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20 染み入る言の葉
腹部の怪我が悪化して入院したのは、手術を行ったその日だけのことだった。翌日から、希乃は屋敷に医療機器ごと運ばれて、厳重な看護の元で療養生活を送ることになった。
希乃のためだけに朝夕と医師が往診し、屋敷内には看護師が住み込む。兄などは仕事の合間をぬって、真昼でもたびたび様子を見に来てくれた。
希乃は常に点滴につながれてはいるが、それを持って動くことならできる。けれど兄は希乃にほとんど身動きをさせなかった。希乃の口元に食事を運び、体を拭いて着替えをさせて、お手洗いに抱いて連れて行くこともした。
「大丈夫だよ……にいさま。はずかしい、し……ちょっとずつ歩いた方がいいって、先生も……」
兄に服を脱がされるのに抵抗がある希乃は、兄の過剰な世話がうれしいと思いながらも困っていた。でもそんな希乃に、兄は甘く笑って答える。
「恥ずかしくなんてない。希乃は小さい頃から体が弱かったから、俺に世話をされるのは当たり前のことなんだぞ?」
「そうなの……かな。だって、高校生、なのに……」
「年なんて関係ない。希乃が八歳でも十八歳でも八十歳でも、俺が面倒を見る。今だって、必要ならおむつだって替えてやるんだが」
希乃は一瞬その想像をしてしまって、かぁっと顔を赤くする。ただ兄の声色はまるで本気のもので、希乃の病状が悪化したら本当にそうしてしまいそうだった。
どうにか元気になりたいと努力した希乃の願いが通じたのか、兄の外の風にも触れさせないような手厚い看病がよかったのか、希乃の病状は少しずつ快方に向かっているようだった。絶食状態だった食事も医師の監督の元で改善して、一週間の後には、自力でお手洗いに行ったり、着替えたりもできるようになった。
「希乃、少しいいか?」
ただ兄は食事だけは自分の手でやりたがって、その日の夕食も匙で希乃の口に運んだ。食後に温かい飲み物を飲ませた後、兄は少し緊張した面持ちで切り出す。
「これから俺が言うのはな、希乃が嫌なら、もっと延期したっていいんだ。俺は希乃が本気で嫌がるようなことは絶対しない。だから安心して聞いてくれ」
「どうしたの、にいさま……?」
希乃は不思議そうに目をまたたかせて、兄が言葉に迷う素振りに首をかしげる。
(私が弱ってるから、心配して、くれてるんだ……。にいさまはやっぱり、やさしい……)
希乃はそう思って、あどけなく目を和らげて言う。
「うん、大丈夫……。だから、お話、して……?」
兄はそれを聞いて、そっとその言葉を切り出す。
「……あのな、希乃。高校を退学して、俺と一緒に新しい屋敷で暮らさないか?」
希乃は思いもよらない提案に、驚いて目を見張った。
希乃はうつむいて考え込んだ。兄はその間、ずっと希乃が答えるのを待っていてくれた。
やがて希乃は長い沈黙の後に答える。
「退学は、私も、そうした方がいいと思う……出席、全然できて、ないから」
「……よかった。希乃ががんばって入った高校だからな。就職するとまで言っていて……ああ、この話はいい。とにかく、嫌がると思ってたんだ」
兄はほっとしたように息をもらしたが、ふと鋭い目で問いを重ねる。
「退学はいいんだな。でもこの屋敷は離れたくない……何か気がかりがある、と?」
「えっと、ね……」
希乃はうつむいていて、兄の探るような目に気づかないままそうっと答える。
「にいさま……お付き合いしている人、いない……?」
「ん? いないよ、なんでだ?」
「にいさまは、跡取りで……じきに結婚も、すると、思うの。それで、私と、暮らしてたら……相手の人、誤解しちゃう……の」
「ははっ」
兄は可笑しそうに喉を震わせて笑って、希乃の頭をぽんぽんと撫でる。
「希乃は本当にかわいいなぁ? 希乃は俺の一番大事な子で、宝物だ。希乃を邪険にするような女はこちらから願い下げだ」
「で、でも。いつまでも、一緒、には」
「それに、な。もし結婚したとしても、俺は希乃を絶対に手放したりしない」
兄の手が止まって、希乃は思わず兄を見上げてしまった。
「……希乃が俺から離れでもしたら、足に鎖をつけてでも連れ戻す」
そこには深淵のような瞳があって、希乃は一瞬怖いとまで思った。
けれどそれはひとときのことで、兄は元通りの優しい微笑みに戻っていた。希乃の頭をよしよしと撫でて、甘い声音でささやく。
「なんだ、俺と一緒に新しい屋敷に住むのもいいんだな? そうだな。俺と希乃はきょうだいなんだ。ずっと一緒にいて当然だもんな?」
希乃はそれを聞きながら、頭にじわっと「きょうだい」という言葉が浮かび上がってくるのを感じた。
ーー俺は希乃の唯一のきょうだい。だから俺だけはなんにも怖くない。ずっと変わらない。
兄の呪文のような声が、頭の中から言葉を返してくる。まるで何かの暗示のようだった。
考えに沈む希乃の耳に、兄の声が聞こえてくる。
「よしよし……退学の手続き、しておくな。家の手配も進める。……希乃、今日はまだ抱きしめてなかったな。毎日愛情を注ぐ約束だもんな」
兄は希乃を腕に収めて、愛おしそうに髪を手で梳く。
(にいさま、すき……。だからこのままで、いい……?)
