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第一章 妖精と呼ばれし娘

七 粋を凝らした無粋(4)

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 それからというもの、ハンナはアルフレッドに言われた通り未亡人の目を盗みながらリュリに宮廷式の教育を施し始めた。リュリはハンナの知る誰よりも呑み込みが恐ろしく早かったため、二日後に迫った仮面舞踏会までに必要な作法を叩きこむのに随分と明るい展望が見えた。
 特筆すべきは彼女がすでに礼を未完成ながら身に着けていたことであった。他のことは仮面舞踏会では無礼講、目をつむられるのが通例なので、あとはちょっとした隙や間違いを正し、ダンスを学ばせるだけだった。
 彼女はおどおどしながらもハンナの言うことをよく聞いて行動し、褒めてやると子供のように顔を明るくして喜んで見せた。その健気な様子を見て、ハンナはアルフレッドがリュリに気を許した理由がわかってきた気がしていた。
「ハンナ、どうかな」
 白金色の髪をひとまとめにし、サテンのワンピースをまとったリュリは、ハンナに倣ったとおりに礼をし、おずおずと頭をもたげた。ハンナは腕を組んでそれを見ていたが、実演して見せながら指摘した。
「裾をつかみすぎですね。裳裾に皺が出来ないように指先でつまみ上げるようにするんです。ほら、お嬢さまもやってみてくださいよ」
「おじょうさま、じゃないよ?」
「仮にそうでも、今はそうなんですからね。それに――」
「えと、…では、ありませんわ」
「そうですね、言葉尻が大切ですね」
 少女はお嬢さまと呼ばれる度に訂正してきたが、そんなことは無駄だとハンナは思っていた。
 浮世離れした可憐さと儚さはおとぎ話の妖精のようだし、おっとりとした気風は生まれの良さを思わせた。どこの出身かはわからないが、伯爵家の嫡男が連れていこうとする女性なのだから、どうであれ気品というものが大切になるのだ。たとえ仮面舞踏会であっても、そしてこれ一回きりの同伴者であったとしても。
 ハンナは、何回も礼を練習させた後、ミュールを履いた時の歩き方、歩幅、そして口元を隠すのに使う扇の使い方、そして今回の舞踏会に必要な仮面をつけたままでの行動を指導した。リュリは全ての道具を興味心身に手にとり観察したがったが、ハンナはぴしゃりとそれを夜の時間に回すように言い放ち、彼女が割いた限られた時間のすべてで指導に当たった。
「ハンナ、どうもありがとう」
「ございます」
「ありがとうございますわ」
「大変結構。ではお嬢さま、今日はここまでにしましょう。また明日定刻に。是非復習しておいてくださいね。それと靴ずれが辛かったら早く言うんですよ。あれは拷問の類ですからね」
「うん。じゃなくて、……はい。あ、あと……」
 ハンナは早口で注意事項をまくしたてた。
 リュリが彼女に尋ねようと口を開いた時にはすでに彼女は扉を開けてそそくさと仕事に戻って行ってしまった後だった。
 すると、ハンナと入れ替わりにアルフレッドが部屋へ入ってきた。
 すぐに扉を閉めた彼は、コットンのシャツにリネンのパンツという気楽な格好をしていた。だが、リュリの姿をとらえると、すぐに目を逸らしてしまった。しかしそっぽを向きながらも声をかけてきた。金髪を一つに結びきっているので、彼の大きな耳が赤く染まっているのが丸見えだった。それを見て、リュリの心も不思議とドキドキと脈打つのだった。
「なんだか、雰囲気が違うな……」
「……そうかも。そうだよね」
 リュリは、すぐ目の前の壁に掛けてある姿見に映る自分を見て苦笑いし、それに同意した。
 いつもの麻のくたびれたチュニックとスカート、ニッカーボッカーズは鞄の中にしまわれており、大きな鏡に映ったのは、見たことも無い令嬢だった。リュリがおどおどと見つめると、鏡の中の彼女はこちらにむかって胸を張り、自信満々に笑って見せた気がした。
「似合わない、よね。ハンナはお嬢さまっていうし、なんだか、違う世界に来ちゃったみたいだよ」
「そんなことはな……!」
 アルフレッドは喉に何かを詰まらせたのか、二つ三つ咳き込むと、まばたきを重ねて深呼吸し、ぽつりとつぶやいた。
「……ん、に、似合ってる……」
 至極言いにくそうにくれた褒め言葉で、リュリの頬は一瞬で茹で上がった。
「で、でも、わたし、おじょうさまとかじゃないけど! けど、けど、大丈夫、かな……?」
「大丈夫だ。……にあ、ってる……。頼むから何度も、言わせないでくれ……」
 リュリは、彼の声が早口で、若干のとげを帯びていたのに驚いて、思わずアルフレッドの方を見た。
 彼はまだ瞳をちらちらと動かしてはいるものの、目を合わせようとはしてくれなかった。
 けれども、彼の精悍な顔は彼女の方へ向いていた。その口元はまごついていて、何かを言おうと、あるいは言うまいとしているようだった。そして、ゆるく一つにまとめたブロンドの毛先を左手で弄んでいた。
 露わにされた緊張感がリュリにも伝わって、彼女も後れ髪をついいじってしまった。
 アルくんも、わたしとおんなじ気持ちなのかな。
 少女がそう思っていると、アルフレッドは急に彼女の方に向き直った。
「と、ところでだな! ダンスのことなんだが……」
「そ、そう、それ! わたし、てっきりハンナが教えてくれるって思ってたんだけど、違うみたいで。他の先生が来るのかな。ね、アルくん、何か知ってる?」
 アルフレッドは、まさにリュリの聞きたかった話題を切り出してくれた。ハンナに尋ねようとしていた矢先に彼女が足早に去ってしまったので、彼女はここぞとばかりに食い付いた。だが、アルフレッドは歯切れ悪く答えた。
「その……。違うんだ。俺が、教える……ことになった」
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