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〈組曲〉Minuet

メヌエット(2)

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 僕が自由を手にして最初にしたことは何だったと思う?
 ここまで聴いてくれた君ならわかるだろう。
 そう、三年前に国境沿いの森で逃がした妹の安否を尋ねることだよ。
 僕は地下室に居る間に頭の中に叩き込んだヴィスタの地図を頼りに王宮を出た。世界は光で満ちあふれていた。ちかちかと目に刺さる痛みがなくなるまで、しばらくかかったよ。
 城下町を一通り歩いてから国境の方に向かった。実際に歩くと距離感というのが体に馴染んできて、ずっと今までこうして生活してきたような錯覚さえ覚えてきていた。
 少しの小銭とアラムの残した荷物を持って、僕はヴィスタ国の東にあるボーマン伯爵の領地エルレイに向かった。瞬間的に移動する魔法については覚えていたけれども、あの魔法は僕自身の頭の中にある記憶に依存するものだから、一度歩いて行ってみなければならなかった。
 十三歳の少年の足で、エルレイへは四日かかった。そもそも三年もろくに運動をしていなかった体に、いきなりの長旅はこたえるものだった。途中、何人も商人や旅人にすれ違った。その度に僕は尋ねた。
「白い髪と翠の髪を持つ、妖精みたいな女の子、知りませんか?」
 尋ねた人たちはみんな、鳩に豆鉄砲を食らわせたような、そんな間抜けな顔をした後にいつも同じことを言った。見たこと無いな、と。
 ちょっとした旅に出て一週間が経ったころ、僕はようやく国境沿いの森を隣とする樵たちの住む町に着いた。ホルツという町だ。
 人々であふれかえる城下町エルンテなんかより人が少なくて、かえって僕には居心地の良い町だった。宿も安かったし、僕はしばらくここを拠点にした。むやみに森の中に入って、自分が遭難するのは避けたかったしね。
 宿屋の小母さんに、世間話がてら、このあたりの様子を聞いてみた。彼女はその職業柄なのか、取っても気さくに答えてくれた。
「僕、このあたりって初めて来たんですけど、どんな感じなんですか?」
「どんな感じ……。そうねえ、商人さんが結構来るわよ。森でとった獣の皮とか肉とかを売りさばく人もいるし、粉を売る人もいる。南のエスパディアから来る人もいるわね」
 僕は彼女にしばらくここに居ると伝えると、興味深い単語を言った。
「あら、もし遊び相手が欲しいなら、南に行くと孤児院があるわよ。いってみたら?」
 僕は勧められるまでもなくそこに行った。町の中の人間関係なんて僕に知ったことではなかったし、僕のただ一つの目的は妹を見つけることだったんだから。
 まだ昼間だったから、森の中は明るかった。
 三年前のあの日の森だと思うと、その落差になんだかそわそわした。
 そう思っていると、木陰から急に小さな白いものが飛び出てきて、僕にぶつかってきた。
「ひゃっ!」
「うわっ!」
 僕はその塊を受け止めた。結構な勢いだったから、僕も危うく転びそうになってしまったが、何とか持ちこたえた。僕は目を疑った。夢かと思った。
「ごめんなさい、ぶつかっちゃった。いたくない? いたくない?」
「あ、うん、なんとか……」
 天使がもてあそんだ雲みたいな、きらきらした白い髪、そして陽光にきらめく翠の瞳。
 僕は本当になんとか彼女の言葉に答えるのが精いっぱいだった。
 妹が生きていた……。
 それだけで、僕の生きる意味が見えてきた。
 それだけで、僕の真っ暗な三年間が報われる思いがしたんだ。
 涙があふれてくる。止められない。鼻も出てくるけど拭く物も無い。
「いたかった? どこいたかった? なかないでー!」
「だ、大丈夫、大丈夫だから……」
 ぼろぼろとその場に泣き崩れる僕に、妹は、その小さな手で頭を撫でてくれた。
 それが逆効果になってさらに泣きじゃくる僕に、彼女は困り果てて、小さなポケットから小さなハンカチを貸してくれた。
「ふきふきしてね、いたいの、ごめんなさい」
 申し訳なさそうにする、七歳になっただろう妹が愛らしくていじらしくて、僕はたまらなくなって彼女を抱きしめた。
「生きていてくれて、ありがとう……」

 僕は戻った宿屋の薄っぺらいベッドの上で悩んだ。妹が生きていてくれた事実は、僕に生きる意味を取り戻してくれたけど、彼女は僕のことをこれっぽっちも覚えていなかった。
 そうだ、これは僕が望んだことだ。両親を目の前で消され、兄から手を放される、そんな苦い記憶を捨てるように言ったのは僕だ。あのときのきらきらは、僕の魔法だったに違いない。彼女の兄だと僕が申し出て、彼女に過去の記憶を取り戻させたら、きっと妹は苦しむはずだ。
 妹の居る場所がわかって安心した僕は、体調を崩してしまったため瞬間移動の魔法を使ってすぐにイグナートの部屋に帰った。イグナートは、熱を出した僕を心配してきて、解熱剤を飲ませてくれた。僕は都合のよいことを考えたよ。そんなことできるわけがないって思うような。そして、ちょっと気を緩めてしまって、考えが口からポロリとこぼれた。
「……過去って、変えられないんですかね……」
「頭が熱でやられとるようだの。……道具はあるんじゃ。ほら、これじゃ。お主の荷物の中に入っておったようじゃがの」
 イグナートは、アラムの荷物の中から布でくるまれた物を取り出した。彼がその包みを開けると、中には竪琴が入っていた。アラムが大事にして、僕にも見せてくれなかったものだった……。それには、見えないほど細い絃が張ってあった。
「絃が無いから……、なんと、張られておる……。《魔法のギフト》を持つ女性の髪でなければ時の竪琴の絃は張り替えられぬはずじゃが……?」
「時の、竪琴……?」
「さよう。これを爪弾けば時を越えることが出来ると言う。じゃが、この絃の様子では一回も持たんじゃろう……」
 僕は朦朧とする意識の中でその言葉をしっかりと頭に焼き付けた。それさえあれば、過去に行ける。過去を、変えることが出来る―。
 その日から僕は、孤児院で育つ妹を遠目に見守りながら、その時が訪れるまでの四年の間、イグナートの食べ物に少しずつ毒を盛った。あの日煮出していた植物の根の液は、香りも味も弱く気付かないほど弱いが、長年の摂取で確実にその肉体を滅ぼす毒だった。
「シュウ、貴様か……一体……」
「お忘れですか、先生。まあそんなご老体ですから無理もありませんね」
「まさか……アラムの……?」
「その死に体でよく思い出してくださいましたね。大正解ですよ」
 苦しみか驚きかはわからないけど、彼が目を見開く。イグナートは喀血と共にしわがれた声を絞り出した。
「時の竪琴が狙いか、ばかものめ……その竪琴の絃は一度でも使えば切れてしまうじゃろう……。二度と、この時間軸に戻ってはこれまい」
 僕は、もうすぐ人生を終える哀れな大先生に教えてあげた。
「戻る気なんかありませんよ、先生。僕は、過去からやり直すんです、あなたが奪っていった愛しい人と共に」 
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