氷の男精は優しい灯りを夢見る

真木

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14 氷の夜明け

 夜が明けるころ、保養所の湖畔にはまだ冷たい霧が立ちこめていた。
 ギルはイリヤの看病を一時シノンに任せて、湖のほとりに立ち寄ったところだった。
 夜の出来事――イリヤの錯乱と、シノンの叫びが胸の奥に焼きついて、どうしても離れない。
 湖面には、まだ青い蝶の残光が漂っていた。
 月に呼応して舞い上がった蝶たちはもういないのに、その軌跡だけが淡く残っている。
 まるでイリヤの記憶の欠片が、湖の底に沈みきれずに揺れているようだった。
 霧の向こうから、蹄の音が響いたのはそのときだった。
 ギルは反射的に背筋を伸ばし、視線を走らせる。
 白銀の装飾を纏った馬車が、夜明けの光の中を滑るように近づいてくる。
 見間違えるはずもない。あの徽章は――殿下のものだ。
 王子が保養所の近くの街に来ているという情報は、ギルも掴んでいた。
「そんな……今……」
 ギルは唇を噛んで焦りをはらんだ言葉をつぶやく。
 シノンが王子に出した手紙には、イリヤが回復途上にあり、今しばらくお会いするのは控えてほしいとつづっていた。ギルもそれに同意する意見を添えていた。
 けれどイリヤが療養し、既に一月が経とうとしている。回復のきざしが見えたのなら会いたい……もしかしたら連れ帰りたいという意志なのだろう。
「……今は、だめなのです……!」
 ただ今のイリヤは記憶の重みに錯乱して、熱と痛みの狭間にある。そんなときに王子と再会しては、せっかくの回復が逆戻りするかもしれない。
 ギルは慌てて、保養所の入り口へと駆けた。
 まもなく馬車は止まり、扉が開く。冷気を切り裂くようにして王子は現れた。
 彼の瑠璃の瞳には、待ちわびたような光が宿っていた。
「ギル。……イリヤは快方に向かっているのだろう。連れ帰る。良いな」
 駆け寄ったギルに、王子は低く、押し殺した声で言う。
 まるで自分の心臓を抑え込むような声は、ギルの忠誠心に響いた。
 イリヤを守らなければという母親のような思いと、主君の意志に添うのが本来の役目だという義務感に挟まれて、ギルは一瞬言葉を失う。
 ギルにはとっさに選べなかった。立ちすくんで、拳を握りしめる。
 しかし保養所の扉が内から開いて、白衣をまとったシノンが姿を現す。
 夜を徹して看病していたために、頬は少し青白く、それでも瞳は鋭く光っていた。
「お言葉ですが、殿下。それはなりません」
 シノンの声は、凍るように冷たかった。
「イリヤさんは昨夜、強いまじないの反動で倒れました。今はまだ、熱と痛みの中にいます」
「まじない?」
 王子は眉を寄せていぶかしげに問う。
「自分で記憶を取り戻そうとされたのです。けれど彼はそのために苦しんでいる」
 シノンは一歩、前に出た。その動きに、空気がわずかに震えた。
「殿下。……イリヤさんは、もうこれ以上記憶を掘り返してはいけません。思い出すことが救いではない。彼の心を壊すだけです」
 王子の瞳が戸惑いで揺れる。その表情には、一瞬だけ悲しみの色が差した。
 だがすぐに、それは切望するような言葉に覆い隠された。
「医師の分をわきまえよ。……どこにもやらぬ。イリヤは我が伴侶だ。私と共にあることが、イリヤの幸せだ」
 その答えは刃のように鋭かった。
 ギルは息を呑んだが、シノンの目は静かに細められただけだった。
「イリヤは今日連れて帰る。……邪魔をするのなら、捕縛する」
 空気がはっきりと変わった。
 王子の背後から護衛たちが近づく。張り詰めた緊張がその場を支配する。
 シノンは深く呼吸を吐いた。それとともに、シノンの方から細かな氷の粒が流れてくる。
「……我ら精霊は万物の結晶。命に祝福された奇跡。何者にも縛られぬもの」
 シノンの瞳が鈍く光って見えた。その口からまじないの言葉がこぼれ始める。
 湖面に氷が張り、木の枝にも氷の花が咲く。いずれも、凍り付いた先からぱらぱらと崩れ落ちていく。
 ギルははっとして、王子を庇うように前に出ようとした。けれどシノンから生まれ出る氷のつぶてが渦巻き、吹き荒れる。
「父よ母よ、遠い祖たる生命の流れよ。我が弟に安寧を」
 シノンがすっと右手を持ち上げて王子を指さしたとき、ギルは声を上げていた。
「おやめください……シノン様……!」
 シノンは一度目を伏せて、暗黒のように沈んだ黒い瞳で王子をひたと見据えた。
「……精霊を縛るものに、災いあれ」
 ギルはシノンのまとう怒りを見て悟った。
――これは、もはや言葉では届かないものだ。
 愛と呼ぶにはあまりにも切実で、救いようもない残酷な感情を、この精霊は抱いてしまった。
「やめて……!」
 イリヤの細い声が割って入って、シノンの腕を掴んだのが見えた。
 シノンがわずかに優しい目をして微笑んだのを見たのを最後に、辺りは暗黒に沈んだ。
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