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9 自覚した感情
そこは果樹園の中のような、甘い香りの漂う温泉だった。
ドーム状の天窓から明るい陽射しが差し込む中、丸い果物のような形をした湯舟がいくつも並び、湯には花びらが浮いている。
(かわいい……)
希乃は小さい頃に司に温泉に連れて行ってもらったことがあるが、そのときは部屋の貸し切り風呂だった。外が慣れずに緊張していた希乃に、司がうさぎのおもちゃを湯に浮かべてくれた。
女湯だけかもしれないが、ここはそのときに似て少女が好むような遊びが見られた。湯桶に花があしらわれていたり、シャンプー容器が猫の形をしていたりした。
(でも……どうしよう。ひとりでこういうところに来たの初めてで、どんな風に過ごしたらいいのかわからない)
希乃が外に出るときは基本的に司が一緒で、司から離れて何かをしたことがほとんどなかった。
だからかわいらしいしつらえに心は踊っても、それ以上におろおろしてしまう。希乃はタオルを巻いた姿のまま、湯船に入ることもできずに隅っこをさまよった。ただそうしていても寒くないように、ドームの中は湯気と空調で調整されていて快適だった。
(あ……人が)
ひとしきり温泉の周りをまわった後、希乃は湯船に浸かっている女性を一人みつけた。
おそらく二十代の後半ほどで、綺麗なアッシュブラウンの髪と豊満な四肢をのびのびと広げていた。ただひどく不機嫌そうで、しかも希乃のことを気に入らなさそうに観察しているのだった。
(私がいつまでも……うろうろしているから、かな。落ち着きがないって、思われたのかも……)
希乃は萎縮する思いで、女性から距離を取りながらそろそろと湯舟に近づいた。足に触れた温度は屋敷のお湯より少しぬるめで、ゆっくりと長く浸かっていられそうだった。
希乃がタオルを外したそのとき、女性が呆れたように息をもらして笑った。
「……子ども」
女性の嘲笑に気づいて、希乃は恥ずかしさに消えてしまいたくなる。
希乃の身長は未だに小学生の高学年くらいで、胸のふくらみはほとんどなく、初潮もまだ来ていない。自分でも、とても女子高校生に見えないのはわかっている。
だけど司はそんな希乃を嗤うことなく、希乃はかわいい、どんな生き物より愛おしいとずっと優しい言葉で包んでくれるから。希乃は蔑みや嘲笑というものから守られて過ごしてきた。
とっさに希乃が思い出したのは、その司の腕の中のぬくもりだった。ひどく子どもじみているとわかっていても、今すぐ司に包まれたかった。
希乃は湯船に浸かることもなく足早にその場を立ち去る。背後から、まだ女性の蔑みのまなざしが追ってくる気がして、足を止めることができなかった。
浴場の外のリラクゼーションルームには、まだ司は出てきていないようだった。希乃はしゅんとして、隅の藤椅子に腰を下ろす。
先ほどの女性が浴場から上がってきたのはまもなくだった。希乃はびくりとして、女性と目が合わないようにうつむいた。女性はそれに気づいたのか、冷たい目で希乃を一瞥するとさっさと奥に向かう。
「一ヶ月ぶりね、司」
女性が甘えた声を出したことで、希乃は顔を上げる。
希乃からはちょうど見えなかったが、そこには小さなバーが併設されているようだった。藤椅子が軋む音がして、司の声で返事がある。
「……誰だお前と言いたかったが。その甘ったれた声は聞き覚えがある」
「そうでしょうとも。いくら橘若頭といっても、お母様の勧めた結婚相手は知っておいてもらわないと」
結婚相手という言葉に、希乃は背筋が凍る。
司の座っているらしい藤椅子が、またきしりと軋む。
「希乃に妙なことを言ってないだろうな?」
「あんな目も合わせない子ども、私たちの結婚の障害になんてならないわよ」
「俺がいつお前と結婚すると言った」
「しないの? じゃああの子があなたの子どもを産むのはいつ? 跡継ぎもなしに若頭は務まらないわよ」
女性の猫なで声はますますひどくなる。希乃の顔色も、どんどん色を失ってきていた。
「子どもに子どもを産ませるわけにはいかねぇだろう」
「大事なのねぇ」
女性はくすくすと笑って、しなだれかかるように屈んだようだった。
「でも、自分の子どもと比べてみたらどう? 私なら、すぐにでもあなたに子どもを産んであげられるわよ。……体の相性もいいしね」
