頼縁の鎖-Chains of Reliance-

依篭 塗吏

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1章

CHAIN:03-3

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店の中央のふれあいスペースでは、実に微笑ましい光景が広がっていた。
玖珂が犬用のクッキーを片手に、シェパードたちへ振る舞っている。

「ほら、お座り。……よし、いい子!」

弾むような声に応えるかのように、犬たちは尻尾を大きく振り、嬉しそうに彼の手からクッキーを受け取っていく。
その愛らしい姿を、少し離れた場所から沙門寧火がカメラを構えて撮影していた。

ファインダー越しに映る玖珂と犬。
じっと見つめていた寧火は、シャッターを切った瞬間、普段の冷静な表情をふっと緩めてしまう。

「…かわいい」

零れた声は小さかったが、確かな温度を帯びていた。
その眼差しには尊敬と憧れが重なり、温かな色が宿っていた。

一方テーブルでは、礫は楓馬の隣に腰を下ろし、端末の画面を覗き込んでいた。
そこに映っていたのは、楓馬の個別戦術試験の映像。
楓馬の動きを目で追いながら、礫は軽く顎に手を添え、指先で要所を示す。

「ここだな。突っ込むのは悪くないけど、鎖をもう半拍遅らせろ。相手の反撃を誘ってから締めれば、確実に動きを封じられる」
「…はい」

短く返す楓馬。真剣な眼差しは一点を外さない。
再生を進め、別の場面で礫の指が止まった。

「それと、二体目を崩したとき。腰がわずかに浮いてる。スピード型の相手なら、その半瞬で反撃をもらう可能性がある。下半身をもっと安定させろ」

落ち着いた声に、楓馬は素直に頷く。
やがて動画が終わると、礫は端末を操作し、再び最初から映像を流す。
静かな店内に、小さく鎖の唸りや獣の咆哮が響き、楓馬の動きが繰り返される。

