橘若頭と怖がり姫

真木

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17 聖域の暴力

 保養所の一室で司を待っていた希乃は、少し眠りに落ちていたらしい。
 目覚めると司の部下が来ていて、淡々と言葉を告げる。
「司様は仕事で遅くなります。代わりにお迎えに上がりました」
 希乃は端的なその言葉に違和感を抱いた。司はいつも仕事で夜が遅いが、希乃と夕食を取るために一旦屋敷に帰って来てくれた。それに発つ前にすぐ戻ると言っていて、彼がその類の約束を破ったことはなかった。
 けれど司自身に迎えに来てほしいなどわがままに思えて、希乃の性格ではそれを口にすることはできなかった。大人しく車椅子に乗せられて、保養所を後にする。
 車の後部座席で、紫紺に染まった空を見ていた。体は重く沈むようだったが、行きは寄りかかっていた司の肩がなかったからか、落ち着かなくて眠れなかった。
 屋敷に車が横付けされると、部下が車椅子を押して屋敷に入った。
 けれど玄関に見慣れない女性物の草履と革靴がいくつも並んでいて……司の部下はそれを見て、さっと顔色を変える。
「……お部屋から少し離れますが、お許しください。希乃様」
 司の部下は急いで部屋用の車椅子に希乃を乗せ換えると、普段は使われていない西の離れに向かって進み出した。
 けれど廊下にいた見張りらしい男が、客間の方に向かった。客間の扉が開いて、中から壮年の女性が現れる。
 その姿を見て、希乃は反射的に背筋が冷えるのを感じた。
「間島さま……」
 かんざしで留めた黒髪、目元を強調するようなきっちりした化粧、そして威圧感を放つような白い着物と銀の帯。司の母はその見た目の通り厳格で、容赦のない人だった。
 希乃は慌てて立ち上がって頭を下げたが、足が弱っていてくしゃりと膝をついた。それを見て、頭上から冷えた声が飛んでくる。
「立ってあいさつもできないのですか。情けない」
「も、申し訳……ありませ……」
 彼女とは数度会っただけだが、希乃はそのたびに軽蔑の目で見下ろされていた。希乃は足が震えて立てないまま、顔を伏せて謝る。
 希乃の警備も言い含められている部下は、希乃の前に出て言葉を返す。
「間島様、希乃様は今ご病気をわずらっているのです。ご容赦を」
「そんな弱い子どもは司さんの側に寄せ付けないようにと、何度も言ったでしょう。どきなさい」
「ぐ……っ」
 司の部下は、間島が連れてきた黒服の男たちに押しやられてしまう。希乃は床についた自分の手のすぐそばに白い足袋が迫ったのを見て、ぎりぎりと胸が絞られるような思いがした。
「わかって……います。私は……そばにいては、いけなくて……」
 希乃が顔を伏せたままであることを、かえって彼女は不愉快に感じたらしい。苛立たしげに言葉を続ける。
「まだこの屋敷に寄生しているのですか。司さんの一時の情にしがみつくのもいい加減にしなさい。……司さんはお前がいるから、子どもは作らないとまで言っているのですよ」
 はっと希乃は息を呑む。けれど胸が詰まるような緊張で、腹部に激痛が走った。もどしそうな気配を感じて、希乃は懇願の声をもらす。
「いずれ……出て、いきます。でも、今は……気分が、悪くて。どうかそこを……通して、ください……」
「そうやって気を引いて。子どもというより女の手腕を使う」
 間島は心底の侮蔑の目で希乃を見下ろすと、ふと何かに気づいたように青ざめる。
「……まさか」
 間島はぐいと希乃の襟をつかむ。その手はわなわなと震えていた。
「お前まさか、司さんの子を……」
 その声音に聞き覚えがあって、恐怖が膨れあがった。
 一見すると冷徹な間島は、感情が高ぶると裏返ったように暴力をふるう。
「……な、なんてこと! 私の血が……血が、汚れてしまうじゃないの!」
 その直感はまちがっていなかった。希乃は襟をつかまれたまま床に叩きつけられて、力いっぱい背中を踏みつけられた。
「間島様っ! おやめください!」 
 司の部下が制止の声を上げるが、彼は黒服の男たちに拘束されていた。その間も、希乃は腹をつぶすように繰り返し踏まれる。額から血を流して、痛みと血で目がかすむ。
 そのとき玄関から誰かが駆け寄る足音が聞こえて、何かの破裂音が響いた。
「……希乃に何をした?」
 間島がうめき声を上げて床に倒れる。煙の匂いがした。それと共に、平坦すぎて何の感情もなくなっている司の声も聞こえた。
「希乃、希乃……痛いな。ごめん、ごめんな……」
 呪いのように謝りながら希乃を助け起こす手だけは優しくて、額からの血でよく見えなくても、希乃は子どもが母をみつけたように頬をゆるめる。
 顔を拭われて少しだけ晴れた視界で、司が能面のように感情を失った顔で希乃を見下ろしているのが映った。
 彼の肩に包帯が巻いてあって、希乃は小さな指を伸ばそうとしながら、結局触れられなかった。
「けが……いた、い?」
 彼が迎えにこなかったのは何かの事件に巻き込まれたためだったのだ。そう気づいて、こんな状況でも希乃はやっと彼の腕に戻ることができた安堵に包まれる。
 司は希乃を腕に収めながら、まだうめいている間島を見下ろす。
「母に……、は、ぁ、何てこと……っ。ど、この子ども……が、母を撃つというの……!」
 肩から血を流して間島が鬼のような形相で見上げると、司は静かに問う。
「誰のことだ?」
「は……」
「こんな女は、知らん」
 司は何も宿っていないまなざしで間島を見下ろして告げた。
「誰が聖域に踏み込んでいいと言った。……鬼が」
 背後から司の配下の者たちが駆け寄って、間島とその部下たちを捕らえる。
 にわかに去っていく暴力の気配に、希乃は人形の糸が切れたようにかくんと意識を失った。
「き、希乃……希乃! 起きてくれ、希乃……! すぐに医者を連れてこい! 希乃が……っ」
 途端に感情があふれ出すように震える手で頬をなでながら、司が繰り返し呼んでいるのが聞こえていた。 
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