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第四章 幸せを探して

三 届くんだ、暖かさは

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 引き締まった細身の体、その上だけを露出したままの青年は、扉を勢いよく閉め、そこに寄り掛かった。背中に扉の冷たさが感じられ、それが自身の頭も冷やしてくれるような気がした。
 うっかりしていた、と彼は自省した。そして再び顔面を赤く染める。
 その線の細い背格好から、妹のように思えた少女。担ぐにも軽く、見た目にも小さな体。右肩に、まだそのやわらかな重みを感じるような気がした。
「ちっちゃくても女の子、なんだよな……」
 つい勢いで露天商に喧嘩を売ってしまい、成り行きで彼女と二人っきりになってしまったわけだが、彼はそのことについて深く反省していた。惚れ薬に頼りたいほど恋焦がれる相手のいる少女なのだと思うと、邪魔してやるべきではなかったのかもしれない。
「でも、露店の値段なんて、ほとんどぼったくりだしなあ……」
 露天商たちから逃げている途中で、少女は金があると言っていた。おそらく、高貴な出身の少女なのだろう。そんな彼女が、出会ったばかりの兵士と一晩同じ部屋で過ごすなんて、さらには一つの寝台を共有するだなんて、もってのほかだと思われた。
「やっぱり、女将さんに寝椅子とか借りた方が良いかなあ……」
 部屋の扉から少し離れ、階下を手すりから見下ろす。パブから帰ってきた客が千鳥足で部屋に向かっていく姿、そして忙しなく替えのタオルを運んでいる女将の姿が見えた。彼はほんの少し体を乗り出し、声を掛けようとしたが、彼女は通路の影にすぐ立ち去ってしまった。
 しかたなく首を回し、カウンターの横の振り子時計を見る。針は午後八時へとゆっくり向かっているところだった。そろそろ八つの鐘が鳴るだろう。

 重たい時計の鐘が鳴る音を、ロザリンデは着替えながら聴いた。
 びしょ濡れになった町娘風の衣装は、濡れたことにより、その色を更にくすませていた。
 湿った衣装の不快感はすさまじいと彼女は身をもって実感した。雨は下着にまで染み込んでいたため、彼女はしかたなくそれを脱ぎ、女将のよこした寝巻一枚を頭から被った。
「……ぶかぶか……」
 平均的な少女よりも一回り小さな体を持つロザリンデにとって、平均的な女性を想定されて作られた寝巻は一回り大きかった。その証拠に、衿ぐりが大きく開いてしまい、辛うじて肩に引っかかっている状態になっていた。それを鏡で確認すると彼女の頬は上気した。瞳が狼狽でくるくるとまわる。
「……どうしよう……。こんな恰好、ジークフリートにも見せたことないのに……」
 どうしよう、と口の中で何度も繰り返し、ロザリンデは狭い部屋中を裸足でうろうろした。
 年齢は成人の十六歳に達したとはいえ、未だ女性としては未完成の凹凸の少ない体は、たった一枚の寝巻だけに守られていた。そんな無防備な姿を血気盛んと思われる青年の前に晒すと思うと、彼女は貞操の危機を真剣に考え始めた。
「い、いくらなんでも、そんなこと、絶対に避けなくちゃいけないわ……!」
 女王の精神は、その体の成長する速度よりもずいぶん早く成長した。であるから、すぐ隣で女王を支えるジークフリートを意識し始めるのに、そう時間はかからなかった。恋い焦がれる気持ちが盛り上がるとともに、さまざまな恋愛小説を読みあさるようになった。その大概がかなわぬ悲恋の物語だった。それでも彼女は、想い合う男女の美しい描写に自分の気持ちを重ね、愛しあうことについて大いなる理想を抱いた。
 端的にいえば、偶然に出会った人物と一夜限りの関係を結ぶことは彼女の理想に反していた。
 結ばれる為には、まず、恋人同士が深く愛し合うことが必要だと、彼女は強く考えていた。
 己を落ち着かせようと必死に独り言を唱え続ける。
「大丈夫よね! 着替えごときで慌てる男だし!」
 いいえ、ともう一人のロザリンデが彼女の脳内でささやく。
 赤面して慌てふためくのを見たでしょう?
 異性を強く意識しないと、ああは不自然な行動をしないのではなくて?
「た、確かに……。でも、すぐに出て行ったところを見ると、そんな勇気は無いのかも……」
 そこまで言葉を紡ぐと、ロザリンデは自身の論理の隙を見つけてしまった。
 それは、勇気と言う肯定的な言葉を用いたこと。
「え……わらわ……」
 がく然とするロザリンデが、雨の叩きつけられている窓をふと見ると、そこに映りこんだ少女が妖しくほほ笑んだ。
 ほら、本当は期待しているのでしょう?
 ジークフリートのことを忘れさせてくれるような出会いが欲しかったのではなくて?
 気になっているのでしょう、彼のことが。
 真っ直ぐで正義感が強くて、幸い、顔立ちも悪くない。
 あなたのヒーローに相応しいのではなくて?
 彼に抱かれてみたいと、思っているのでしょう?
 素直になったらいかが、ロザリンデ。
「そ、そんなこと……」
 窓辺の彼女の言葉を、ロザリンデは否定できなかった。
 だが、完璧に自身の心を言い当てられるのは、実に悔しく感じられた。
 彼女は苦し紛れに、窓辺でほほ笑む少女の顔を手、のひらで滅茶苦茶にこすってやった。すると、手あかで曇った窓硝子には、下唇を噛んでいるロザリンデが映るだけになった。窓辺の彼女は去ったようだった。
「落ち着くのよ、ロゼ。意識するからいけないんだわ。極めて、冷静に。そう、先に寝てしまえばいいのよ。そうしたら何も気にならないわ」
 落ち着けと唱えながら、彼女はそっと寝台に体を滑り込ませる。固い寝台を覆うひんやりとしたシーツの感触が、彼女の熱っぽい頭を少しだけ冷ましてくれるようだ。
 横たわった彼女の目の前に、きらりと光る物があった。
 彼女は細い腕を伸ばし、それを手に取る。
「……これは、あのときの?」
 ロザリンデはシーツからはい出て、その栓を抜く。中からは思考をもとろかすような甘ったるい香りがした。その香りは露天商の言っていた、魔法の証拠とやらだった。
 彼女の好奇心が再び動き出す。
 惚れ薬程度で揺らぐ信念ではないぞ、と自身に念じて、小瓶を小さな唇に触れさせる。
「ルロイの言うとおりならはちみつ……。そうじゃないなら……」
 こくり、と小さな音を立てて飲み干すと、甘い香りと言い知れぬ熱気が彼女を襲った。
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