「……昔の癖も治ってるな」

短く呟き、礫は画面を指先で止めた。

「動きに迷いがない。技術だけじゃない、心がついてきた証拠だ」

しみじみとした声を落とし、礫は端末から視線を外す。
そして隣にいる楓馬を見据え、にこりと笑みを浮かべた。

「――強くなったな」

その一言と共に漂う温かさが、楓馬の胸に静かに沁みこんでいった。

犬たちにクッキーをあげ終えた玖珂と寧火が、賑やかさをまとって戻ってきた。
玖珂はまだ興奮冷めやらぬ様子で、勢いそのままに礫へ身を乗り出す。

「ねぇ~、礫さんってどうしてここで働いてるの? せっかく強いんだから、軍に入ればパパパ~ッと出世できると思うんだけど?」

軽口に、隣の寧火も小さく頷いて同意を示す。
礫は二人を見て、くすっと笑った。

「俺は軍人だぞ。ただ、土日だけはこうしてここで働いてる。…俺にとっては、ここで働くのがいちばん都合がいいんだ」

あっけらかんとした言葉。
けれど、その声には妙な重みがあった。
寧火が淡々と口を開く。

「…軍に入ってても、副業ってできるんですね」

礫はにかっと笑い、肩を軽く揺らす。

「任務の妨げにならないなら自由なんだ。規則上はな」

軽い説明に、玖珂の目がぱっと輝く。

「特別戦闘科って、卒業したら軍隊決定なんですよ~。でも礫さんと一緒なら別にいいかなって!」

勢いのまま飛び出した無邪気な言葉に、寧火がわずかに眉を上げる。
礫は、楽しそうに声をあげて笑った。

「そうか?でも俺の指導は厳しいぞー?」

冗談めかした声音。
だがその奥に、一瞬だけ鋭い光が走った。

ほんの刹那の真剣さが混じっただけで、場の空気はきゅっと引き締まる。
玖珂は思わず背筋を粟立たせたが、それでも口元には期待めいた笑みが浮かんでいた。

楓馬はカップの縁を指先でなぞりながら、ふと横に視線を移す。
壁際に掛けられた薄型テレビが目に入り、自然と意識が映像へ引き寄せられていった。

『今年のトレンドアイテムはこれ、緑のアイテムです!』

明るい音楽に合わせて、画面いっぱいに翡翠色の光を放つブレスレットが映し出される。
カメラが寄ると、手首に巻かれた緑の輪がスタジオのライトを浴びてきらめいた。

『街中でつける人が増えてますよね~。私も付けてます、ほら!』

女性タレントが笑顔で腕を掲げる。
ガラス細工のような緑のバングルが、光を反射して眩しく瞬いた。

画面の輝きがそのまま楓馬の瞳に映り込み、反射した緑の光が彼の眼差しを染める。

(……見覚えがある。緑の、バング――)

脳裏に、母の手首のバングルが閃いた。
胸の奥がざわりと波打ち、思考が一瞬でかき乱される。

バンッ、と机を叩いて楓馬は立ち上がった。
周囲の視線が一斉に集まるなか、鋭い瞳が客の手首を追う。
だが――どこにも、あの翡翠色はなかった。

「な、なに?どうしたの楓馬……?」

驚いた玖珂が慌てて声をかける。
楓馬は息を整える間もなく、肩をすくめて視線を逸らした。

「……ごめん。ちょっと、トイレ」

短くそう告げると、足早に席を離れていった。





洗面所のドアを押し開けた瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
冷房の風と違う、どこか湿り気を帯びた冷たさ。
白いタイルの壁が無機質に続き、天井の蛍光灯の光は硬質で、鏡の列を白く反射させている。
楓馬は真っ直ぐに歩み、洗面台に両手をついた。

鏡に映るのは自分自身。
そのはずなのに、瞳の奥にはさっきの翡翠色がまだ鮮烈に焼きついていた。

(……緑のバングル。どうして今になって…?)

母の笑顔、優しく触れた手のぬくもり。
そして――手首に光っていた、鮮烈な緑。
たった一瞬の記憶なのに、胸の奥を抉るほどに鋭い。

(いや……ただの流行り物かもしれない。考えすぎだ……けど――)

反論しようとする理性と、抗いがたい直感が衝突する。
耳に届いたのは、水道の蛇口からこぼれる雫の音。
ぽたり、ぽたりと落ちるだけの水音が、やけに大きく反響して鼓膜を叩いた。
その音が、現実から思考を引き剥がす。

楓馬は深く息を吸い、肺の奥まで冷気を満たす。
そして吐き出すとき、胸のざわめきを押し出すようにゆっくりと息を吐いた。
顔を上げ、改めて鏡を見据える。

そこに映っていたのは、いつもの自分――のはずだった。
けれど表情は硬く、瞳の奥にはまだ残像が揺らめいている。

(大丈夫。いつも通りに…僕ならできる)

唇の動きだけで小さく呟き、瞳を細めた。
決意を刻み込むように、自分自身と向き合う。
そのまま洗面所を後にし、足音を整えて店内へ戻った。

席へ腰を下ろすと、すぐさま玖珂が身を乗り出してくる。

「楓馬、大丈夫?」

心配の色を隠せない声。
楓馬は軽くうなずき、柔らかな笑みを浮かべた。

「うん、平気。驚かせてごめん」

声は穏やかだったが、瞳には光が宿っていなかった。
空虚さを含む眼差しに気づいたのか、玖珂の肩がびくりと震える。
隣の寧火もわずかに表情を揺らし、落ち着きを崩した。

「……も、もう、びっくりしたんだから!やめてよね~…」

玖珂はわざと明るく声を張り上げ、空気を軽くしようとする。
寧火もわずかに眉をひそめながら、小さく頷いて合わせた。
その動きに場の緊張は解けたように見えたが――寧火の目は、ふとした瞬間に差す影を見逃さない。

一方、礫だけは黙したまま楓馬を見据えていた。
にこやかな口元を崩さず、眼差しの奥に探る光を宿したまま。

(……この癖だけは、簡単に治るもんじゃないな)

