上げられた。イライザの服や肌にこべりついた血に気が付く。
「イライザ? 血が出てる。ケガをしたの?」
「平気。私の血じゃないから」
安堵も束の間、シルキィはイライザの後ろに立つ影を見つけ、息を呑んだ。
「ティア!」
「お嬢様!」
思わず彼女に抱きつく。半ば体当たりのように飛び込んだシルキィを、ティアは優しくもしっかりと受け止めてくれた。
「お嬢様。よくぞ……よくぞご無事で」
二人は強く抱きしめ合う。シルキィは、ティアがここまで助けに来てくれたことに無上の感謝と感激を覚えた。ティアは、とにかくシルキィの身が無事であったことに胸を撫でおろし、心から喜んだ。
「まだ助かったわけじゃないんだよ。気を抜いてはだめです」
イライザの力のこもった小声で、シルキィは現実を思い出す。再会を喜ぶのは後にしよう。今は一刻も早くこの場から逃げなければ。
日記を抱えたシルキィは、ティアに手を引かれ、イライザに導かれるままに地上への階段を駆け上がる。
衝撃の影響だろうか。地上階の通路は崩れた瓦礫によって塞がれていた。
「聖堂を通るしかありませんね」
ティアが言いにくそうに呟いた。
「大丈夫なの?」
聖堂で何が起こっているか、シルキィには知る由もない。ただ異常事態であることは明白であった。
「他に脱出経路はありません。戦闘のどさくさに紛れることが出来れば、脱出も不可能ではないでしょう」
「戦闘? 戦っているの?」
「はい。敵はセス様が引き受けて下さいました」
「あいつが……そっか、来てくれたんだ」
シルキィはその事実を、自分でも驚くほどに嬉しく思う。
けれど、統率された軍を相手にたった一人で勝てるわけがない。シルキィは、ウィンスらが帝国の兵をなぎ倒す様を見ていたのだ。
イライザの手が、不安げなシルキィの手に乗せられる。
「彼なら大丈夫。これくらい慣れっこなんだから」
「……そっか。そうよね」
彼はアルゴノートだ。命のやり取りに身を置く者。心配は無用に違いない。
胸に希望を抱いて、シルキィは聖堂内に踏み入る。
「え……?」
そこで目にしたものは、残酷な光景。
剣で胸を貫かれたセスの姿を、はっきりと捉えてしまった。
シルキィはセスの名を呼ぼうとした。声は出ず、ぱくぱくと口を開閉させるだけ。
荒れた聖堂内に虹の魔力が霧散していく光景は、死の一面にしてはあまりにも壮麗であった。ウィンスがセスの胸から剣を引き抜くと、彼の身体は力なく倒れ込み、血だまりに沈んでいく。
「あ……」
シルキィの腰が抜ける。呆然自失に陥った鳶色の瞳に、ぶわりと涙が浮いた。
セスは動かない。その右手はもう剣を握ってはいない。
自分は彼を見下していた。悪態を吐いたし、罵倒もした。働きを労うこともせず、挙句には彼に非もないのに八つ当たりまで。
そんな自分を、セスは助けに来た。そして、こんなことになってしまった。
「なんで……どうしてよ……」
彼の目に、もう光はない。その黒い双眸には確かな死が訪れている。
「セス……どうして!」
謝ろうと思っていたのだ。ちゃんと話をして、セスという人間を理解しようと決めたのだ。それなのに、もう、言葉を交わすこともできない。
慟哭が響いた。罪悪感と、行き場を失った後悔の念が、幼い心をかき乱す。
泣き喚くシルキィの肩に、そっと両手が乗せられた。
「その日記を読みましたか?」
セスの惨憺たる姿を見て、イライザの声は妙に落ち着いていた。シルキィは涙に濡れた顔でイライザを見上げると、胸に抱く手記を一層強く抱きしめた。
「これくらいでレイヴンは諦めない。何度だって立ち上がってきた。でもね、苦難に立ち向かう彼の傍にはいつも誰かがいた。孤独なように思えても、一人きりで戦ったことなんて一度もなかった」
シルキィの小さな手を取り、イライザは大人びた笑みを浮かべていた。
「今度はあなたの番。彼をもう一度立ち上がらせるの。あなたには、その力がある」
確信に満ちた声。イライザは信じているのだ。セスを。そしてシルキィを。
よろよろと立ち上がる。セスの虚ろな瞳が自分を見ているように感じたのは錯覚だろうか。吸い寄せられるように、たどたどしい足取りでセスに歩み寄り、膝を落とした。
青白い光が天に伸び、大きく広がってセスを包み込む。セスの顔に、大粒の涙がぽつぽつと落ちた。
「やめておけ。もう死んでいる」
治癒魔法を発動させたシルキィに、ウィンスは極めて冷たい視線を落とした。
