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宿での出来事
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「あなたがこのような真似をして、ただで済むと思っているわけではないでしょう」
「もちろんです、殿下。どのようなお咎めも、全て承知のうえにございます」
ベッドの上部に両手首を一纏めに結びつけられたその人物は、ほんの一瞬、何が起こったのか分からないような顔をして、それからベッドの端に腰を下ろすフランチェスカを見上げた。
威嚇のような、それでいて気遣いすら感じられる声にフランチェスカは微笑み返す。
何度か耳にした甘やかな低い声ではなく、どこか幼さを残した柔らかな声は自分が年上になったようだ。
二つ年上の、本当なら手の届かない王太子殿下。
でも今は、今だけはフランチェスカが圧倒的に優位な場所に立っている。
「だからと言って危害をくわえるような真似は致しません。でもどうか、神に捧げし身を少しでも憐れに思われるのであれば、どうぞ一夜限りの慰めをちょうだいしたいのです」
我が身が危険に晒されているというのにフランチェスカを案じてくれている。恋焦がれたその優しさが改めて愛おしく、そして他の女性に永遠に向けられるであろうことがこんなにも口惜しい。
「聖女殿……何を、血迷って」
「私はちゃんと正気です。何を血迷うことなどございましょうか」
触れることさえ叶わなかった頬に指をそっとすべらせる。
女性のそれに引けを取らないほどきめの細かな肌をなぞり、うっとりと吐息をこぼす。
あどけなさを宿した緑色の目がフランチェスカの一挙手一投足を追いかける。隙を伺っているのだろう。でも身体の自由を奪いはしたけれど、命の危険に晒すつもりは毛頭ない。本当に一夜の慰めが欲しいだけだ。
だからそれを証明するようにガウンを脱ぎ捨て、白い裸身を惜しげもなく眼前に曝した。
□■□■□■□■
「……参ったな」
心底困ったように呟き、レオナルドは眩いばかりの金色の髪にくしゃりと指を埋めてかきあげた。
その様子を斜め後ろから伺いながら、こうなることを先に知っていたフランチェスカは笑みを浮かべそうになるのを懸命に堪える。
王国屈指の高い魔力を持つ王太子レオナルドと共に、最高神を祀る神殿に仕える聖女フランチェスカが巡礼の旅に出たのは今朝早くの話だ。神による加護が弱まっていると報告のあったいくつかの土地に祝福を与えることを目的としており、おそらくは一週間ほどの短い旅になると目算が立てられている。
最初の祈りの儀は問題もなく終わり、けれど宿の主から一部屋しか用意できなかったと告げられた。
本来ならありえない事態だ。
街でいちばん上質の宿で、貴族や羽振りの良い商人たちが利用客であろうとも、今回迎えるのは国内で最上位に位置する要人である。巡礼の予定も昨日今日決められたものではなく、空き部屋に余裕のある宿を探す時間は十二分にあった。
『こちらも手は尽くしたのですが、あいにくともう一部屋ご用意できず……』
申し訳なさそうに謝罪する主の顔を思い出す。
とは言え、たったの一部屋だ。空ける方法はいくらでもあったのではないかと思う。この期に及んで部屋の格式にこだわっている場合でもない。
豪華な客室はこのままレオナルドに使ってもらうとして、フランチェスカは湯浴みができて清潔なベッドで眠れるのならそれで良かった。
にも拘わらず代わりの宿探しが叶えられなかったのは神殿の思惑が裏に絡んでいるせいだ。
不自然な点は他にもある。そもそも護衛をつけられる側であるはずの王太子が、いくら聖女相手と言えど護衛につくだろうか。
もしかしたら神殿側だけでなく王家側でも何か働きかけたのかもしれない。王位継承を取り巻くいざこざの有無やレオナルドの派遣を誰が言い渡したのかは分からないけれど、何者かの意図による旅であることは間違いなかった。
(――それでも)
フランチェスカは最低限の持ち物を収めた肩掛けカバンのベルトを無意識に握りしめる。
神託を受けた神殿の使いによって六歳の時に聖女に認定され、華やかな伯爵家の令嬢から慎ましい神殿暮らしを十二年続けて来たフランチェスカには神が与えてくれたとっておきのご褒美に思えた。