静かな内心の断じが、礫の胸の奥で響いていた。




会計を済ませると、入口まで礫見送りに出てきた。
ガラス越しに差し込む午後の光が二人の姿を縁取る。

「本日はありがとうございました」

景焼が静かに一礼し、柔らかい声を添える。
礫は片手を軽く振り、にこりと笑った。

「また寄ってくれよ。次までに新しいメニュー考えとくからな」
「はい、また来ます!」

玖珂が元気よく答え、声に弾みを乗せながら深々と頭を下げる。
それにつられるように、楓馬と寧火も自然に並んで頭を下げた。
三人の仕草は不思議と揃い、その一瞬、店先に温かな空気が広がる。

ガラスのドアを押し開けると、街のざわめきが一気に押し寄せてきた。
人々の話し声や笑い声、車の走行音、噴水の水音――昼下がりの賑わいが耳を満たす。

「よし!17:00に駅前に学苑の迎えの車来るから、それまで時間潰そ!」

通りに出るや否や、玖珂が振り返らずに声を弾ませた。
その明るい調子に押されるように、三人は歩き出す。

噴水広場では水のしぶきが陽を反射し、子どもたちの笑い声が跳ねていた。
美術館の前には長い列ができ、駅ビルに入れば雑貨や服飾の店から呼び込みの声が飛んでくる。
休日ならではの喧噪が、通りの隅々にまで濃く染みわたっていた。

楓馬は無言のまま、周囲を見回す。
街の雑踏や人々の表情、聞こえてくる声の断片まで――まるで記録するように瞳に刻み込みながら、黙々と歩を進めた。

やがて家電量販店の前に差しかかったとき、玖珂が「あっ」と声を上げる。

「そういえば、楯川兄にパンケーキメーカー頼まれてたよね。忘れる前に買っちゃお!」

勢いよく言い放つと、三人はそのまま自動ドアをくぐっていった。
「ピンポーン」という機械的なチャイム音が響き、店内特有のひんやりとした空気が頬を撫でていく。
天井から吊るされた白色照明が床を均一に照らし、並んだ家電の金属面が一斉に光を弾き返していた。

通路の両脇には炊飯器や電子レンジ、オーブントースターが規則正しく並び、棚ごとに「セール」「新商品」の赤いポップが踊っている。
休日とあって客も多く、子どもが無邪気にボタンを押す姿や、真剣な面持ちで説明を受ける夫婦の姿が目に入る。

三人は矢印の描かれた案内プレートを頼りに調理家電コーナーの奥へ進んだ。
「ホットプレート/パンケーキメーカー」と記された札の下には、ずらりと各メーカーの箱が並び、展示台の上には艶やかな新製品が整然と整列している。

棚にはホワイトやパステルカラーの本体が並び、照明を受けてやわらかに光沢を放っていた。
値札には「4,980円」「6,280円」といった手頃な価格が並び、ケース越しの見本機はどれも新品の輝きを纏っている。
ポップには明るいキャッチコピーが躍り、いかにも家庭向けといった雰囲気を漂わせていた。

寧火は値札を一通り眺め、静かな声で呟く。

「……普通は、このくらいの値段だよね」

そのとき、玖珂が勢いよく振り返り、ちょうど通路を通りかかった青いエプロン姿の店員に声を張った。

「すみませ~ん!一番高いパンケーキメーカーを探してるんですけど…」

突然の大声に、店員は一瞬目を瞬かせたが、すぐに営業スマイルを浮かべて近づいてくる。

「パンケーキメーカーですね。当店で取り扱っているのはこちらの棚にある商品がすべてになります。ご希望でしたら、お取り寄せも可能ですよ」

そう言うと、店員は近くのラックに積まれた分厚いカタログを手に取り、ページをぱらりと開いた。
光沢紙に載っていたのは、家庭用とはまるで異なる無骨な金属の塊。
銀色のボディは業務用らしい重厚さを誇示し、説明文には大げさな文言が並んでいた。