女性がのけぞって、司が振り払ったのだとわかった。でもそのときには、希乃は踵を返していた。
結婚、子ども、司さま、その三つの言葉が頭の中で混ざり合って……怖くて怖くて仕方がなかった。
自分はここにいちゃいけない。自分はいらない子。早く離れなければ。そんな言葉が喉奥まで浮かんできて、足を止められなかった。
「……希乃」
ふいに馴染み深い香りに後ろから包みこまれて、希乃はそれを待ち望んでいたような心地になった。
「体が温まってないな……。何か言われたのか?」
足音を聞きつけたのか、司はすぐに追ってきて希乃を捕えたようだった。希乃はとっさに首を横に振ったが、振り返ることはできなかった。
「傷ついたか? あんな奴二度と近寄れないようにしてやる。だから何も気にしなくていいんだ」
子どもに子どもを産ませるわけにはいかない。女性のたくさんの嘲笑の言葉より、司のその一言が突き刺さる。
初潮もない希乃には、一生、子どもを産むことはできないかもしれない。でも……希乃は司の養い子で、そういう関係には、ならないはずで……。
ぐるぐると思考が堂々巡りで、出口が見えない迷路に入っていく。
「希乃、お前は俺の……」
希乃は何かを考えたつもりはなかった。ただここへ来る前、司に包まれたいと願って足を向けたのを思い出した。
希乃は体の方向を変えると、きゅっと、司の胸にすがりついた。
「……希乃?」
希乃が自分から司にすがりついてきたのは、幼い日にはじめて彼に助けを求めた時以来だった。司も驚いたのか、声が上ずる。
ああ、温かいと、希乃は目を閉じて司を感じた。
(私……司さまのこと、好き、なんだ……)
仄暗い感情のようなそれを初めて意識して、泣きたくなった。
希乃は司の胸に顔を埋めたまま、司と目を合わせないで言う。
「司さまは、私の全部です……。司さまの好きなように、全部、決めてください……」
たとえあの女性と結婚しても、子どもを作っても……それは希乃にはできないことなのだと、悲しかった。
そんな希乃の内心とは裏腹に、司は腕に力をこめて希乃を引き寄せた。
「……そんなこと言うな。理性が切れる。かわいい......かわいい、俺だけの」
司は仄暗い喜びに満ちた声で言って、希乃の頭に頬を寄せた。
ドーム状の天窓から明るい陽射しが差し込む中、丸い果物のような形をした湯舟がいくつも並び、湯には花びらが浮いている。
(かわいい……)
希乃は小さい頃に司に温泉に連れて行ってもらったことがあるが、そのときは部屋の貸し切り風呂だった。外が慣れずに緊張していた希乃に、司がうさぎのおもちゃを湯に浮かべてくれた。
女湯だけかもしれないが、ここはそのときに似て少女が好むような遊びが見られた。湯桶に花があしらわれていたり、シャンプー容器が猫の形をしていたりした。
(でも……どうしよう。ひとりでこういうところに来たの初めてで、どんな風に過ごしたらいいのかわからない)
希乃が外に出るときは基本的に司が一緒で、司から離れて何かをしたことがほとんどなかった。
だからかわいらしいしつらえに心は踊っても、それ以上におろおろしてしまう。希乃はタオルを巻いた姿のまま、湯船に入ることもできずに隅っこをさまよった。ただそうしていても寒くないように、ドームの中は湯気と空調で調整されていて快適だった。
(あ……人が)
ひとしきり温泉の周りをまわった後、希乃は湯船に浸かっている女性を一人みつけた。
おそらく二十代の後半ほどで、綺麗なアッシュブラウンの髪と豊満な四肢をのびのびと広げていた。ただひどく不機嫌そうで、しかも希乃のことを気に入らなさそうに観察しているのだった。
(私がいつまでも……うろうろしているから、かな。落ち着きがないって、思われたのかも……)
希乃は萎縮する思いで、女性から距離を取りながらそろそろと湯舟に近づいた。足に触れた温度は屋敷のお湯より少しぬるめで、ゆっくりと長く浸かっていられそうだった。
希乃がタオルを外したそのとき、女性が呆れたように息をもらして笑った。
「……子ども」
女性の嘲笑に気づいて、希乃は恥ずかしさに消えてしまいたくなる。
希乃の身長は未だに小学生の高学年くらいで、胸のふくらみはほとんどなく、初潮もまだ来ていない。自分でも、とても女子高校生に見えないのはわかっている。
