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愚かな恋
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「好きなんだ」
本日何度目かのセリフを彼が言った。
私は、静かに頷く。
「好きなんだ。本当に、好きなんだ」
居酒屋で泥酔してからずっと言い続けているその言葉は、私の家に来てからも続いていた。
「好きなんだ。里美」
彼の背中をさすっていた私の手が一瞬止まる。それをごまかすように、立ち上がり、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出した。
「わかってるってば。だからさ、孝臣。水、飲もう?」
そう言って彼に、ペットボトルを渡した。孝臣は一口含んだだけで、すぐに私にそれを戻した。
そして、呪文のように繰り返すのだ。「里美。好きなんだ」と。
私の顔を見て、私のではない名前を呼ぶ。
私と孝臣、そして里美は、同じゼミの仲間だ。私と里美は大学一年の時、同じ講義で出会い、孝臣とは2年になって、同じゼミに入り知り合った。
それから一年、私たちはバカな話をし、時々真面目な話をしながらずっと一緒にいた。誰から見ても、私たちは、仲のいい「友達」だった。
けれど、孝臣は里美に恋をしていた。視線を感じて振り向けば、そこにはいつも、栗色の髪が見えた。里美の隣にいただけの私が気づくほど孝臣は里美だけを見ていたのだ。
その里美は、もうすぐ結婚する。今年の3月に院を卒業したばかりの彼氏と。そして、冬には赤ちゃんが生まれるのだ。そのために、長かった髪をばっさりと切った。今日は、その報告だった。
孝臣も、里美には長い間付き合っている彼氏がいることは知っていた。彼に会ったこともある。けれどそれでも、「付き合っている」と「結婚する」では重みが違った。そして2人の間には小さな命が宿っている。
孝臣は、完全に諦めなくてはいけなくなった。
だから孝臣は繰り返すのだ。里美には言えない言葉を。里美ではない私に向かって。
「好きなんだ」
「うん」
「好きなんだよ」
「うん。わかってるよ」
うわ言のような言葉に、何度も何度も頷く。
だって私は本当に知っているから。孝臣がどれだけ里美を好きなのか。どれだけ里美を見てきたのか。
だから、わかっていると頷く。それしか、できないことがもどかしい。
「里美!」
そう名前を呼んで、孝臣が私を押し倒した。どん、と頭を打ち付けた鈍い音が響く。
けれど孝臣は気にせず、服の中に手を伸ばした。
「やっ…」
胸に伸ばされた手に、抵抗をしようとして、やめた。
間違っていることはわかっていた。でも、彼を笑顔にしたかった。
「孝臣くん」
優しい声で名前を呼んだ。里美の呼び方で。
ゼミの友達も、サークルの友達も、彼を「孝臣」と呼び捨てにする。けれど、里美だけは「孝臣くん」と呼んでいた。
「孝臣でいいのに」と言いながらも、里美だけ特別なその呼び方を気に入っていることを私は知っている。
「孝臣くん」
もう一度読んだ。彼に手を伸ばす。好きにしていいよ、そんな気持ちを込めて。
けれど、その手は掴まれなかった。
「……理子。…ごめん」
ようやく彼が私の名前を呼んだ。小さな声で謝りながら私と距離をとる。
その距離が自分たちの距離を示しているようで、なんだか泣きそうになった。
「俺、酔ってて…。ごめん」
何に対しての「ごめん」なのかわからなかった。孝臣はたぶん、私の気持ちを知っている。
「私じゃ、だめ?」
好きだった。孝臣が里美を見ていたのと同じくらい、私は孝臣を見ていた。栗色の髪が見えると嬉しかった。私を見ていないことをわかっていても、目が合うと嬉しかった。
「…」
「里美の代わりでいいよ」
「え?」
「孝臣くん」
「…」
「孝臣くん」
口を閉ざす彼の名前をもう一度呼んだ。里美だけの呼び方で。
まっすぐに見つめてくる彼との距離を少し縮めた。後ろにまだスペースはあった。けれど彼は下がらない。
だから、手を伸ばした。ゆっくりと包むように孝臣を抱きしめる。
「里美だと思っていいよ」
「…」
「好きにしていいよ」
私は彼の唇に自分のそれを重ねた。啄むようなキスを繰り返す。
小さく開いた口に舌を差し込んだ。孝臣もゆっくり舌を絡めてくる。
その夜、私は、彼に抱かれた。
「里美。っ…里美…」
彼は「里美」の名前を呼び続けていた。
朝日が差し込む部屋の中、裸のままの孝臣が静かな寝息を立てていた。
間違っていることは知っている。里美の代わりになどなれないことも。
けれど、それでも、その寝顔を見て、幸せだと思ってしまった。
報われない恋をした。それでも、彼の腕の中は暖かくて、だから、私は目を閉じた。
