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8 まちがい
高台から戻った日の夜、希乃は熱を出して寝込んだ。
体の弱い希乃が体調を崩さないよう、司は希乃の衣食住に目を光らせている。希乃が少しでも青い顔をしていれば服の管理をしている使用人を叱り、手ずから希乃に温かい飲み物を飲ませて、夜は宿題も取り上げて早くに寝かしつけた。
けれど希乃の体と心は同じくらいに弱く、体調を崩す半分の原因は心だった。よく青い顔をしているのは、屋敷に出入りする不穏な男たちが怖いからに他ならなかった。
「どうした、希乃? 何が怖い? 俺が遠ざけてやる」
司も希乃が幼な子のように怯えやすい気質だということは知っている。その原因を取り除いてやろうと優しくたずねるが、希乃は顔色は悪いままだった。
なぜって、ここで暮らすのが怖いと言ったら、司がどうするかわかりきっていたからだ。
「高台の家、いや……。行きたく、ない……です」
司だけが出入りする家で、司の完全な管理の中で暮らす。……それは檻に飼われているのと同じことだと、もっと怖かった。
それに今だって母と会うことはできないけれど、少なくとも母と同じ屋敷の中にはいられる。希乃はまだ、一人じゃなかった。
「気を遣わなくていいんだ。この家を怖がってるのはわかってる。ああ、山が嫌なら海辺がいいか?」
希乃の珍しい拒絶に、司は気を悪くした様子はなかった。ただ、若頭と呼ばれ荒い男たちの上に立つ彼は、小さくて弱い希乃とはまるで感覚が違う。
司は希乃の頭をよしよしと撫でて笑う。
「そうだな。お小遣いも持ったことがない希乃に、家づくりはまだ難しいな? ……いいんだ、心配しなくていい。気に入らなければ何度だって替えを用意してやる。希乃が何にも怖がらなくていいすみかを作ってやるからな……」
司にとって希乃はいつまでも小さな子どものままで、それに惜しみなく与えてやることが彼の喜びらしかった。
三日後に希乃の熱は下がったが、希乃が高校卒業後に新しい家に住むのは司の中で決定事項になっていた。司は「今作図させているから、出来たら希乃に見せるよ」と上機嫌だった。
希乃はそんな司にどうやって働くことを認めてもらえばいいのか、いくら考えても答えが見えなかった。
「希乃。少し気分を変えてみるか?」
司は希乃の心までは理解していないが、誰よりも希乃のことを観察している。熱が下がっても希乃が塞ぎがちなのに気づいて、ある日彼女を連れ出した。
そこは会員制のリゾートホテルで、森林浴や温泉、エステを備えたリラクゼーション施設だった。身元の確かな会員しか入れず、一日五組までという人数制限もされているから、人の集まるところが苦手な希乃も大丈夫だろうと司は言った。
司と希乃は、ホテルのラウンジで昼食を取った後、新緑の彩り豊かな小道を歩いた。
めったに家を出ない希乃ははじめ緊張していたが、午後の陽光に少しだけ表情を緩める。
「海の近くと……違う匂いがします」
「ああ。ここの空気は喉にいいらしい。気持ちも和らぐだろう?」
司の言う通り、そこは木々の優しい香りが漂っていて希乃の心を楽にしてくれた。希乃は海の近くで生まれ育ったために潮の香りの方がなじみ深いが、こういう世界もあるのだと不思議な思いがした。
きゅっと司の袖をつかんでいた手がいつの間にか司の手に包まれていても、誰もいなければ恥ずかしくない。
「温水プールもあるが、まだ熱を出したばかりだから今度な。ボードゲームは人がいるだろうから……そうだな、森林浴の後は温泉にするか」
「はい……」
希乃はこくんとうなずいてから、ふいにしゅんとして下を向く。
「どうした?」
「……ごめんなさい。私がいるから……司さま、行けるところが少なくなって」
「そんなことか」
司は希乃の頭をくしゃくしゃに撫でて苦笑する。
「そうだな。希乃の世界はあんまりに小さい。知らないことも多すぎる。俺が何からも守ってやりたくて、今まで外に出してやらなかったから。……だから」
司は希乃の目をのぞきこんで微笑む。
「これからは少しずつ、見せてやらないとな。……大丈夫。怖くない、な? いつだって俺が手を引いてやるから」
その手の優しさに、希乃は淡い灯に照らされたような思いになる。
(私はずっと司さまの手の中で……これからもそうだと思うと、怖く、なる。でもそれは……司さまの、優しさ、なんだ……)
管理、あるいは支配。司の希乃に対する慈愛は普通とは違っていて、怖い。それなのに希乃は子どもの頃から今まで一度も、司を嫌ったことがなくて……嫌おうとしても、できなかった。
見上げれば真昼なのに、木々に遮られて少し暗い。いつもと違う道の先は、どこに続いているのかわからない。
「司さま……あの」
高校を卒業したら、屋敷を出て働きたい。何度も何度も心で繰り返すのに、声に出して言えない。
「なんだ?」
結局今日も言えないまま、希乃は言葉の代わりにぎゅっと司の手をにぎりしめた。
たぶんそれはじきに大人になる一人の人間として、あまりに幼い仕草で……まちがった選択だっただろうけど。
「……お前はいつもかわいいのな、希乃」
