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三章

20.『ラスカと花』

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「国外かもしれませんよ」

「国外でもあいつが見逃すなんて今までなかったんだが……忙しかったからか? 今度会った時に話振ってみるか」

「元気になるといいんだけど……ってバッカス様も元気なさそうね」

 マリアのことで頭が一杯だったが、彼に思考を向ければその顔からは生気が抜けてしまっている。化粧か何かでごまかしてはあるものの、目の下のクマは以前よりもさらに濃くなっている。頬も少しこけており、顔も青白い。彼も休むべきなのではないだろうか。とりあえず手近な椅子を引いて座らせれば、バッカスは軽く笑った。

「悪いな~。俺のはマリア嬢のと違ってただの寝不足なんだが、心配かけちまって」

「寝不足って昨日どのくらい寝たんですか?」

「日が変わった後に部屋に戻ってそこから書き物して、読書して……空が明るくなった頃に少し横になるかと思ったら緊急呼び出しがあって、さっきまで動いてたから昨日の昼休みに二十分ほど仮眠を取ったのが最後だな!」

「寝てないの、絶対昨日だけじゃないですよね……」

「忙しくてな……」

 遠くを見つめる彼は一体何日ろくに寝ていないのだろうか。そもそも日が変わってから帰るなんて学生が送るような生活ではない。部活のようなものが何かを突っ込んで聞き出すつもりはないが、もっと体調にも気を使うべきではないだろうか。イーディスははぁ……とため息を吐く。

「図書館出る時間の少し前になったら起こすので寝てください」

「嫌だ。本読みたい」

「さすがにそろそろ倒れますよ」

「最近は文字を追うのも少し辛くなってきてはいるが……」

 想像以上に重症じゃないか。むううと唸るバッカスにイーディスはますます頭が痛くなる。いっそ本を取り上げてしまえばいいのだろうか。けれど目の前の一冊を没収したところで彼が寝てくれるはずもなく、さらに言えばここは図書館だ。本は他に何冊もある。それに無駄な体力を使わせても本末転倒だ。どうしたものか、とイーディスも彼と同じくうなり出す。すると彼は名案を思いついたとポンと手を叩いた。

「イーディス嬢が本を読んでくれたら大人しく寝る!」

「本?」

「子どもに読み聞かせるようなものでいい。読んでくれ!」

「そこまでして物語を摂取したいのね……」

「頼む! 今週だけでいいんだ。読んでくれたらちゃんと寝る。なんだったら夜も読書をせずに寝るから!」

「……分かりました。どの本がいいんですか?」

「今取ってくる!」

 真っ直ぐと本棚に向かったバッカスに呆れてしまう。けれど彼なりにちょうどいいポイントを選んだ結果なのかもしれない。夜も読書をしないなんて条件を出すくらいだから、彼もまた限界を感じていたのだろう。読み聞かせる程度で寝てくれるなら安いものだ。寝られなかったらまた次の手を試せば良い。

「これを読んでくれ」

「『ラスカと花』? 初めて聞きました」

 戻ってきたバッカスが持ってきたのは一冊の絵本だった。フランシカ家には絵本はほとんどなく、イーディスも初めて見るタイトルだ。装丁もシンプルで、ページ数も多くはない。バッカスがこの一冊を読んでいるうちに寝られるかは定かではないが、大きさだけ見れば子どもの読み聞かせにぴったりと言えるだろう。

「祖母が西方の国の生まれで、その国の童謡らしい。結構絵本の蔵書も多いから探してみると楽しいぞーーということで読んでくれ」

「何でもあるのね~。今度探してみます」

「俺わりと絵本も読んでいるから読むものに困ったら声かけてくれ」

 バッカスはグッと親指を立てると、椅子に腰掛け、だら~んと机に身体を預ける。寝る体勢はバッチリだ。イーディスは本を撫で、そして一ページ目を捲った。



 ◇ ◇ ◇

 ラスカはいつもひとりぼっち。

 お父さんとお母さんは物心がついた頃にはもういませんでした。

 ラスカを呼んでくれた声ももう頭の隅っこに追いやられてしまっています。それでも二人を大好きだったことは覚えています。唯一の思い出の品であるペンダントを握りしめながら、ラスカは星に願いました。