あと少し、夢の中にいたいから。
本日何度目かのセリフを彼が言った。
私は、静かに頷く。
「好きなんだ。本当に、好きなんだ」
居酒屋で泥酔してからずっと言い続けているその言葉は、私の家に来てからも続いていた。
「好きなんだ。里美」
彼の背中をさすっていた私の手が一瞬止まる。それをごまかすように、立ち上がり、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出した。
「わかってるってば。だからさ、孝臣。水、飲もう?」
そう言って彼に、ペットボトルを渡した。孝臣は一口含んだだけで、すぐに私にそれを戻した。
そして、呪文のように繰り返すのだ。「里美。好きなんだ」と。
私の顔を見て、私のではない名前を呼ぶ。
私と孝臣、そして里美は、同じゼミの仲間だ。私と里美は大学一年の時、同じ講義で出会い、孝臣とは2年になって、同じゼミに入り知り合った。
それから一年、私たちはバカな話をし、時々真面目な話をしながらずっと一緒にいた。誰から見ても、私たちは、仲のいい「友達」だった。
けれど、孝臣は里美に恋をしていた。視線を感じて振り向けば、そこにはいつも、栗色の髪が見えた。里美の隣にいただけの私が気づくほど孝臣は里美だけを見ていたのだ。
その里美は、もうすぐ結婚する。今年の3月に院を卒業したばかりの彼氏と。そして、冬には赤ちゃんが生まれるのだ。そのために、長かった髪をばっさりと切った。今日は、その報告だった。
孝臣も、里美には長い間付き合っている彼氏がいることは知っていた。彼に会ったこともある。けれどそれでも、「付き合っている」と「結婚する」では重みが違った。そして2人の間には小さな命が宿っている。
孝臣は、完全に諦めなくてはいけなくなった。
だから孝臣は繰り返すのだ。里美には言えない言葉を。里美ではない私に向かって。
「好きなんだ」
「うん」
「好きなんだよ」
「うん。わかってるよ」
うわ言のような言葉に、何度も何度も頷く。
だって私は本当に知っているから。孝臣がどれだけ里美を好きなのか。どれだけ里美を見てきたのか。
だから、わかっていると頷く。それしか、できないことがもどかしい。
「里美!」
そう名前を呼んで、孝臣が私を押し倒した。どん、と頭を打ち付けた鈍い音が響く。
けれど孝臣は気にせず、服の中に手を伸ばした。
「やっ…」
胸に伸ばされた手に、抵抗をしようとして、やめた。
間違っていることはわかっていた。でも、彼を笑顔にしたかった。
「孝臣くん」
優しい声で名前を呼んだ。里美の呼び方で。
ゼミの友達も、サークルの友達も、彼を「孝臣」と呼び捨てにする。けれど、里美だけは「孝臣くん」と呼んでいた。
「孝臣でいいのに」と言いながらも、里美だけ特別なその呼び方を気に入っていることを私は知っている。
「孝臣くん」
もう一度読んだ。彼に手を伸ばす。好きにしていいよ、そんな気持ちを込めて。
けれど、その手は掴まれなかった。
「……理子。…ごめん」
ようやく彼が私の名前を呼んだ。小さな声で謝りながら私と距離をとる。
その距離が自分たちの距離を示しているようで、なんだか泣きそうになった。
「俺、酔ってて…。ごめん」
何に対しての「ごめん」なのかわからなかった。孝臣はたぶん、私の気持ちを知っている。
「私じゃ、だめ?」
好きだった。孝臣が里美を見ていたのと同じくらい、私は孝臣を見ていた。栗色の髪が見えると嬉しかった。私を見ていないことをわかっていても、目が合うと嬉しかった。
「…」
「里美の代わりでいいよ」
「え?」
「孝臣くん」
「…」
「孝臣くん」
口を閉ざす彼の名前をもう一度呼んだ。里美だけの呼び方で。
まっすぐに見つめてくる彼との距離を少し縮めた。後ろにまだスペースはあった。けれど彼は下がらない。
だから、手を伸ばした。ゆっくりと包むように孝臣を抱きしめる。
「里美だと思っていいよ」
「…」
「好きにしていいよ」
私は彼の唇に自分のそれを重ねた。啄むようなキスを繰り返す。
小さく開いた口に舌を差し込んだ。孝臣もゆっくり舌を絡めてくる。
その夜、私は、彼に抱かれた。
「里美。っ…里美…」
彼は「里美」の名前を呼び続けていた。
朝日が差し込む部屋の中、裸のままの孝臣が静かな寝息を立てていた。
間違っていることは知っている。里美の代わりになどなれないことも。
けれど、それでも、その寝顔を見て、幸せだと思ってしまった。
報われない恋をした。それでも、彼の腕の中は暖かくて、だから、私は目を閉じた。
あと少し、夢の中にいたいから。
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