『殿下と一晩部屋を共にすること、それが神殿よりあなたに与えられたもう一つの役割です』
巡礼の旅について話す神官は、神に仕える神聖な身でありながらそう言った。
とは言え、相手は高潔と名高い王太子だ。本当にフランチェスカが身を捧げる必要はなく、既成事実を作ることが目的なのだろう。
『しかし殿下はおいそれと従うことはないと思われるうえ、巡礼に同行する間、毎日同じ部屋では訝しまれてしまいます。故に機会は最初の夜しかありません。どんな方法を取るかはあなたに一任します。良いですね』
口ぶりこそ穏やかなものではあっても、それは命令も同然だった。フランチェスカに拒否権はない。
けれど、だからと言って神殿に言われるがままのことをすればレオナルドが築き上げて来た名誉に確実に傷がつく。躊躇っていると神官は是か否かの返事だけを求めて言葉を続けた。
『フランチェスカ。どうしてもできないと言うのであれば、我々としても大切な聖女であるあなたに無理強いはしません。この役割は他の機会、他の巫女に担わせるとしましょう』
『え……』
途端に血の気が引いて行くのが分かった。
神殿は確実に役割を果たす巫女に命じることは想像に難くない。
そして命じられた巫女は身体を差し出すだろう。たとえ正式に召し上げられることは叶わずとも王太子の愛妾になれるかもしれないからだ。
何より他の女性がレオナルドに触れるのが、レオナルドが他の女性に触れるのが、フランチェスカにはすでにもう耐えられなかった。レオナルドは自分のものではないのに独占欲と嫉妬に狂いそうになる。
『――承知、致しました……。お部屋を共にするだけで良いのですよね?』
形ばかりの確認をすると神官は満足そうに頷く。
予めフランチェスカに話したのは、いざとなって同室を拒否しない為だったのだろう。
良からぬ裏側に気がつかずとも、レオナルドは別の部屋を用意できないか考えているに違いない。神官から話を聞かされた時のフランチェスカがレオナルドの名誉にあらぬ傷がつくことを危惧したように、今のレオナルドもおそらくはフランチェスカの体面を重んじようとしてくれている。
民の目に映るレオナルドは"清廉な王太子"で、フランチェスカは"無垢な聖女"だ。
汚れなき二人に俗物的な男女間の過ちが起こるはずもない。誰しもがそう思い、疑いもしていなかった。
けれどレオナルドはともかく、フランチェスカは自らを"聖女の役割を持つだけの女"と思っている。聖女として神殿で慎ましく暮らしてはいるけれど、心は清らかでも何でもない。相応の欲を持っているのが何よりの証拠だ。
「殿下、あの……いつまでも立ったままでいるのも何ですし、一旦部屋に入って身を落ち着かせませんか?」
「ああ……あなたは祈りを捧げて疲れているだろうに、気が回らなくてすまない」
「いいえ。でも殿下もずっと、私の身を案じて休まる暇もなく気を張られ続けておいででしたでしょう」
フランチェスカが控えめにもっともらしいことを言えば、レオナルドはようやくフランチェスカを先に部屋に入れてドアを閉めた。
未婚の、ましてや関わりのほとんどない男女が同じ部屋にいるのだ。本当はドアを薄く開けたままにしておきたかったのではないだろうか。フランチェスカの様子を窺い、女性の安全と不埒な状況の回避とを天秤にかけたかのように間を空けた末に鍵をかけた。
「聖女殿、僕はソファーで寝るから、あなたはベッドで眠るといい」
「そんな……王太子殿下に、そのようなことをしていただくわけには参りません」
「いや、しかし」
なおも言い淀むレオナルドにフランチェスカは胸の前で両手の指を組み、無垢な姿を装った。遠慮がちに上目遣いで見やる様は純真な聖女の仕草らしい。現にレオナルドは口を噤み、あと一押しだと教えてくれる。
「殿下はとても紳士的な方であると心から信用しております。ですから、一夜を同じベッドで眠ることくらい私は平気です。とても立派なお部屋をご用意して下さったおかげでベッドも大きなものですし」
もっとも、私は全然淑女ではないのですけれど。
