上 下
49 / 140
第一章 妖精と呼ばれし娘

七 粋を凝らした無粋(6)

しおりを挟む
 アルフレッドはリュリにダンスの一通りを教えると、彼女の言葉も聞かず、すぐに隣の自室へ戻った。
 勢いよく扉を閉めると、同じように自身の寝室へ行き、そのままの勢いでベッドへと倒れ込んだ。扉の音は彼女の部屋にも聞こえたに違いない。そう思うと、また気持ちの整理がつかなくなってきて、彼は束ねた髪が乱れるのもかまわず頭をかきむしった。陽はまさに落ちようとしていて、室内を明るく照らしだすだけの力はなかった。
 彼が社交界から離れて、既に五年は経っていた。彼は、彼の予想していた以上に社交界に必要なスキルを失っていなかったようで、リュリがそれなりにステップを踏めるようになるくらいには指導することが出来た。このままいけば、仮面舞踏会当日に彼女を連れて行っても彼女が恥をかくことはなさそうだった。しかし彼の心をかき乱すのはそのことではなかった。
 社交界は、兄と義姉のいた華やかな場所であり、アルフレッドが社交界に顔を出す目的はただ一つ、義姉をエスコートし、そのダンスのパートナーを一瞬でもしたいがためだった。既に伯爵夫人として身分も地位もあった彼女に近付けるのは、たったこの時だけだったから。
 兄がその姿を消してから、彼は舞踏会という機会から遠ざかった。非常時だからこそ、未亡人が少しは自分のことを頼ってくれないかと期待した自分と、義姉の兄への愛ゆえの義理堅さに直面し、アルフレッドはその恋心を心の奥深くにしまおうと決意した。
 そうしてながらく凍りついていた青年の心に、一つの暖かい灯火が生まれようとしていた。
 忘れようと努力してきた感情がゆっくりと芽生えはじめているのを感じ、アルフレッドは今、戸惑っていた。舞踏会に出席するのは、ほかならぬ未亡人の要求を叶えるためだと考えていた。しかし、あのいたいけな少女の純真さが気になっているのも確かだった。
 すると、扉の奥から小さなノックが聴こえた。
「アルフレッドさま」
「なんだ」
 若い女中の声がすると、アルフレッドはすぐさま返事をし、招き入れる。扉を重たそうに開けて入ってきたのは先日と同じの黒い髪をした女中だった。
 少女は癖のない長い髪を下のほうで二つに結びきっており、彼女は簡易的に会釈をするとそれがさらりと揺れた。そして、まるで自分の感情がないかのように事務的に連絡事項を述べた。
「お休みのところ失礼いたします。奥方さまがお茶をいかがかとおっしゃられています」
「お義姉さまは随分お茶がお好きだな。君もそう思わないか?」
「……」
 青年がため息交じりに乱れた髪形を直しながら冗談を飛ばしても、彼女はうんともすんとも言わず、にこりともしなかった。彼はその様子を目の端でみとめる。
「悪かったよ、今、行くと伝えてくれ」
「かしこまりました」
 失礼いたします、と黒髪の女中が出ていくと、アルフレッドはもう一つため息を漏らした。同時に髪を束ね終えた両腕をだらりと垂らす。
「これは、誰のためでもない。俺のためだ」
 着なれたシャツの首元を改め、リボンタイを緩く結ぶ。お守り代わりにと、懐にリュリからもらった薫る小瓶を潜ませて、彼は何も持たずに自室を後にした。