希乃はどこか不安の欠片が胸の奥に残っている気がしながらも、おずおずと兄の背に腕を回した。
希乃のためだけに朝夕と医師が往診し、屋敷内には看護師が住み込む。兄などは仕事の合間をぬって、真昼でもたびたび様子を見に来てくれた。
希乃は常に点滴につながれてはいるが、それを持って動くことならできる。けれど兄は希乃にほとんど身動きをさせなかった。希乃の口元に食事を運び、体を拭いて着替えをさせて、お手洗いに抱いて連れて行くこともした。
「大丈夫だよ……にいさま。はずかしい、し……ちょっとずつ歩いた方がいいって、先生も……」
兄に服を脱がされるのに抵抗がある希乃は、兄の過剰な世話がうれしいと思いながらも困っていた。でもそんな希乃に、兄は甘く笑って答える。
「恥ずかしくなんてない。希乃は小さい頃から体が弱かったから、俺に世話をされるのは当たり前のことなんだぞ?」
「そうなの……かな。だって、高校生、なのに……」
「年なんて関係ない。希乃が八歳でも十八歳でも八十歳でも、俺が面倒を見る。今だって、必要ならおむつだって替えてやるんだが」
希乃は一瞬その想像をしてしまって、かぁっと顔を赤くする。ただ兄の声色はまるで本気のもので、希乃の病状が悪化したら本当にそうしてしまいそうだった。
どうにか元気になりたいと努力した希乃の願いが通じたのか、兄の外の風にも触れさせないような手厚い看病がよかったのか、希乃の病状は少しずつ快方に向かっているようだった。絶食状態だった食事も医師の監督の元で改善して、一週間の後には、自力でお手洗いに行ったり、着替えたりもできるようになった。
「希乃、少しいいか?」
ただ兄は食事だけは自分の手でやりたがって、その日の夕食も匙で希乃の口に運んだ。食後に温かい飲み物を飲ませた後、兄は少し緊張した面持ちで切り出す。
「これから俺が言うのはな、希乃が嫌なら、もっと延期したっていいんだ。俺は希乃が本気で嫌がるようなことは絶対しない。だから安心して聞いてくれ」
「どうしたの、にいさま……?」
希乃は不思議そうに目をまたたかせて、兄が言葉に迷う素振りに首をかしげる。
(私が弱ってるから、心配して、くれてるんだ……。にいさまはやっぱり、やさしい……)
希乃はそう思って、あどけなく目を和らげて言う。
「うん、大丈夫……。だから、お話、して……?」
兄はそれを聞いて、そっとその言葉を切り出す。
「……あのな、希乃。高校を退学して、俺と一緒に新しい屋敷で暮らさないか?」
希乃は思いもよらない提案に、驚いて目を見張った。
希乃はうつむいて考え込んだ。兄はその間、ずっと希乃が答えるのを待っていてくれた。
やがて希乃は長い沈黙の後に答える。
「退学は、私も、そうした方がいいと思う……出席、全然できて、ないから」
「……よかった。希乃ががんばって入った高校だからな。就職するとまで言っていて……ああ、この話はいい。とにかく、嫌がると思ってたんだ」
兄はほっとしたように息をもらしたが、ふと鋭い目で問いを重ねる。
「退学はいいんだな。でもこの屋敷は離れたくない……何か気がかりがある、と?」
「えっと、ね……」
希乃はうつむいていて、兄の探るような目に気づかないままそうっと答える。
「にいさま……お付き合いしている人、いない……?」
「ん? いないよ、なんでだ?」
「にいさまは、跡取りで……じきに結婚も、すると、思うの。それで、私と、暮らしてたら……相手の人、誤解しちゃう……の」
「ははっ」
兄は可笑しそうに喉を震わせて笑って、希乃の頭をぽんぽんと撫でる。
「希乃は本当にかわいいなぁ? 希乃は俺の一番大事な子で、宝物だ。希乃を邪険にするような女はこちらから願い下げだ」
「で、でも。いつまでも、一緒、には」
「それに、な。もし結婚したとしても、俺は希乃を絶対に手放したりしない」
兄の手が止まって、希乃は思わず兄を見上げてしまった。
「……希乃が俺から離れでもしたら、足に鎖をつけてでも連れ戻す」
そこには深淵のような瞳があって、希乃は一瞬怖いとまで思った。
けれどそれはひとときのことで、兄は元通りの優しい微笑みに戻っていた。希乃の頭をよしよしと撫でて、甘い声音でささやく。
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希乃はそれを聞きながら、頭にじわっと「きょうだい」という言葉が浮かび上がってくるのを感じた。
ーー俺は希乃の唯一のきょうだい。だから俺だけはなんにも怖くない。ずっと変わらない。
兄の呪文のような声が、頭の中から言葉を返してくる。まるで何かの暗示のようだった。
考えに沈む希乃の耳に、兄の声が聞こえてくる。
「よしよし……退学の手続き、しておくな。家の手配も進める。……希乃、今日はまだ抱きしめてなかったな。毎日愛情を注ぐ約束だもんな」
兄は希乃を腕に収めて、愛おしそうに髪を手で梳く。
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