黒い企みはおくびにも出さずに健気な説得を続ければ、聖女であるフランチェスカよりよほど純粋な王太子は仕方なしに提案を受け入れたのだった。
「もちろんです、殿下。どのようなお咎めも、全て承知のうえにございます」
ベッドの上部に両手首を一纏めに結びつけられたその人物は、ほんの一瞬、何が起こったのか分からないような顔をして、それからベッドの端に腰を下ろすフランチェスカを見上げた。
威嚇のような、それでいて気遣いすら感じられる声にフランチェスカは微笑み返す。
何度か耳にした甘やかな低い声ではなく、どこか幼さを残した柔らかな声は自分が年上になったようだ。
二つ年上の、本当なら手の届かない王太子殿下。
でも今は、今だけはフランチェスカが圧倒的に優位な場所に立っている。
「だからと言って危害をくわえるような真似は致しません。でもどうか、神に捧げし身を少しでも憐れに思われるのであれば、どうぞ一夜限りの慰めをちょうだいしたいのです」
我が身が危険に晒されているというのにフランチェスカを案じてくれている。恋焦がれたその優しさが改めて愛おしく、そして他の女性に永遠に向けられるであろうことがこんなにも口惜しい。
「聖女殿……何を、血迷って」
「私はちゃんと正気です。何を血迷うことなどございましょうか」
触れることさえ叶わなかった頬に指をそっとすべらせる。
女性のそれに引けを取らないほどきめの細かな肌をなぞり、うっとりと吐息をこぼす。
あどけなさを宿した緑色の目がフランチェスカの一挙手一投足を追いかける。隙を伺っているのだろう。でも身体の自由を奪いはしたけれど、命の危険に晒すつもりは毛頭ない。本当に一夜の慰めが欲しいだけだ。
だからそれを証明するようにガウンを脱ぎ捨て、白い裸身を惜しげもなく眼前に曝した。
□■□■□■□■
「……参ったな」
心底困ったように呟き、レオナルドは眩いばかりの金色の髪にくしゃりと指を埋めてかきあげた。
その様子を斜め後ろから伺いながら、こうなることを先に知っていたフランチェスカは笑みを浮かべそうになるのを懸命に堪える。
王国屈指の高い魔力を持つ王太子レオナルドと共に、最高神を祀る神殿に仕える聖女フランチェスカが巡礼の旅に出たのは今朝早くの話だ。神による加護が弱まっていると報告のあったいくつかの土地に祝福を与えることを目的としており、おそらくは一週間ほどの短い旅になると目算が立てられている。
最初の祈りの儀は問題もなく終わり、けれど宿の主から一部屋しか用意できなかったと告げられた。
本来ならありえない事態だ。
街でいちばん上質の宿で、貴族や羽振りの良い商人たちが利用客であろうとも、今回迎えるのは国内で最上位に位置する要人である。巡礼の予定も昨日今日決められたものではなく、空き部屋に余裕のある宿を探す時間は十二分にあった。
『こちらも手は尽くしたのですが、あいにくともう一部屋ご用意できず……』
申し訳なさそうに謝罪する主の顔を思い出す。
とは言え、たったの一部屋だ。空ける方法はいくらでもあったのではないかと思う。この期に及んで部屋の格式にこだわっている場合でもない。
豪華な客室はこのままレオナルドに使ってもらうとして、フランチェスカは湯浴みができて清潔なベッドで眠れるのならそれで良かった。
にも拘わらず代わりの宿探しが叶えられなかったのは神殿の思惑が裏に絡んでいるせいだ。
不自然な点は他にもある。そもそも護衛をつけられる側であるはずの王太子が、いくら聖女相手と言えど護衛につくだろうか。
もしかしたら神殿側だけでなく王家側でも何か働きかけたのかもしれない。王位継承を取り巻くいざこざの有無やレオナルドの派遣を誰が言い渡したのかは分からないけれど、何者かの意図による旅であることは間違いなかった。
(――それでも)
フランチェスカは最低限の持ち物を収めた肩掛けカバンのベルトを無意識に握りしめる。
神託を受けた神殿の使いによって六歳の時に聖女に認定され、華やかな伯爵家の令嬢から慎ましい神殿暮らしを十二年続けて来たフランチェスカには神が与えてくれたとっておきのご褒美に思えた。
『殿下と一晩部屋を共にすること、それが神殿よりあなたに与えられたもう一つの役割です』