 貴婦人の部屋の前には、先程の黒髪の女中が音もなく控えていた。アルフレッドがその扉の目前にたどり着くまで彼を見ようともしなかったが、彼は別段大したことのない風に思っていた。なぜなら、その瞳が合えば、声をかけずとも扉を開けてくれて、未亡人の晩餐前のお茶会を始める準備をしてくれるからだ。アルフレッドは女中としての仕事ぶりが良ければ、愛想の良し悪しは気にしない性質だった。
 アルフレッドの分の茶器が用意されると、女中はそのまま部屋を後にした。アルフレッドはそれが済むまで、そして未亡人から声がかかるまで戸口の近くで待っていたが、女中が出ていくと同時に未亡人がテラスのテーブルから動かず、彼に向って手招きをした。彼は厚い絨毯の上を重たげな足取りで夕陽の射すテラスに向かった。
「アル。噂を耳にしたのですけれど、この度の仮面舞踏会に出てくださるというのは、本当かしら」
 彼に背を向けたまま、未亡人は落ちる陽を愛でながら言った。
「にわかに信じ難くて。ごめんなさいね、あなたに信用がない、と言いたいわけではないのよ。だってこんなこと、いままでにないことなのだもの。かといって、噂を鵜呑みにするような真似はしたくありません。あなたの口からお聞かせ願えないかしら」
「疑われるのはもっともでしょうね。俺は遊び人ですから。ですが、残念ながら本当ですよ、義姉上。それに、レディの瞳を曇らせるようなことをするのは俺の主義に反しますから」
 彼が本音を虚偽でくるんだのを、彼の義姉はどう受け止めたのかはわからなかった。だが、その答えは、ほんの少し見せてくれた横顔に集約されていた。オレンジの光が彼女の顔に濃い影を落とし、瞳がきらりと閃いた。青い瞳が一瞬だけ、冷徹に。
「それでは、楽しんでいらっしゃいね、小さなレディと共に」
「そうですね、奥方の推薦する姫君ならばデビューした時からレディに違いありません」
 アルフレッドの拳が固く握りしめられる。女中の噂の足はそんなに早かったのだろうかと彼は訝った。口元が引き締められる。それは目の前の未亡人も同様だった。
 静寂がしばし空間を支配する。
「ふふっ。うふふふ! いつも思っていましたけれど、そういう性質の悪い話し方はあなたには似合いませんわね!」
 すると、彼に走った緊張に水をさすように、貴婦人はいきなり声をあげて少女のように笑いだした。肩を震わせて屈託のない、しかし確実に年を重ねてきた女性のそれだった。そして、膝の上に載せられた二つの豪奢な仮面を持ち、立ち上がってアルフレッドに歩み寄った。
「え? ゆ、ユーシィ? 俺、何か変なことを言ったか?」
 一方のアルフレッドは、未亡人の雰囲気ががらりと変わったことに驚きと焦りを隠せず、紳士の仮面がはがれてしまっていた。要するに、感情が表情に直結してしまっていた。
 義姉はそんな彼を気にせず、手に持った仮面の片方を彼に差し出した。金の縁取りの美しい、陶磁器のような肌を持ったそれは、額の部分に宝石をも持っていた。
「これはね、アル、あなたのお兄さまの仮面です。あなたは見覚えがあるかしらね?」
「あ、あるけど! でも、第一、俺が兄貴のものを使ってもいいのかよ?」
 アルフレッドはうろたえながらも差し出された仮面を受け取った。舞踏会に出席したことはあるが、彼の兄が躍るのはユスティリアーナと決まっていて、その光景を見たくないがために最後の舞曲が始まる前にいつも貴族の群れの一番後ろに退散していたものだった。アルフレッドが直接目の当たりにせずとも、周りの人々が口をそろえてボーマン伯爵夫妻を誉めそやすものだから、彼の苦痛は一つも軽減されなかったのだが。
 苦い思い出を少しかみしめる彼には、彼を見やる未亡人の瞳の陰りに気付く余裕はなかった。
「道具は使われるためにあるのですわ。リチャードさまも喜ばれると思うからこそ、それを貸してさしあげると言っているの。おわかりかしら」
 それから、と貴婦人はもう片方の小さな仮面を差し出した。こちらは銀の縁取りが幻想的な、目元のみを隠す仮面だった。男性用のそれとは違って随分軽く、瞳の周りを覆うようにまつ毛のようなものが誇張して描かれていた。まつ毛の先には小さな屑宝石がちりばめられている。
「そちらは先方のお嬢さんへの手土産です。必ずお渡ししてくださいね」
 いたずらっぽく口元をほころばせる彼女を見て、アルフレッドはどうしようもなかった。

 仮面を受け取り、一杯だけお茶をごちそうになってから、彼は自室に戻った。
 今日も晩餐はリュリと彼女の部屋で取るつもりでいた。それまでの時間は考えを弄ぶことにした。書斎に静寂を求めて行き、自身の書きもの机に例の仮面を並べてみた。
 仮面舞踏会には、素顔のままホールに入ってはいけないというルールがある。
 よって、未亡人のいう縁談の相手はいったい誰なのかは知ることはできないし、ましてや会場で仮面をプレゼントすることは笑い話の種になるものだ。
 美しき女傑として社交界に羽ばたくボーマン伯爵未亡人が、そんな単純なルールを知らないはずがなかった。
「かなわねえなあ……やっぱり……」
しおりを挟む

処理中です...