橘若頭と怖がり姫

真木

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21 欠けたものは

 希乃の毎日は凪のように平穏に流れていった。
 食事を取り、医師の診察を受けて、少しずつ部屋の外や庭に出て散歩をする。兄はたびたび様子を見にきて、変わったことはないか、痛かったり苦しかったりはしないかとたずねる。
「私、元気だよ……。ごはんも、食べられるようになったし……よく眠れるの。にいさまの、おかげ……」
 希乃があどけなく答えると、兄は安心したように希乃の頭を撫でた。
「希乃が俺の言うことをきいて、いい子にしてたからだな。うれしいよ、希乃。じきに外にも連れて行ってやろうな」
「うん……楽しみなの」
 希乃はにこにこ笑って、兄はそんな希乃の笑う顔を見ているのが何より幸せそうだった。
 体の痛みは、まだ時々ある。ただ不可解な腹部の青あざはほぼ消えていた。病気に倒れる前は頻繁にあったという呼吸器の発作も起きることなく、希乃以上に兄を安心させた。
 希乃の日常に大きな違和感が入り込んだのは、高校を退学して数日後のことだった。
 兄は希乃に確認して以来何も言わずに退学の手続きを終えたから、希乃は病気になってから結局一度も学校に行くことがなかった。でも体調がよくなってきたのもあって、パソコンでメールボックスを開いたら、学校の先生からメールが入っているのに気づいた。
 担任の森川からは丁寧なお見舞いの言葉が書かれていたが、終わりの言葉が希乃の心を引っ掻いた。
「独学でできる、介護の資格試験のテキストをいくつかご紹介しますので、役立ててください。お母様のお世話をしながら働くという希乃さんの希望が、どうか叶いますように」
 介護の資格試験、就職希望……それと、お母様。
 でも希乃はそれらを何一つ覚えていない。介護の仕事をしたいと思ったことも……自分に世話ができる母がいるという事実さえも。
 希乃は冷たい水を浴びたような気分になって、しばらくパソコンを前に身動きが取れなかった。
 希乃の母は小さい頃に亡くなった。それでこの屋敷に引き取られて、兄と本当のきょうだい同然に育った。
 けれどどうして今まで奇妙に思わなかったのかわからないが、希乃と兄は父も母も違う。それなのに、何の関係でこの屋敷に引き取られたのかも知らないなんて、変だ。
 まして病気をする前の自分が、介護の仕事をしたいと思っていたなんて……それはまるで、母親が、すぐそばにいるような……。
「……ぅ、あぅ……っ」
 瞬間、頭がみしりと締め付けられるように痛んだ。それには触れるなと、兄の声が響いた気がした。
 希乃は首を横に振って、本棚に駆け寄った。病気をする前の自分が介護の仕事をしたいと思っていたなら、資格試験の本の類があるはずだ。
 希乃の部屋には兄が与えてくれた、壁を覆うような立派な本棚がある。小さい頃からの絵本に始まって、娯楽の本や、勉強の本だって置いてある。
 でもそこに介護の資格本は一つもなくて……希乃はどうしてか、一番下段の大型本のところを見ていた。
 なぜか希乃は、無意識に一番下段を繰り返し見る癖があると気づいていた。そこにも兄が小さい頃から惜しげもなく与えてくれた図鑑がたくさん詰まっている。きっと小さい頃好きだったんだと、希乃はほほえましく思っていた。
「……ない」
 ふいに自分から愕然とした声が漏れて、寒気を感じたように体が震えた。
 無いという事実が希乃を打ちのめす。何が無いのかさえわからないのに、自分の中に大きな空洞が空いたように、そこに入っているはずのものがみつけられない。
 図鑑はたくさんある。動物図鑑、乗り物図鑑、水の生き物図鑑、ありとあらゆる図鑑がそろっている。でもたった一つ……ぼろぼろになるまで見た、あの一冊が無い。
「あの……車を出して、もらいたくて」
 希乃の心は、欠けたものを取り戻すようにとっさに動いた。廊下を出て、車の管理をしている使用人に声をかける。
「お嬢様、まだお体が本調子ではありません。私が買ってきますので、何でもお申し付けください」
「でも……」
 使用人は柔らかく答えたが、兄に言いつけられているらしく、決して希乃の外出を認めてはくれなかった。希乃はしゅんとして、引き下がるしかなかった。
「希乃、外出したいと言ったそうだな? どこに行きたいんだ?」
 夜、使用人から報告を受けたのか、帰ってきて早々に兄が優しくたずねてくれた。希乃は違和感そのものは言えないまま、そっと言葉を返す。
「本屋さんに……行きたいの」
「そうか。いいよ、明日にも行こうな」
 ただ兄は二つ返事で認めてくれて、希乃は得体の知れない違和感は気のせいだったようにも思った。
「よかった。希乃が元気になった証拠だな。いっぱい欲しいもの、買ってやるからな……」
 兄は上機嫌にうなずいて、使用人に手配を言いつけていた。
 翌日、兄は希乃を大型書店に連れてきてくれた。そこは美術館のように洒落た三階建ての建物で、希乃たちが行ったときには臨時休業にして貸し切ってあった。驚いている希乃に、兄はにこやかに言う。
「好きな本を好きなだけ買ってやる。体調が回復した祝いだ。何でも言えばいい」
「うん……ありがとう、にいさま……」
 希乃は兄の気遣いをうれしいと感じながらも、逸る気持ちは止められなかった。
 店員に言えばどんな本も出してもらえるとは聞いたが、希乃自身が店内を見て回りたかった。店内は静かな音楽がかかっていて、どこか日常と違う空気が流れている。ファッション、グルメ、趣味。その品揃えは多分野に渡って、何でもあるようにも見えた。
「介護、は……」
 ただ残念なことに、真っ先に希乃が探した、介護の資格試験の本のような実用的なものは見当たらなかった。ここは裕福な客が楽しみで本を探しに来る店らしかった。
 希乃はそのことにがっかりはしたものの、介護の仕事をしようと思っていた理由もわからないのだから、資格本そのものを買い求めるつもりはなかった。それよりもと、子ども向けのエリアに足を踏み入れる。
 子ども向けの書籍は豊富にあった。絵本も易しい小説も、もちろん図鑑も本棚一面に並んでいる。
 希乃はその図鑑の並ぶ辺りをじっくりと見て回って、ふと足を止めた。
 青に金色の縁取りのされた装丁の、子どもには高価に思える植物図鑑。それが光っているように目が吸い寄せられて、逸らせなかった。
(……知ってる、これ、大事な……もの)
 自分の中の小さな自分が、泣き出しそうなくらい喜んでいる。そういう感覚があった。
「あった……!」
 その理由がわからないまま、希乃は少し高い位置にあるその本にまっすぐに手を伸ばす。
 けれど図鑑に手が届く前に、ひょいと横から手が伸びて誰かがその本を取り上げてしまう。
「……「あった」?」
 いつ来たのか、兄がすぐ側にいて希乃を見下ろしていた。
 兄の目は見たこともないくらいに冷えていて、それは声も同じだった。
「どうしてこの本を探してたんだ?……言ってごらん、希乃」
 希乃は前にも兄にその本を取り上げられたような気がして、こくんと喉を鳴らして立ちすくんだ。
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