魔法の深奥とされる治癒魔法も決して全能ではない。死人を蘇らせることは、何人たりとも不可能だ。
そんなことはシルキィには解らない。ただ感情に任せて魔力を暴発させるのみ。
「剣に魔力を封じられ、さぞ無念だったでしょうな」
ウィンスの視線の先に、セスの手から離れたアシュテネの剣がある。
「安らかに眠りたまえ。誇り高きアシュテネ王よ」
彼の振り下ろした剣が、王の剣に埋められた宝玉を砕き割った。
砕かれた魔石は、封じ込めた魔力を拡散させる。還るべき持ち主のいない魔力は、いずれ虚空に溶け、自然と一体となるだろう。
大聖堂の隅。壁にもたれて二人の戦いを見届けたフェルメルトの目は、失望の色で塗りつぶされていた。
ウィンスとフェルメルトは揃って、シルキィの華奢な背中に目を向ける。涙に濡れる少女は死別の悲哀を体現していたが、彼らの心には響かない。
彼らの故郷が蹂躙された時、このような光景はどこを見ても珍しくなかった。親を殺された子が。子を失った親が。友人を失った男が。恋人を失った女が。一体どれほどの憎しみと悲しみを抱いただろうか。
「業の深い生き物だな。人間とは」
「まったくだ」
フェルメルトは、同じ過ちを繰り返すことを指して言葉にした。
ウィンスは、犯した罪が我が身に返ることを指して答えとした。
大聖堂に響くのは、セスに縋りつくシルキィの慟哭それのみであった。
シルキィは日記に綴られた文字を指で追いながら、声に出して読み上げた。
アシュテネのローウェン。その名はよく知っている。アシュテネ王の一人息子。帝国の侵略で行方知らずとなった王子である。
どうして百年前の日記にその名が出てくるのか。同名の別人であろうか。違う。そもそもアシュテネは二十年ほど前に興った新興国だ。この時代には存在するわけがない。
「え……ちょっと待って」
そこに至って、シルキィは先程の妙な違和感を思い出した。
そうだ。ラ・シエラも同じである。その名は、シルキィの祖父が時の皇帝に領地を賜った折につけられたものだ。百年前、その地には別の名がついていた。
何故レイヴンの口から、ラ・シエラの名が出てきたのか。
「つまり、アシュテネのローウェンがレイヴンで……じゃあ百年前にレイヴンがいたっていうのは、嘘ってこと?」
だが、エリーゼの手記はどうみても新しいものではない。装丁の朽ち方も、紙の状態も、インクの掠れ具合も、間違いなく古書のそれである。
ローウェンあるいはレイヴンは、百年前の時代に確かに生きていた。事実レイヴンの足跡が残っているのだから、そこを否定することは出来ない。
「わかんない。どういうことなの」
倉庫の外から聞こえてくる轟音や、地下までを揺るがす振動は今も続いている。
シルキィは構わず続きを読み進めようとする。鉄の扉が勢いよく開かれた音で、それは中断された。
「きゃあっ!」
「チャンスです。逃げますよ」
びっくり眼でイライザを見上げたシルキィは、彼女に強引に手を取られ引っ張り上げられた。イライザの服や肌にこべりついた血に気が付く。
「イライザ? 血が出てる。ケガをしたの?」
「平気。私の血じゃないから」
安堵も束の間、シルキィはイライザの後ろに立つ影を見つけ、息を呑んだ。
「ティア!」
「お嬢様!」
思わず彼女に抱きつく。半ば体当たりのように飛び込んだシルキィを、ティアは優しくもしっかりと受け止めてくれた。
「お嬢様。よくぞ……よくぞご無事で」
二人は強く抱きしめ合う。シルキィは、ティアがここまで助けに来てくれたことに無上の感謝と感激を覚えた。ティアは、とにかくシルキィの身が無事であったことに胸を撫でおろし、心から喜んだ。
「まだ助かったわけじゃないんだよ。気を抜いてはだめです」
イライザの力のこもった小声で、シルキィは現実を思い出す。再会を喜ぶのは後にしよう。今は一刻も早くこの場から逃げなければ。
日記を抱えたシルキィは、ティアに手を引かれ、イライザに導かれるままに地上への階段を駆け上がる。
衝撃の影響だろうか。地上階の通路は崩れた瓦礫によって塞がれていた。
「聖堂を通るしかありませんね」
ティアが言いにくそうに呟いた。
「大丈夫なの?」
聖堂で何が起こっているか、シルキィには知る由もない。ただ異常事態であることは明白であった。
「他に脱出経路はありません。戦闘のどさくさに紛れることが出来れば、脱出も不可能ではないでしょう」