だけど司はそんな希乃を嗤うことなく、希乃はかわいい、どんな生き物より愛おしいとずっと優しい言葉で包んでくれるから。希乃は蔑みや嘲笑というものから守られて過ごしてきた。
とっさに希乃が思い出したのは、その司の腕の中のぬくもりだった。ひどく子どもじみているとわかっていても、今すぐ司に包まれたかった。
希乃は湯船に浸かることもなく足早にその場を立ち去る。背後から、まだ女性の蔑みのまなざしが追ってくる気がして、足を止めることができなかった。
浴場の外のリラクゼーションルームには、まだ司は出てきていないようだった。希乃はしゅんとして、隅の藤椅子に腰を下ろす。
先ほどの女性が浴場から上がってきたのはまもなくだった。希乃はびくりとして、女性と目が合わないようにうつむいた。女性はそれに気づいたのか、冷たい目で希乃を一瞥するとさっさと奥に向かう。
「一ヶ月ぶりね、司」
女性が甘えた声を出したことで、希乃は顔を上げる。
希乃からはちょうど見えなかったが、そこには小さなバーが併設されているようだった。藤椅子が軋む音がして、司の声で返事がある。
「……誰だお前と言いたかったが。その甘ったれた声は聞き覚えがある」
「そうでしょうとも。いくら橘若頭といっても、お母様の勧めた結婚相手は知っておいてもらわないと」
結婚相手という言葉に、希乃は背筋が凍る。
司の座っているらしい藤椅子が、またきしりと軋む。
「希乃に妙なことを言ってないだろうな?」
「あんな目も合わせない子ども、私たちの結婚の障害になんてならないわよ」
「俺がいつお前と結婚すると言った」
「しないの? じゃああの子があなたの子どもを産むのはいつ? 跡継ぎもなしに若頭は務まらないわよ」
女性の猫なで声はますますひどくなる。希乃の顔色も、どんどん色を失ってきていた。
「子どもに子どもを産ませるわけにはいかねぇだろう」
「大事なのねぇ」
女性はくすくすと笑って、しなだれかかるように屈んだようだった。
「でも、自分の子どもと比べてみたらどう? 私なら、すぐにでもあなたに子どもを産んであげられるわよ。……体の相性もいいしね」
女性がのけぞって、司が振り払ったのだとわかった。でもそのときには、希乃は踵を返していた。
結婚、子ども、司さま、その三つの言葉が頭の中で混ざり合って……怖くて怖くて仕方がなかった。
自分はここにいちゃいけない。自分はいらない子。早く離れなければ。そんな言葉が喉奥まで浮かんできて、足を止められなかった。
「……希乃」
ふいに馴染み深い香りに後ろから包みこまれて、希乃はそれを待ち望んでいたような心地になった。
「体が温まってないな……。何か言われたのか?」
足音を聞きつけたのか、司はすぐに追ってきて希乃を捕えたようだった。希乃はとっさに首を横に振ったが、振り返ることはできなかった。
「傷ついたか? あんな奴二度と近寄れないようにしてやる。だから何も気にしなくていいんだ」
子どもに子どもを産ませるわけにはいかない。女性のたくさんの嘲笑の言葉より、司のその一言が突き刺さる。
初潮もない希乃には、一生、子どもを産むことはできないかもしれない。でも……希乃は司の養い子で、そういう関係には、ならないはずで……。
ぐるぐると思考が堂々巡りで、出口が見えない迷路に入っていく。
「希乃、お前は俺の……」
希乃は何かを考えたつもりはなかった。ただここへ来る前、司に包まれたいと願って足を向けたのを思い出した。
希乃は体の方向を変えると、きゅっと、司の胸にすがりついた。
「……希乃?」
希乃が自分から司にすがりついてきたのは、幼い日にはじめて彼に助けを求めた時以来だった。司も驚いたのか、声が上ずる。
ああ、温かいと、希乃は目を閉じて司を感じた。
(私……司さまのこと、好き、なんだ……)
仄暗い感情のようなそれを初めて意識して、泣きたくなった。
希乃は司の胸に顔を埋めたまま、司と目を合わせないで言う。
「司さまは、私の全部です……。司さまの好きなように、全部、決めてください……」
たとえあの女性と結婚しても、子どもを作っても……それは希乃にはできないことなのだと、悲しかった。
そんな希乃の内心とは裏腹に、司は腕に力をこめて希乃を引き寄せた。
「……そんなこと言うな。理性が切れる。かわいい......かわいい、俺だけの」
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