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第三章 その夢は誰が為ぞ

一 躓かないつま先(2)

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 翌朝、六時きっかりに目覚めたルロイは、彼の立てるいびきが消えたお陰で、やっと夢の中に旅立てたヒューゴの鎧を借りた。そして、宿舎の食堂で軽く朝食を済ませるとすぐにブリューテブルク城に向かった。夜勤の兵士と警備を交代するためだ。
 城下町エルンテは、ブリューテブルク城を囲う塀の中に作られており、その入り口から往生の門前までは蛇のように曲がりくねった一本道になっていた。
 万一の事態に備えた街の作りに、初めて訪れた旅人は苦労して城の入口まで歩くことになる。だが、住民はというと、ある種の抜け道をよく知っていて、家と家の隙間を縫いながらほぼ直線的に行きたい場所へと移動することが出来た。
 ルロイもエルンテに住んで五年が経っていたので、その例にもれなかった。彼は宿舎を出ると近道を利用してまっすぐ城の前まで行くと、その門を守っていた兵士に敬礼をし、城内に入っていった。
 見慣れた顔の兵士が何人もいて、彼らと目が合う。しかし、勤務中の兵士に私語の自由は与えられていなかったため、お互いに腕を上げるだけで挨拶を交わした。ルロイはこの、武骨ながらもさりげないやり取りが、自身を含めたむさ苦しい青年兵士たちに相応しいと思い、それなりに気に入っていた。
 城内に勤務する兵士の仕事は簡単だった。鎧を着て、その城の廊下を行き交う人々に怪しい者がいないか確認しながら、割り当てられた区域を見回るだけの仕事なのだ。そもそも、ヴィスタという国は三百年前に終結した戦争以来、ずっと独立を守ってきた平和な国であり、現代を生きる兵士には要人を危険にさらさないといった類いの仕事しか残されていなかった。
 ルロイは、ヒューゴの割り当てられていた城の三階、会議室前の廊下にたどり着くと、そこに立った。元老院の賢人七名がそれぞれの秘書を引き連れて会議室に入っていくのを見送ると、一息ついて吹き抜けのホールから二階を見下ろした。
 そこには、朝から忙しく動く女中たちの姿があった。朝食の時間が終わり、その片付けをしているのだろうとルロイは想像した。
 彼はその中に、真っ直ぐな黒髪を二つに束ねた女中が、少しあたりを見回しているのを見つけた。彼女のあどけなさが自身の妹に重なって、成人した女性が苦手な自分でも話せそうな相手かもしれないと期待を寄せた。
「君、ちょっといい?」
 黒髪の女中はルロイの声を聞いたという証明に、彼の方へすぐに顔を上げてみせ、そしてぱたぱたとすぐに三階のルロイのところまで階段で上がってきた。
 ルロイは彼女を目の前にして少し緊張が高まるのを感じながら、極めて冷静さを保とうと努力した。
「昨日のことなんだけど、魔術師さまがお戻りになった時……」
「……白い妖精を抱いていました。東の塔に居るはずです」
 ルロイは言葉を失ってしまった。
 黒髪の女中が、長いまつげを伏し目がちにして、興味のなさそうな声でルロイの聞きたかった質問の答えをいきなり突き付けてきたからだった。
 ルロイの開いた口が塞がらないのを見て、黒髪の女中はくすりとひとつ笑うと、そのまま階段の方へ歩き出した。
 彼女が階段に足を下ろし始めた頃、ルロイも気を取り直し、その秘密を聞き出そうと彼女を追ったが、時はすでに遅かった。
 彼女は螺旋階段の柱に一瞬隠れたかと思うと、階段の次の段に足を下ろさなかった。
「嘘だろ……」
 ルロイがその階段を駆け下りて行っても、その壁や柱に、扉はもとより、なにかしらのくぼみすらも無く、隠れられる場所はどこにもなかった。
 黒髪の女中は、こつ然と姿を消してしまったのだ。
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