橘若頭と怖がり姫

真木

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13 心の医師

 希乃にとって高校は精一杯頑張って手にした居場所だったが、今はそこに近づくと思うだけで胸がつぶれそうだった。
 同級生たちが噂話をしていると自分のことではと怯えて、化粧室で誰かと出会っただけでがたがたと震える。誰にも相談できなかったが、他ならぬ司に気づかれて、がまんしていた気持ちがあふれ出してしまった。
 司は希乃を学校から遠ざけて、屋敷の中でも希乃が安心して休養できるように整えてくれた。馴染んだ世話係以外は希乃の部屋の近くにも立ち入らせず、希乃のいるところで女性たちが集まらないようにもしてくれた。
 希乃はそうやって庇われることに、情けないと思いながらもほっとしていた。司は相変わらず希乃と必ず食事をして、一緒に過ごす時間を取ってくれる。
 希乃の毎日は風も通らない籠の中のように守られていた。周りのすべてに怯えていた希乃にとって、それは唯一の幸いだった。
「希乃、まだお腹は痛いか。熱は? 怖いことはなかったか」
 司は食事やお風呂の後に希乃と席を寄せて、希乃が話すのを聞きたがった。
「だいじょうぶ……です」
 希乃の言葉は拙く、こくりとうなずくだけのときもあったが、それでも司は喜んだ。
「ちゃんと食べてえらかったな。女の使用人が来ても泣かなかった。いい子だ、希乃」
 優しく希乃の頭をなでる司は、一体希乃がいくつの子どもに見えているのか知れない。高校生なんだからこうあるべきだなど、言葉の端にも見せたことがない。
「薬を塗ってやる。届かないところもあるだろ」
「う……ううん。もうそんなに、痛くない……から」
「ちゃんと毎日塗るように医者にも言われてるだろう? ほら、ばんざいして」
 発疹は消えたが、肌はまだところどころ色が変わっていて醜く見える。希乃はそんな肌も、未熟な自分の体も恥ずかしかったが、司はさっさと希乃のパジャマを脱がせてしまう。
「大丈夫だ。発疹の跡も少しずつ消えているよ。ちゃんと元通りにしてやるからな」
 ただ肌をさらす希乃を前にしても、司の声にも触れ方にも、女性に対するような危うさはどこにもない。ただ丁寧に薬を塗って、希乃を励ましてくれた。
「でも顔色はよくないな……。夜眠れていないな?」
 毎日司の世話と保護の中で生活するのはたまらなく安心なのに、思うように体調は回復しなかった。たびたびもどして、夜に悪夢に目覚める。
 希乃は言葉に詰まりながら、自分を奮い立たせて懸命に言おうとする。
「そろそろ……来週でも、学校……」
 司は薬を塗り終えると、希乃にきちんとパジャマを着せて自身は希乃のベッドに座った。
「おいで、希乃」
 呼ばれて、希乃はおずおずと司の膝に乗る。子どもの頃から数えきれないほど司の膝に座ったけれど、まだこうして息が触れ合うような距離で向き合うのは慣れない。
 希乃を腕の中に収めると、司は優しく切り出す。
「ひどく怖い経験をしたんだ。心の傷は薬を塗るように、一週間や一か月で治るものじゃない。ゆっくり広い湯舟に浸かるように、安心の中で休まないといけない。わかるな?」
「は、い……」
「怒らないから言ってごらん。……しばらく屋敷で療養したが、ここはやはり怖いか?」
 希乃は思わずこくんと喉を鳴らしてしまった。決して肯定してはいけないと思っていたのに、体が勝手に反応してしまう。
 だってそれを言ったら、丘の上の屋敷のような……鳥籠のようなところに、完全に囲われてしまう。高校卒業まであった猶予時間も、消されてしまうかもしれなかった。
「ちが……」
 希乃は否定の言葉を返そうとしたが、司は希乃の目をよくみつめて静かに告げる。
「怖いんだな」
 司の断定は、希乃の本心を的確に言い当てた。
 希乃は瞳を揺らして目を伏せる。
 ……確かに、怖かった。ここは裏社会の住民が出入りして、それは女性も同じだった。
 眠ると繰り返し悪夢を見る。食事を摂ればもどしてしまう。希乃の心は、病的に蝕まれていた。
 司は希乃の頭をなでながら、思案するように目を細める。
「いいんだ。責めてるわけじゃない。どうしたら希乃が安心して笑ってくれるか、ずっと考えただけだ。……家でも医者でも、希乃に金を使うなら惜しくはないのに」
 希乃はびくりと震えたが、司はそれには気づかなかったようだった。ふと手を止めて言う。
「医者……そうか。その手があったな」
 司はその言葉を繰り返して、ぽつりとつぶやく。
「……奴に頼るのは気に食わないが」
 首を傾げた希乃に、司は微かに嫌そうに眉をひそめた。
 翌日、司は平日だというのに希乃を連れて屋敷を出た。自ら車を走らせて、郊外の山間の道を進む。
 着いたのは少し丘を上ったところにある、保養所のような建物だった。薔薇を始めとした花々が至る所に咲き誇り、森林浴のできる散歩道が伸びていて、病院というには雰囲気の甘いところだった。
「ここは……?」
「心の治療を専門にする保養所だよ。責任者に話は通してある」
「私……入院、を……?」
 希乃が不安の宿る目で見上げると、司は首を横に振る。
「いや、通うだけだ。……俺が、希乃と離れるのは耐えられない」
 希乃は司と同じことを考えたのだと知って、くすぐったい思いになる。
「よかった……。司さまと、離れるの……怖い、から」
「……そうか」
 思わず希乃がそうつぶやくと、司はくしゃりと希乃の髪をなでて微笑んだ。
 司に手を取られて、穏やかな木の匂いのする廊下を歩いた。まもなく診察室らしい部屋に着くと、滑るように扉が開く。
 司を待っていたのは、彼と同い年ほどの若い白衣の男性だった。中世的で優しげな面差しの人で、希乃は彼が最初司の話していた責任者だとは思わなかった。
「世話になるよ、藍紀あいき
「借りを作る機会をいただいて、歓迎していますよ。司さん」
 藍紀と呼ばれた医師は、柔和な雰囲気に反して目の光は鋭かった。対する司のまとう空気もぴりっとした威圧感があって、上下関係とはもっと違うものに見えた。
「そちらが希乃さんですか? 初めまして。医師の藍紀です」
「は、はい……よ、よろしく、お願い……します」
 藍紀に優しく話しかけられたものの、希乃は司に子どものように手を引かれていることに恥ずかしくなった。顔も上げられないまま、もごもごと言葉を返す。
「それで、そちらがお前の推薦する医師か。今の希乃に女医は避けてもらいたいと言ったんだがな」
 部屋にはもう一人、藍紀より若い白衣の女性もいた。司が面と向かって不満を見せても、藍紀は動じずにうなずく。
「あらかじめお話を聞いた限り、今の希乃さんにはむしろ彼女がいいと思ったんです。……紹介を」
 藍紀は女医の隣に立って、ちらと横を見やる。
 彼女は希乃ともそう背が変わらない、小柄な女性だった。怜悧な空気をまとって、一見すると冷たそうな雰囲気でもあった。
 けれど希乃はここのところ女性に見られるたびに、女性たちが威圧感や優越感を放っているように感じていたのに……彼女からはそれを、感じることがなかった。
「子どもの心理療法を担当している……宝坂ほうさか莉珠りずです」
 静かに名乗った声が不思議と耳に心地よくて、希乃は思わず顔を上げていた。
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