「誰か私とお話してくれる人はいないかしら」

 一人はさみしい。一緒にお話してくれる相手は、ラスカの名前を呼んでくれる相手はどこかにいないか。ラスカは今日も歩きます。

 顔も、名前も知らない『誰か』になってくれる人を探して。

 ある日、一輪の花を見つけました。

「わたし、ラスカ。あなたはなんてお名前なの?」

 話しかけても返事がありません。花は声を出すことが出来ないのです。それでもラスカは根気強く話しかけました。

「私はあっちから来たの。あなたはずっとここに居るの?」

「私、暗いお空も明るいお空も好きなの」

「あ、私ね美味しい果実を知っているのよ。持ってきてあげるわ」

 声をかけ、水をあげ、果物を与えました。

 けれど花が何かを返してくれることはありません。それどころか空に向けていた美しいお顔を俯けて、しおしおと元気をなくしていきます。ラスカが寄り添っている間に花は短き命を終えてしまったのです。色を変えた花に手を伸ばせば、花はボロボロになってしまいました。

「ごめんなさい。……私、もう行くわ」

 肩を落としたラスカは再び『誰か』を求めて歩き続けます。けれど新たに見つけた花に話しかけてもやはりラスカの声に返事を返してはくれませんでした。歩いても歩いても『誰か』と出会うことは出来ません。美味しい果実を見つけても、素敵な湖を見つけても彼らはラスカを見てもくれませんでした。

「ねぇ、どうしたら私とお話してくれるの?」

「君は何をしているんだ?」

 振り返ればそこには男の人が立っていました。顔のほとんどは布で覆ってしまっていて、表情は見えないけれど彼が言葉を交わしてくれることだけは分かります。ラスカは嬉しくなって彼の手を取りました。

「っ! あなたは私とお話をしてくれるのね! 初めてだわ。私、ラスカ。あなたの名前は?」

「モズリ。ところでラスカ、なぜ君はずっとそれに話しかけているんだ?」

 どうやらラスカがずっと一人で話していたから声をかけてくれたらしいのです。声をかけた相手に無視され続けたラスカですが、こうして新しい相手がやってきてくれただけで嬉しくなります。

「私、ずっとお話してくれる相手を探していたの」

 諦めなくて良かったわと笑えば、彼は不思議そうに首を傾げます。

「そんなものに話しかけても言葉が帰ってくるはずがないだろう」

 少しだけ呆れたような声。けれどラスカが話しかけていたのはただの花ではありません。ちゃんと話しかける花は選んでいるのです。

「なぜ? だって私と同じお口があるでしょう?」

「それは……」

 お話をするには口が必要だと、ラスカは知っているのです。だから沢山咲いている花の中でも口のある花を選んで話しかけていたのです。

「きっと私のお話が面白くないから話してくれないだけだわ」

「どんなに面白い話をしても、その人はもう死んでいる。だから花になったんだ」

「なぜ? なぜ死んでいるの? なぜ花になったら話してくれないの?」

「……君は一年前の悲劇を覚えていないのか?」

「悲劇? 悲劇って悲しいことよね。私、知っているわ」

「可哀想に……でももう大丈夫だ。俺とこの星を出よう」

「なぜ?」

「この星は死んでいるからだ」

「ここには美味しい果実も綺麗なお花もいっぱいあるわ。死んでいるなんて言わないで」

「その果実も花もかつて人だったものだ……。直になくなる。さぁ行こう」

「モズリは綺麗なものが嫌いなの?」

 こんなに綺麗なのに。なぜモズリは泣きそうな目をするの。

「……大嫌いだ」

「そう……私、悲しいわ。でも人ってそういうものだもの。好きは違くて当たり前だわ。私、同じものを好きって言ってくれる人を探すわ」

「ラスカ!」

「さようなら、モズリ。私と話してくれてありがとう」

 モズリとも会えたんだもの。きっとまた話し相手になってくれる『誰か』と出会えるはずだ。ラスカの好きなものを好きだと言ってくれる『誰か』だといいなと思いながら、ラスカは歩きます。

 ずっとずっと。

『誰か』を探して。



 ◇ ◇ ◇

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