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第八章✦価値ある命

価値ある命

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再び夜がきた。

夜更けの静かな森に、イルドナと亜紀がいた。
ガサガサと遠くから足音がして、クラーザが二人に加わる。

クラーザからイルドナへ、見張りの交代の時間だった。
クラーザは無言で亜紀の隣に座り、すぐに眠り始めた。

あの時.....

クラーザは脅えて放心状態の亜紀に駆け寄り、強く抱き締めてくれた。
そのまま抱えられ部屋を飛び出したので、抱き締めたというより、ただ単にそう勝手に解釈してしまってるだけなのかもしれないが、クラーザの腕の温かさに亜紀はホッとして涙がこぼれた。

ホゥーホゥー

梟の鳴き声がこだまする。

パチパチ....

火の粉を上げて、焚火が火力を増す。

さすがのクラーザも今夜はすぐに深い眠りについたようだ。
亜紀はクラーザを見て、腕をゆっくりとさすった。
傷を負ったクラーザの腕は、服の切れ端で簡単に血を留めているだけでとても痛々しく見えた。

亜紀も背に傷を負ったが、比ではない。

「.....クラーザ..」

亜紀は呟くように名を呼んだ。

ズズッ...

木に寄り掛かっていたクラーザの身体がずり落ち、亜紀の方にもたれ掛かってきた。

「あ...」

亜紀はクラーザの身体を支えたが、重くてそのまま倒してしまう。
丁度、ひざ枕をするかたちにおさまった。

「....どうしよう..」

亜紀は少し慌てたが....
そっとクラーザの髪に手を触れた。

「.....クラーザ...いつも.....ありがとぅ.....」

亜紀は温かい気持ちになった。
見張りの交代でイルドナは歩き出したが、すぐに足を止め引き返してきた。

再び焚火の近くに戻り、亜紀の前に立った。

「........」

行動を共にしてから、イルドナと亜紀はまともに顔を見合わせたことがなかった。
イルドナが亜紀を避けていたからだ。

「以前、お前と二人きりだった時は、
クラーザはこんな風に眠っていたか」

「えっ?!」

いきなりの問い掛けに亜紀は驚いた。
日本語を聞くのも、相当久々だ。

亜紀はクラーザの顔を見た。
思い返すと、彼はアタシと二人の時、眠っていなかった...
眠った顔など見たことなかった。

「クラーザは...」

「クラーザとお前が呼ぶな」

亜紀はイルドナの冷たい言葉に耳を疑った。

「呼ぶなって...どういう...?」

意味ですか?

最後まで言葉にして言えなかった。
イルドナは亜紀の問いかけを無視して話し出す。

「私がいることによって、
クラーザは眠れるようになったんだ」

イルドナは続ける。

「例え何者かが現れても、
私がいるからクラーザは安心して眠れる。
だが、お前がいては眠れん。
命を放り出すようなものだからだ」

確かにそうだ...
亜紀は返す言葉もない。

寝首を襲われても、亜紀にはクラーザやイルドナのように跳ね返す力がない。
夜になれば、クラーザとイルドナは交代で見張りをしながら、
一人は休息をとっている。
それはイルドナがいてこそできることだ。

「クラーザは、こんな所でいつまでも足止めを喰らっていてはならないんだ」

「どこかに...どこかに向かってるんですか?」

「クラーザは上に立つ者だ。
こんな場所でお前のような者のお守りをしてる場合ではない」

上に立つ...者....

「大勢の者を束ねる組織側の者だ。
たかだかお前一人のお守りなぞ、クラーザには無益なこと」

亜紀は呆気に取られた。
さらにイルドナは亜紀に詰め寄る。

「お前の面倒を見て何になる」

「.......」

イルドナは亜紀を睨みつける。

「...アタシは...ただ..」

そうだ...
去って行こうとしたクラーザを必死で止めたのはアタシだ...
泣きついて、しがみついて....