「一度に12枚焼き上げ可能!」
「ふわもち食感の黄金比率!」
「カフェ・レストラン必携!」

玖珂は思わず食い入るようにカタログを覗き込み、指先で値段欄をなぞった。

「……これ、八万だけど」

数字を二度見する玖珂の横で、寧火がちらりとカタログへ目を落とす。
落ち着いた声が、冷ややかに現実を突きつけた。

「どう見ても業務用だね。家庭用の域を超えてる」

楓馬は短く息を吐き、淡々とした仕草でカタログを閉じる。
静かに店員へ返すと、抑揚を抑えた声で告げた。

「……すみません。他をあたります」

店員が軽く会釈して離れていくのを見送り、三人はそのまま店を後にした。

――その後。
彼らは街を歩きながら、いくつもの家電量販店を巡っていった。
駅ビルの大型店、商店街の電気屋、郊外型のショッピングモール。
休日の賑わいの中、展示棚には新品の家電が整然と並び、家族連れの笑い声や説明を受ける客の声が飛び交っている。

だが、どこを探してもパンケーキメーカーの値段はほぼ横並び。
高くても一万円前後が限界で、それ以上となるとすべて業務用の巨大なマシンだった。

三軒目の量販店を出たところで、玖珂がついに足を止める。
人の流れが途切れた歩道で額に手を当て、大げさに嘆息した。

「どこの店行っても一万円が限界……。五万円以上ってなると、もう完全に業務用のパンケーキマシンだし」

肩を落としてぼやく玖珂に、寧火が冷静な声で応じる。
足を止めずに横を歩きながら、ちらりと玖珂へ視線を送った。
その横顔は変わらず落ち着いていたが、声音はきっぱりとしていた。

「流石にあれを買って帰ったら…刃雅さん、呆れるどころじゃなく本気で怒ると思うよ」

落ち着いた口調とは裏腹に、その瞳の奥にはかすかな苦笑が宿っていた。
玖珂は小さく声を詰まらせ、視線を逸らして唇を尖らせる。

その隣で、楓馬は無言のまま周囲へ視線を巡らせていた。
行き交う人々、絶え間ない雑踏の音、街路に並ぶ色とりどりの看板。
無意識に、目は人混みの奥を探るように動いていく。

――そして、ふと。

雑踏の向こうを歩く女性の手首に、光を帯びた緑のバングルがちらりと映った。
陽光を受けて翡翠色にきらめき、その一瞬が楓馬の瞳を鋭く射抜く。

(……見つけた──)

心の中で低く呟いた瞬間、視界の端から余計なものがすべて消えていく。
行き交う人々も喧騒も遠のき、ただ緑のバングルだけが異様に鮮やかに浮かび上がっていた。

その横で、玖珂が肩をすくめて声を上げる。

「しょーがない、さっきの可愛いやつ買って帰るか。……楓馬、お金ちょうだ――」

差し出された掌へ、楓馬は無言のまま財布を開き、一万円札を乱暴に叩きつけるように渡した。

「うわっ……」

玖珂が思わず目を瞬かせる。

そのとき、ふと見上げた楓馬の顔は――笑っていた。
だがその目には光がなく、深い影だけが宿っている。
普段の落ち着きでも、淡々とした無表情でもない。
先ほども一瞬見せた、空虚な笑顔だった。

楓馬は短く息を吐き、押し殺すように言葉を落とす。

「ごめん、先帰ってて。足りなかったら今度返す」

それだけ言い残し、二人の制止も聞かずに反対方向へと歩き出した。
背筋を伸ばし、ただ真っ直ぐで、迷いのない背中。

「えっ、ちょっと!」

玖珂が慌てて声を上げるが、楓馬は振り返りもしない。
人波に紛れるように歩みを進め、その姿は少しずつ遠ざかっていった。

「変なの~」

頬を膨らませ、ぶつぶつと文句を言う玖珂。
その隣で寧火は黙ったまま、雑踏に溶けていく楓馬の背中を目で追い続けていた。

「……楓馬くん、どうしたんだろ」

残された二人はそれ以上言葉を交わせず、ただ黙ってその背中を見送るしかなかった。
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