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第四章 幸せを探して

五 君に春をみた(2)

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 時間が残されていない中での、好機だった。
「……あれは?」
「え? なんですって?」
 アルフレッドの呟きに、花の水やりをはじめていたヒューゴが振り向く。
 ここまでは狩人の想定と全く同じだった。
「にわかには信じがたいんだが、もしかしてあの影は、人では……?」
「えっ? そんなことってあるんすかね? あそこ、めっちゃ高い場所ですよ」
「鳥かなにかかもしれないが。さあ、どうだろう……?」
 アルフレッドが顎を上げると、ヒューゴも同様にした。陽光の乱反射で外よりも白く明るむ温室だ。兵士は手で庇をつくって目を凝らしだした。あれ、あれ、と大きな独り言とともにアルフレッドへ背を向ける。狩人が見る限り、この青年、実に脇がおろそかであった。
 そこまでもアルフレッドの思惑通りだ。
 そろそろと青年兵士の背後に近付く。
 彼を無力化して、単独行動を可能にしなくてはならない。
 それも、今すぐ。
 リュリがジークフリートの花嫁にされるその前に。
 湿った土に靴の裏を押しつけながら、兵士ににじり寄る。
 首に衝撃を与えて、兵士の体に障害を残してはいけないから、彼は乳母が息子にしていたのを採用することにした。大きな動脈を一時的に押さえ込むのだ。ほんの一瞬だけ兵士の意識が己からそれれば、それで十分だ。
 胸郭にたっぷり空気を入れて、覚悟を決める。
 すまない。
 そう心で詫びながら無防備なヒューゴの首を狙った。
「あああ!」
 兵士が顎を下げた。そしてその顔のまま貴族の青年へ振り向いた。
 アルフレッドはその声で驚きに体をびくつかせ、彼の崩壊した顔面を目の当たりにしてしまった。見開かれた瞳とぽっかりまあるく開いた口が馬鹿らしくて、思わず噴き出す。
「ぶっ……!」
 刹那、がしゃんと、何かがぶつかってガラスが割れる音が重なった。薄く繊細なワイングラスの割れるような可憐な悲鳴ではない。事件の予感を伴う破壊音に、二人は臨戦態勢をとった。
 そして、しゅるしゅると何かが擦れているのが聞こえたと思った瞬間に、焦げ臭い匂いが漂ってきた。パン、パン、と乾いた破裂音がするや、たちまち視界が真っ白な煙に包まれた。
「し、侵入者だ! 逃げてくださ……」
 アルフレッドを誘導しようとしたヒューゴの背後から、長い腕が伸びてきて、彼の口元を白い布でしっかり覆った。その拘束から逃げんとして暴れもがく青年の、ガントレットに覆われた腕がだらりと垂れた。
「……!」
 そのうちにヒューゴの体は解放され、彼の体は無造作に捨て置かれた。緊迫感に肌を敏感にしたアルフレッドが、目を光らせる。ヒューゴの鎖帷子が鈍く光りながら上下している。それは彼の命の証明だった。
 それさえ分かれば。
 アルフレッドは、この名も顔も知れない大胆不敵な侵入者が撒いてくれた煙幕に乗じようと踵を返した。この温室の出口は一つと決まっていたから。
 しかし、それはやすやすと遮られた。
 彼の太い首に冷たいものがぴたりと当てられたのだ。
 アルフレッドは慎重に呼吸を統制しながら、口を開いた。
「目的は、俺の首か?」
 その手には、常日頃アクセサリーにしか思っていなかった小剣が握られていた。その切っ先は背後にいる人物へまっすぐに向いていた。しばらく磨かれていないが、はったりぐらいには使えるだろう。それに、隙を見てヒューゴの装備を借りることも可能だ。
 アルフレッドの思考がどんどんと研ぎ澄まされてゆく。
 彼が、あたりにたちこめる硝煙に粘膜を逆なでされるような不快感をおぼえていると、まさにそうして燻したような声が聞こえた。
「まさか。俺の目的はただひとつ。囚われのお姫さまを救うのさ!」
 男だ。
 アルフレッドが問いを重ねようと口を開きかけたのに、男はかぶせてきた。
「お前が俺を邪魔するっていうなら、お前は俺の敵。ってことで、眠っててもらう。そこの野郎みたくちょっとの時間でもいいし、永遠にでもかまわない」
 永遠に、という言葉の強まりは、喉元にあてがわれた刃と一致していた。
「全てはお前さん次第さ」
 不法侵入者は、場違いにからからと笑った。その不届きな行動にも関わらず、あっけらかんと己の正義をひけらかした彼に、アルフレッドもくつくつと腹を震わせた。それを不審者が逆に不審がる。それもまた、アルフレッドにはおもしろかった。
「な、なんだよ、お前……。今の状況、わかってんのか?」
「くく……。いや、俺も同じだと思ってな……!」
「はあ?」
 アルフレッドは一瞬のたじろぎを見逃さなかった。
 そのまま不審者の手首を掴み、彼の腕をぐるりとひねりあげる。
 筋のねじれに呻き、男は右手に持っていたダガーを取り落とした。
 カランという音が温室の土に抱きとめられると同時に、男の頬を地面に押し付けた。
 緊張のひとときだったが、アルフレッドは息も乱さずに的確に対処した。
 白い煙は、いつの間にかすっかり晴れていた。
 静けさがくっきりとした緑とともによみがえると、アルフレッドに組み伏せた男を観察する余裕ができた。
 男の髪、ひとまとめにしているそれは、煙がなくなったにもかかわらず、いつまでも真っ白だった。老人ではない。日焼けに耐え、少しくたびれかけている肌、そこに刻まれているのは彼の生きてきた時間だ。四〇代後半と言ったところか。
「ってて……! くそ、あとちょっとのところだってのに、なんで邪魔するんだよ!」
 横顔のまま、キッとアルフレッドを睨みつけた男のその瞳は、輝く森の色をしていた。
 言い知れぬ既視感に、アルフレッドの銀鼠色の瞳がきゅっと見開かれる。
「邪魔? それはお互いさまだろう。それよりも聞かせろ。あんたの言う『お姫さま』っていうのはもしかして、妖精じみた娘じゃないだろうな?」
「妖精? そりゃあ、俺にとっちゃあ、それくらいかわいい、そう言っても構わない人だけども。しかし、妖精……! お前さん、そんな真面目な顔で言うか!」
 豪快に笑い、顎をクイっとしゃくりあげたりもする。屈託のない様子がいなせな男だとアルフレッドは思った。
「あははは! お前さんは妖精を探してここまで来たってわけか。森じゃなく、城に! その図体にして、ずいぶんとロマンチストだな」
 そしておまけに、右の口の端をグイっと上に引き上げた。ついでに眉もおどけて。
「アラムだ。よろしく」
 俺は敵じゃない。
 どうやら、そういう意味らしかった。
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