「ごめんなさい...クラーザは」

「汚らわしく名を呼ぶな!」

イルドナは決して声を高々にして怒鳴りはしないが、
亜紀を縮こまらせるだけの勢いは込め、睨みつける。

「...ごめんな...さい..」

亜紀は何も言えず俯く。

...名前を呼んじゃ.....いけないの...?

「何が目的だ」

「そっそんな!....目的って.....アタシは何も!」

「ではさっさと身を引け」

亜紀がイルドナの顔を見上げると、
イルドナは待っていたかのように見返して続ける。

「クラーザはお前を恩人だと言っている。
だが、お前はそれを理由にクラーザを存分に利用しているだけだ。
今まで何度も、お前の窮地を救ってやっている。
借りは充分に返してきた。
違うか?」

そうだ...
こんなにまで彼にしてもらう理由がない...
助けてもらって当たり前....な、訳じゃないんだ..

敵に襲われた時...
何度もクラーザを呼んだ。
クラーザが助けてくれるんだと、なぜかアタシは信じて待ってた。

「お前がいるだけで私たちは敵に狙われる。
お前が敵を呼ぶんだ。
お前がいるために、私たちの疲労が絶えないんだ。
お前のせいで、睡眠もろくにとれないことを忘れるな」

イルドナの言葉が胸に突き刺さる。
最もな言葉だった。

亜紀は見えないナイフで斬りつけられ、胸が裂けた気がした。

「ごめんなさい...本当にそうでした......
だけどアタシ、どうしたらいいのか....わからなくて..それで..」

「ふざけるな。
お前がいては、こちらが大損害だと言っているんだ。
お前の都合など聞きたくない」

ついにイルドナは亜紀を奈落の底に突き落とす。

「クラーザの命は価値あるものだ。
だがしかし、お前の命などに何の価値もない。
お前など、どこでどう死のうがいっこうに構わない」

「―――――」

「早く消え失せろ」

消え失せろ

亜紀の心に、スッと染みた―――

クラーザの前から姿を消す..
それがいいのかもしれない。

イルドナは見張りに行かず、少し離れたところに腰を下ろした。

そっか...やっと気づいた。
アタシがいなければ、彼らは見張り当番なんかしなくてもいいんだ...
彼ら二人だったら、例え敵が襲ってきてもすぐに闘えるもの..
アタシがいるから、
アタシというお荷物がいるから........

   消え失せろ

残酷なのは、当たり前の顔してクラーザのそばから離れないアタシの方だ....

だけど...だけど....

亜紀は一筋の涙をこぼした。
頬を熱い涙がゆっくりとこぼれてゆく。

クラーザから離れたくない...
アタシ.....クラーザが好きなんだ..
いつの間にか、
クラーザのことが好きになってしまっていたんだ.....

長い夜は続く。

風も止まった森で、聞こえるのは焚火の音と、間隔をあけて鳴く梟の声だけ―――

亜紀は人知れず、涙をこぼした。
クラーザにもイルドナにも気付かれないよう、声も出さない。
平然と装うとしているが、涙だけがポタポタと流れ落ちた。

どうしてアタシは泣いているの..
我が身がかわいそうだから..?

違う。
アタシは何度もクラーザに助けられ、優しくしてもらった。
見知らぬアタシを...
クラーザは何度も抱き寄せてくれた。

アタシが苦しむから、クラーザはお姫様抱っこしてくれた。
ずっとずっと、アタシを抱えて走ってくれた。

アタシが寒がったら、抱き寄せてギュッと包んで温めてくれた。
言葉も通じないのに....

敵に連れ去られた時は、いつだって助け出してくれた。
今日だって、傷だらけで血を流してまで....

なのに――――

アタシは彼に何をしてきただろう..

ただ泣きわめき、いつまでも彼の後ろに隠れて
ただ『助けて助けて』と叫ぶばかりで...

じゃあ、どうしてアタシは泣いているの...

やっぱりアタシは...
自分のことしか考えてない。

あなたと離れるのが嫌で..
ただ泣くことしかできない。
今すぐにでも、一人で歩きだせばいいのに..
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