橘若頭と怖がり姫

真木

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25 ある未来

 宝坂が話した患者は、希乃と同じ十八歳の少女だった。
 倫理観が人一倍強くて、けれど体は人より弱くて、思うように動かない自分の体がひどくもどかしかった。
 彼女は子どもの頃に両親を失って、親戚の元に引き取られた。
 そこで、優しい義兄が出来た。
 義兄は過保護な人だった。病気がちの彼女をいつも庇ってくれた。彼女も義兄を慕って、いつしか淡い恋心さえ持つようになった。
 ……それが、迷路の始まり。
「彼女と義兄を仲違いさせようと、彼女に「治療」を施した親族がいたのです」
 宝坂の言葉に、希乃は小さく治療と繰り返す。
「癒す、ため……ではなく……壊す、ため?」
 希乃が眉を寄せてつぶやくと、宝坂はうなずいて続ける。
「義兄に怯え、彼女は精神的に不安定になって自傷行為を繰り返すようになり……義兄は見ていられなくなったのでしょう。義兄は医師に頼み込んで、今度こそ彼女を癒すために、もう一度治療を施した」
 まったく逆の目的でされた、二度の治療。希乃はその結果が想像できなくて、待つように宝坂をみつめた。
 宝坂はそこで少し言葉をためらったようだったが、答えは与えてくれた。
「私たちの施す治療は心の上書きと同じです。最初の治療は義兄を忌むものとして上書きされた。……二度目の治療は、その義兄を忘れてしまうように上書きされた」
 希乃ははっと息を呑んで、自分と同じ年のその少女に思いを馳せた。
 優しい、過保護な兄への感情がとても大切なものだと、希乃もわかる。でもその患者の少女は義兄への思いがねじれ、そして他ならぬ義兄によって忘れさせられてしまった。
 ……どれだけ痛かっただろう。そう希乃が思ったとき、話し手の宝坂も痛そうな顔をした。患者に向き合う医師としては、近すぎる共感を抱いているようだった。
 もしかしたらと思って、希乃はそっと問いを投げかける。
「その、女の子……は、お兄さんを思い出すことが、できた……のですか? それとも……」
 希望を託すように希乃が問うと、宝坂は首を横に振った。
「十年近く経った今も、義兄との思い出を取り戻すことはできていません」
「そんな……」
「でも義兄が自分を犠牲にしてでも彼女にくれた気持ちは、ちゃんと理解しています」
 希乃がまばたきをすると、宝坂は独り言のようにつぶやく。
「……庇ってくれたのも、わかっているんです。ただ義兄の思い出を欠片だって、手放したくはなかっただけで……」
 宝坂は顔を上げると、じっと希乃を見据えて告げる。
「希乃さん。私は既に一度、希乃さんの意思に反して治療を施してしまった。治療をなかったことにはできない。……でも希乃さんの意思で、もう一度治療を施してさしあげることならできる」
「……先生」
 希乃はまじまじと宝坂をみつめ返す。宝坂はどこか心配そうに希乃を見ながら言った。
「希乃さんの世界はあまりにお兄様に支配されて、苦しそうに見える。元々はそんなねじれた気持ちではなかったのでは? ……もし希乃さんが望むなら、お兄様への感情を淡い憧れに上書きできますよ」
 希乃はまばたきもせずにその言葉を聞いていた。惑う自分の心に、そろそろと問いかける。
(今は、にいさまが世界の全部……。私の抱く気持ちが淡い憧れになれば、普通のきょうだいみたいに、なれる……?)
 それは夢のような関係に見えた。今のようにいつも触れ合っていなければ、初潮が来ただけで兄の手に怯えなくていい。
 ……いつか兄が側に立つ女性を選んだらと、捨てられる想像をしなくていい。
「どうしました?」
 希乃はふいに泣きそうに顔を歪めた。宝坂が気づかわしげに問いかけて、希乃は首を横に振る。
「……ううん。治療をするのも……しないのも、にいさまに、任せます……」
「希乃さん」
「その女の子みたいに、記憶を惜しむ、資格も、ない……。いままで、なんにも……選んできて、ないから……でも」
 希乃はそう言ってから、小声で言葉を続ける。
「でも……にいさまが、いらなく、なるまで……にいさまのもので、いたい。にいさまが、くれるものが……私の、全部でいい……」
 希乃はとても自己主張しているようには見えない、弱い声で精一杯の意思を告げる。
「支配でも、管理でも……にいさまの世界に囲まれていたい」
 希乃の言葉は、医師であり大人の宝坂から見たら、正常とはいえなかっただろう。
 ただ宝坂は落胆する素振りも、否定の態度を見せることもなく、ただ目を伏せて沈黙した。
 結局、宝坂とはそれ以降その話をすることはなく、希乃は別室で休むことになった。
 日中は陽射しが強い季節になってきたが、森林に囲まれた丘の上の保養所に夏の気配はなく、窓を開ければ涼し気な風が入り込んでくる。
 兄と離れている時間はただ不安で、今すぐに帰りたい思いもある。けれど初潮のことがあって、今日はまだ兄と顔を合わせるのも怖かった。
 夜の八時を回る頃、一人でお風呂に入った。それだって、兄のいない建物だと思うと落ち着かなかった。
(ひとりで、生きられないんだ……私)
 お風呂からとぼとぼと廊下を歩いていると、曲がり角の向こうで誰かが話しているのが聞こえた。
「夜食持ってきた。これ食べて、無理せず早く寝ろよ」
「……もうそんな子どもじゃない」
 一人は男性で、もう一人は宝坂だった。けれど意外なことに、男性に答えた宝坂の声は子どもが照れ隠しをするようなものだった。
「何時に終わる? 迎えに来るから」
「いい。だから、夜勤も何度もしたことがあるの。もう帰って」
「そうは言ったってなぁ……また熱出すぞ。あ」
「もう行く。仕事があるから」
 男性はいかにも帰り難そうにしていて、しびれを切らしたのか宝坂だけが歩き出す。
 ふいに宝坂が曲がり角を折れて、希乃と目が合う。その瞬間に宝坂の顔に浮かんだのは、冷静な医師としてではなく、困り顔の少女のような表情だった。
 宝坂は小さくため息をつくと、打ち明けるように告げる。
「本当のところ、私が希乃さんとお兄様を責める資格なんてないんです」
 宝坂は後ろからついてきた男性を、もどかしいほど意識しながら言う。
「……にいさんと結婚した、私ではね」
 希乃はぱちりと目を瞬かせて……ふわりと微笑む。
 自分もいつか、今は苦しい感情が別のものに変わるときも来るだろうか。そう思って、また言い合いを始めた二人を見送った。
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