巡礼の旅について話す神官は、神に仕える神聖な身でありながらそう言った。
とは言え、相手は高潔と名高い王太子だ。本当にフランチェスカが身を捧げる必要はなく、既成事実を作ることが目的なのだろう。
『しかし殿下はおいそれと従うことはないと思われるうえ、巡礼に同行する間、毎日同じ部屋では訝しまれてしまいます。故に機会は最初の夜しかありません。どんな方法を取るかはあなたに一任します。良いですね』
口ぶりこそ穏やかなものではあっても、それは命令も同然だった。フランチェスカに拒否権はない。
けれど、だからと言って神殿に言われるがままのことをすればレオナルドが築き上げて来た名誉に確実に傷がつく。躊躇っていると神官は是か否かの返事だけを求めて言葉を続けた。
『フランチェスカ。どうしてもできないと言うのであれば、我々としても大切な聖女であるあなたに無理強いはしません。この役割は他の機会、他の巫女に担わせるとしましょう』
『え……』
途端に血の気が引いて行くのが分かった。
神殿は確実に役割を果たす巫女に命じることは想像に難くない。
そして命じられた巫女は身体を差し出すだろう。たとえ正式に召し上げられることは叶わずとも王太子の愛妾になれるかもしれないからだ。
何より他の女性がレオナルドに触れるのが、レオナルドが他の女性に触れるのが、フランチェスカにはすでにもう耐えられなかった。レオナルドは自分のものではないのに独占欲と嫉妬に狂いそうになる。
『――承知、致しました……。お部屋を共にするだけで良いのですよね?』
形ばかりの確認をすると神官は満足そうに頷く。
予めフランチェスカに話したのは、いざとなって同室を拒否しない為だったのだろう。
良からぬ裏側に気がつかずとも、レオナルドは別の部屋を用意できないか考えているに違いない。神官から話を聞かされた時のフランチェスカがレオナルドの名誉にあらぬ傷がつくことを危惧したように、今のレオナルドもおそらくはフランチェスカの体面を重んじようとしてくれている。
民の目に映るレオナルドは"清廉な王太子"で、フランチェスカは"無垢な聖女"だ。
汚れなき二人に俗物的な男女間の過ちが起こるはずもない。誰しもがそう思い、疑いもしていなかった。
けれどレオナルドはともかく、フランチェスカは自らを"聖女の役割を持つだけの女"と思っている。聖女として神殿で慎ましく暮らしてはいるけれど、心は清らかでも何でもない。相応の欲を持っているのが何よりの証拠だ。
「殿下、あの……いつまでも立ったままでいるのも何ですし、一旦部屋に入って身を落ち着かせませんか?」
「ああ……あなたは祈りを捧げて疲れているだろうに、気が回らなくてすまない」
「いいえ。でも殿下もずっと、私の身を案じて休まる暇もなく気を張られ続けておいででしたでしょう」
フランチェスカが控えめにもっともらしいことを言えば、レオナルドはようやくフランチェスカを先に部屋に入れてドアを閉めた。
未婚の、ましてや関わりのほとんどない男女が同じ部屋にいるのだ。本当はドアを薄く開けたままにしておきたかったのではないだろうか。フランチェスカの様子を窺い、女性の安全と不埒な状況の回避とを天秤にかけたかのように間を空けた末に鍵をかけた。
「聖女殿、僕はソファーで寝るから、あなたはベッドで眠るといい」
「そんな……王太子殿下に、そのようなことをしていただくわけには参りません」
「いや、しかし」
なおも言い淀むレオナルドにフランチェスカは胸の前で両手の指を組み、無垢な姿を装った。遠慮がちに上目遣いで見やる様は純真な聖女の仕草らしい。現にレオナルドは口を噤み、あと一押しだと教えてくれる。
「殿下はとても紳士的な方であると心から信用しております。ですから、一夜を同じベッドで眠ることくらい私は平気です。とても立派なお部屋をご用意して下さったおかげでベッドも大きなものですし」
もっとも、私は全然淑女ではないのですけれど。
黒い企みはおくびにも出さずに健気な説得を続ければ、聖女であるフランチェスカよりよほど純粋な王太子は仕方なしに提案を受け入れたのだった。
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