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一章

1.夢のような日々は長くは続かない

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「はじめまして、イーディス=フランシカと申します」

「リガロ=フライドです」

 ドレスの裾をちょこんと摘まみ、挨拶をするイーディスの表情は緊張でやや強ばっている。ほのかに赤らんだ顔で精一杯の笑みを作めばリガロは優しく微笑んでくれた。彼の真っ青な瞳はまるで絵本に描かれていた海のようで、一瞬にして心を奪われた。イーディスはまだ海を見たことがない。だからこそ憧れがありキラキラに触れたいと願った。

 そして胸の中は彼の婚約者になれるという喜びでいっぱいだった。

「二人で庭を見ておいで」

 リガロの父からの提案で、二人でフライド家の庭を散策した。何でも彼の母の趣味はガーデニングらしい。貴族のご婦人の趣味としては珍しいが、どの花もよく手入れされており、彼の瞳のようにキラキラと輝いていた。

「フライド家のお屋敷はキラキラでいっぱいなんですね!」

「キラキラ?」

「どの輝きにも目も心も奪われてしまいますわ」

「喜んでくれて嬉しい」

「リガロ様のその剣の柄も綺麗ですわよね。青の宝石が埋め込まれていて」

 イーディスが剣へと視線を注げば、リガロの表情は花開くように明るくなっていく。

「これはお祖父様から貰ったものだ」

「まぁ剣聖様から!」

「将来俺もお祖父様のような騎士になりたいと思っている」

 リガロは拳を固め、空を見上げた。彼の祖父、ザイル=フライドは剣聖と呼ばれている。国内の剣術大会全てで十年連続一位を獲得し、二十年前魔界と人間界を繋ぐゲートから大量の魔物が溢れた際、国を守るために尽力した。いわば国の英雄。騎士を目指すのならば誰もが憧れる存在、それが剣聖である。

 その頃はまだ産まれていなかったイーディスだが、剣聖の活躍は物心ついた時からずっと父から聞かされていた。父は根っからの剣聖ファンだったのだ。父が瞳を輝かせて語る剣聖に、いつからかイーディス本人も憧れるようになった。

「素敵な夢ですわね」

 だから口から出たのは心からの言葉だった。

 そして何があっても彼を支えようと決心した。





 リガロと婚約者になってからの日々は夢のようだった。

 父から事前に聞かされていた通り、彼の一日のほとんどが鍛錬に費やされている。それでも彼は婚約者よりも鍛錬を優先するようなことはなかった。週に一度必ず会い、そして手紙をくれた。

「お母様から綺麗な花畑があると聞いたんだ。よければ一緒にいかないか」

 そんな誘いが来た時には手紙を胸に抱いて眠ったほどだ。いつも通り模擬剣を腰に下げた彼と向かったアネモネが咲き誇る花畑は美しく、彼と並んで昼食を摂りながら風に吹かれながらそよそよと揺れる花たちを眺めた。ずっとこのまま……。そんなイーディスの思いも虚しく、帰りの時間はやってくる。

「思い出にあの花を摘んでも?」

「なりません。草には毒が含まれていますので」

「そう……」

 あんなに綺麗なのに毒があるなんて……。イーディスは悲しげに俯いた。使用人に誘導され、馬車に乗り込んでからも諦めきれずに窓から花畑を見つめた。すると対面に座るリガロが優しく微笑んだ。

「この花が恋しくなった時はまた来ればいい。俺がまた、連れてくるから」

「リガロ様……」

 その言葉だけで胸が温かくなった。後日、彼が贈ってくれたアネモネの栞はイーディスの宝物だ。彼と会えない時間は栞を眺めながら過ごし、そして彼の妻となるに相応しいだけの教養を身につけられるように努力した。

 けれどいつからだろう。リガロはパタリと笑わなくなった。何かに責め立てられるように剣を振るうようになった。手紙は定型文で満たされるようになり、顔を会わせる日でさえも目を合わせてくれなくなった。後ろめたいことがあるのではない。彼の視線はいつだって剣に向けられていた。聞けば、彼は鍛錬の時間をますます増やしたらしい。プライベートなことを手紙に書いてくれなくなったのではない。変化がほとんどないのだ。鍛錬の時間を増やすためにお茶会の誘いも最小限まで減らしていると聞かされた時は、イーディスは目を丸くした。だがそこまでしても彼が自分と会う時間を捻出してくれることが嬉しかった。

 だからリガロがフランシカ家までやってきて剣を振るっていても、見守ることこそ婚約者たる自分の役目だと思い込んだ。お茶会では彼の隣でにこりと微笑む。

「なんでこんな地味な子を……」

「男爵家のあなたがなぜここにいらっしゃいますの?」

 剣聖の孫の婚約者という立場から嫌みを向けられることもある。だがそれは彼自身が魅力的な人間で、自分は彼の隣に立つに相応しい人間になれていないから。そう考えてますます勉強や手習いに励んだ。ずっとずっとリガロのことばかりを考えていた。
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