「戦闘? 戦っているの?」
「はい。敵はセス様が引き受けて下さいました」
「あいつが……そっか、来てくれたんだ」
シルキィはその事実を、自分でも驚くほどに嬉しく思う。
けれど、統率された軍を相手にたった一人で勝てるわけがない。シルキィは、ウィンスらが帝国の兵をなぎ倒す様を見ていたのだ。
イライザの手が、不安げなシルキィの手に乗せられる。
「彼なら大丈夫。これくらい慣れっこなんだから」
「……そっか。そうよね」
彼はアルゴノートだ。命のやり取りに身を置く者。心配は無用に違いない。
胸に希望を抱いて、シルキィは聖堂内に踏み入る。
「え……?」
そこで目にしたものは、残酷な光景。
剣で胸を貫かれたセスの姿を、はっきりと捉えてしまった。
シルキィはセスの名を呼ぼうとした。声は出ず、ぱくぱくと口を開閉させるだけ。
荒れた聖堂内に虹の魔力が霧散していく光景は、死の一面にしてはあまりにも壮麗であった。ウィンスがセスの胸から剣を引き抜くと、彼の身体は力なく倒れ込み、血だまりに沈んでいく。
「あ……」
シルキィの腰が抜ける。呆然自失に陥った鳶色の瞳に、ぶわりと涙が浮いた。
セスは動かない。その右手はもう剣を握ってはいない。
自分は彼を見下していた。悪態を吐いたし、罵倒もした。働きを労うこともせず、挙句には彼に非もないのに八つ当たりまで。
そんな自分を、セスは助けに来た。そして、こんなことになってしまった。
「なんで……どうしてよ……」
彼の目に、もう光はない。その黒い双眸には確かな死が訪れている。
「セス……どうして!」
謝ろうと思っていたのだ。ちゃんと話をして、セスという人間を理解しようと決めたのだ。それなのに、もう、言葉を交わすこともできない。
慟哭が響いた。罪悪感と、行き場を失った後悔の念が、幼い心をかき乱す。
泣き喚くシルキィの肩に、そっと両手が乗せられた。
「その日記を読みましたか?」
セスの惨憺たる姿を見て、イライザの声は妙に落ち着いていた。シルキィは涙に濡れた顔でイライザを見上げると、胸に抱く手記を一層強く抱きしめた。
「これくらいでレイヴンは諦めない。何度だって立ち上がってきた。でもね、苦難に立ち向かう彼の傍にはいつも誰かがいた。孤独なように思えても、一人きりで戦ったことなんて一度もなかった」
シルキィの小さな手を取り、イライザは大人びた笑みを浮かべていた。
「今度はあなたの番。彼をもう一度立ち上がらせるの。あなたには、その力がある」
確信に満ちた声。イライザは信じているのだ。セスを。そしてシルキィを。
よろよろと立ち上がる。セスの虚ろな瞳が自分を見ているように感じたのは錯覚だろうか。吸い寄せられるように、たどたどしい足取りでセスに歩み寄り、膝を落とした。
青白い光が天に伸び、大きく広がってセスを包み込む。セスの顔に、大粒の涙がぽつぽつと落ちた。
「やめておけ。もう死んでいる」
治癒魔法を発動させたシルキィに、ウィンスは極めて冷たい視線を落とした。
魔法の深奥とされる治癒魔法も決して全能ではない。死人を蘇らせることは、何人たりとも不可能だ。
そんなことはシルキィには解らない。ただ感情に任せて魔力を暴発させるのみ。
「剣に魔力を封じられ、さぞ無念だったでしょうな」
ウィンスの視線の先に、セスの手から離れたアシュテネの剣がある。
「安らかに眠りたまえ。誇り高きアシュテネ王よ」
彼の振り下ろした剣が、王の剣に埋められた宝玉を砕き割った。
砕かれた魔石は、封じ込めた魔力を拡散させる。還るべき持ち主のいない魔力は、いずれ虚空に溶け、自然と一体となるだろう。
大聖堂の隅。壁にもたれて二人の戦いを見届けたフェルメルトの目は、失望の色で塗りつぶされていた。
ウィンスとフェルメルトは揃って、シルキィの華奢な背中に目を向ける。涙に濡れる少女は死別の悲哀を体現していたが、彼らの心には響かない。
彼らの故郷が蹂躙された時、このような光景はどこを見ても珍しくなかった。親を殺された子が。子を失った親が。友人を失った男が。恋人を失った女が。一体どれほどの憎しみと悲しみを抱いただろうか。
「業の深い生き物だな。人間とは」
「まったくだ」
フェルメルトは、同じ過ちを繰り返すことを指して言葉にした。
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