司はただ希乃の手を温かく包み込んで、独り言のように言った。
体の弱い希乃が体調を崩さないよう、司は希乃の衣食住に目を光らせている。希乃が少しでも青い顔をしていれば服の管理をしている使用人を叱り、手ずから希乃に温かい飲み物を飲ませて、夜は宿題も取り上げて早くに寝かしつけた。
けれど希乃の体と心は同じくらいに弱く、体調を崩す半分の原因は心だった。よく青い顔をしているのは、屋敷に出入りする不穏な男たちが怖いからに他ならなかった。
「どうした、希乃? 何が怖い? 俺が遠ざけてやる」
司も希乃が幼な子のように怯えやすい気質だということは知っている。その原因を取り除いてやろうと優しくたずねるが、希乃は顔色は悪いままだった。
なぜって、ここで暮らすのが怖いと言ったら、司がどうするかわかりきっていたからだ。
「高台の家、いや……。行きたく、ない……です」
司だけが出入りする家で、司の完全な管理の中で暮らす。……それは檻に飼われているのと同じことだと、もっと怖かった。
それに今だって母と会うことはできないけれど、少なくとも母と同じ屋敷の中にはいられる。希乃はまだ、一人じゃなかった。
「気を遣わなくていいんだ。この家を怖がってるのはわかってる。ああ、山が嫌なら海辺がいいか?」
希乃の珍しい拒絶に、司は気を悪くした様子はなかった。ただ、若頭と呼ばれ荒い男たちの上に立つ彼は、小さくて弱い希乃とはまるで感覚が違う。
司は希乃の頭をよしよしと撫でて笑う。
「そうだな。お小遣いも持ったことがない希乃に、家づくりはまだ難しいな? ……いいんだ、心配しなくていい。気に入らなければ何度だって替えを用意してやる。希乃が何にも怖がらなくていいすみかを作ってやるからな……」
司にとって希乃はいつまでも小さな子どものままで、それに惜しみなく与えてやることが彼の喜びらしかった。
三日後に希乃の熱は下がったが、希乃が高校卒業後に新しい家に住むのは司の中で決定事項になっていた。司は「今作図させているから、出来たら希乃に見せるよ」と上機嫌だった。
希乃はそんな司にどうやって働くことを認めてもらえばいいのか、いくら考えても答えが見えなかった。
「希乃。少し気分を変えてみるか?」
司は希乃の心までは理解していないが、誰よりも希乃のことを観察している。熱が下がっても希乃が塞ぎがちなのに気づいて、ある日彼女を連れ出した。
そこは会員制のリゾートホテルで、森林浴や温泉、エステを備えたリラクゼーション施設だった。身元の確かな会員しか入れず、一日五組までという人数制限もされているから、人の集まるところが苦手な希乃も大丈夫だろうと司は言った。
司と希乃は、ホテルのラウンジで昼食を取った後、新緑の彩り豊かな小道を歩いた。
めったに家を出ない希乃ははじめ緊張していたが、午後の陽光に少しだけ表情を緩める。
「海の近くと……違う匂いがします」
「ああ。ここの空気は喉にいいらしい。気持ちも和らぐだろう?」
司の言う通り、そこは木々の優しい香りが漂っていて希乃の心を楽にしてくれた。希乃は海の近くで生まれ育ったために潮の香りの方がなじみ深いが、こういう世界もあるのだと不思議な思いがした。
きゅっと司の袖をつかんでいた手がいつの間にか司の手に包まれていても、誰もいなければ恥ずかしくない。
「温水プールもあるが、まだ熱を出したばかりだから今度な。ボードゲームは人がいるだろうから……そうだな、森林浴の後は温泉にするか」
「はい……」
希乃はこくんとうなずいてから、ふいにしゅんとして下を向く。
「どうした?」
「……ごめんなさい。私がいるから……司さま、行けるところが少なくなって」
「そんなことか」
司は希乃の頭をくしゃくしゃに撫でて苦笑する。
「そうだな。希乃の世界はあんまりに小さい。知らないことも多すぎる。俺が何からも守ってやりたくて、今まで外に出してやらなかったから。……だから」
司は希乃の目をのぞきこんで微笑む。
「これからは少しずつ、見せてやらないとな。……大丈夫。怖くない、な? いつだって俺が手を引いてやるから」
その手の優しさに、希乃は淡い灯に照らされたような思いになる。
(私はずっと司さまの手の中で……これからもそうだと思うと、怖く、なる。でもそれは……司さまの、優しさ、なんだ……)
管理、あるいは支配。司の希乃に対する慈愛は普通とは違っていて、怖い。それなのに希乃は子どもの頃から今まで一度も、司を嫌ったことがなくて……嫌おうとしても、できなかった。
見上げれば真昼なのに、木々に遮られて少し暗い。いつもと違う道の先は、どこに続いているのかわからない。
「司さま……あの」
高校を卒業したら、屋敷を出て働きたい。何度も何度も心で繰り返すのに、声に出して言えない。
「なんだ?」
結局今日も言えないまま、希乃は言葉の代わりにぎゅっと司の手をにぎりしめた。
たぶんそれはじきに大人になる一人の人間として、あまりに幼い仕草で……まちがった選択だっただろうけど。
「……お前はいつもかわいいのな、希乃」
司はただ希乃の手を温かく包み込んで、独り言のように言った。
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