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34 いつか結婚する日まで
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それから一週間後、リハビリを終えて体調を戻した撫子は退院することになった。
「一人で大丈夫?」
「地図があるから平気ですよ。電話番号もメモしてありますし」
心配してくれた看護師に、撫子が行く施設から送られてきた手紙を見せながら告げる。
「お世話になりました。先生も」
「二度と来ないでくださいね。解体もできずに眠らせておくだけの患者なんて面倒なだけですから」
口が減らない先生に笑い返して、撫子は玄関で頭を下げてから別れた。
歩いて最寄りの駅に向かう。銀杏の葉が降り積もる金色の歩道は、撫子が眠りについた夏とはすっかり様変わりしていた。
「んーと……あ」
撫子は地図を見ながら歩いていたので、誰かにぶつかってしまった。
足元の銀杏が音を立てる。
つまずきそうになった撫子の手を、誰かがつかんだ。
「危ないですよ」
その人は車道に落ちそうになっていたところを止めてくれた。撫子は慌てて頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「いいえ」
撫子の横を、彼は言葉少なく通り過ぎていく。
落ち葉の上に、その人の黒い影が動いていくのを視界の隅で捉える。
撫子は思わず振り返っていた。
意識のどこかに、強烈に蘇るものを感じた。
既にだいぶ離れているその背中に、撫子は駆け寄る。
この空気を、撫子は知っている。背中で笑っている気配を、撫子は覚えている。
「待ってください!」
道を折れて、駅前の公園にいた。線路が長く伸びて、撫子の向かう駅舎がすぐ間近に見える。
撫子は彼の肩に触れて、息を切らしながら叫ぶ。
「……あなたは」
その人には猫耳も尻尾もない。髪も白くなければ顔立ちがとりたてて整っているわけでもない。
どこにでもいそうな、黒髪に黒い瞳の若い男性。
だけど一緒に過ごした時間が、迷うことなく彼を当てることができる。
「私を旧坑道から病院に運んでくれたのはあなたですね? 借金を返してくれたのも」
無表情で振り返ったその人に、撫子は顔を上げて言う。
「……キャット・ステーション・ホテルに連れて行ってくれたのも。オーナー!」
死出の世界でのことはすべて夢かもしれないと考えたこともあった。
けれど目覚めた時の頬の温もりを思い返すたび、自分が持つ記憶を確かなものだと信じられた。
「間違っていたらどうするつもりだったんですか」
彼はゆるりと笑みを浮かべる。その皮肉まじりの笑顔を、撫子は知っている。
「頭がおかしいと言われて病院に逆戻りしたかもしれませんよ、撫子」
撫子は思わず笑って、すぐにその笑みを引っ込める。
「オーナー。聞いてください」
オーナーの服の裾を掴んで撫子は言う。
「少しでいいので時間をください。まだ伝えていないことがあるんです」
もう一度会えたことについ安心しそうになる。でも今すぐにでもオーナーが消えてしまうかもしれないと思うと落ち着いていられなかった。
オーナーは一瞬黙って立ち止まる。
撫子は息を吸って言った。
「私が今こうしていられるのはあなたのおかげです。ありがとうございます」
まずは何においても伝えたかったお礼を告げて、撫子は頭を下げた。
「私がこっちの世界に戻って来たのは両親のためなんて綺麗な理由だけじゃありません。もっと大きな、自分勝手な理由があります」
最大限の誠意を見せてくれたオーナーには、嘘をついたままではいられなかった。
「私、あのままだと毎日に引け目を感じながら暮らさなきゃいけなかったと思うんです」
言葉にするのも難しかったから、撫子は迷いながら言った。
「だってオーナーも最初に言っていました。キャット・ステーション・ホテルは、この世で抱えた疲れを癒す場所だって」
でも、と撫子は続ける。
「この世で疲れるほど一生懸命生きたお客様。それがあのホテルのお客様の資格ですよね。……でも私にはそれがなかった。両親がいなくなったことに失望して、この世から逃げだしただけでした」
それではいけないと思った。自分は中途半端で、本来ならお客様になれないはずだった。
「オーナーが一生懸命作ったホテルなのに、いい加減な理由ではいられない」
オーナーは求婚して撫子を迎え入れてくれた。何よりオーナーに対して、撫子はそんな中途半端な資格であそこに留まるわけにはいかなかった。
「それで……私は……」
視線をさまよわせて言い淀んで、撫子は何とか顔を上げてオーナーの目を見る。
「今は無理でも、いつか堂々と胸を張れる「お客様」の資格を得てから」
オーナーの目がぴくりと動いた。
「……それからあのホテルに行きたい! オーナーに特別扱いされて裏口から入るんじゃなくて、ちゃんと表から入って休暇を過ごしたいんです!」
言いきった。そのことに、撫子はほっと息をつく。
「それが約束を破る理由ですか」
「すみません!」
反射的に謝った撫子に、オーナーがふっと笑う気配がした。
「怒れたらどんなにいいでしょうか」
オーナーは撫子の頬に手を触れた。顔を上げさせられて、撫子はオーナーの表情を窺うことができるようになる。
「私もあなたに黙っていたことがあります。あなたを妻に選んだのは、名前の他にもう一つ大きな理由がありました」
彼は柔らかく微笑んでいた。見た目は撫子の知らない男性の姿なのに、撫子は確かにそこにオーナーの面影を感じていた。
「私はあなたをずっと見ていました。あなたは借金だらけの両親に付き合っていつもひとところに留まることなく転々としていた。生活は惨めなほど貧しくて、友達もすぐに失って、世間からは白い目で見られる。傍から見れば不幸そのものの生活」
オーナーは苦笑を浮かべて言う。
「苦労の源である両親と縁を切って誰かに助けを求めれば、もっと器用に生きればいいものを、あなたは物がわかる年頃になっても一緒に苦労をしていた。……なんて馬鹿な子だろうと思いました」
撫子が苦笑を返すと、オーナーも口の端を上げる。
「でもあなたはその生活に満足して楽しんでいましたね。嫌々ではなく、自分の意思で両親と一緒にいることを選んでいました」
撫子ははっとしてオーナーを見返す。
「死出の住民には、こちらの世界の住民の嘘は色のついた霧のように見ればわかるものなのですよ」
オーナーは目を細めて告げる。
「あなたは自分の望むままに生きていた。馬鹿正直な生き方が、無為で無生産で実に美しいと思ったんです」
皮肉屋のオーナーの最大の賛辞がこめられているのを感じ取って、撫子は言う。
「全然褒めてるように聞こえませんよ」
ぷっと吹き出して、撫子は頬をかいて照れた。
「そんな馬鹿な子に私は弱いのです」
オーナーは苦笑を収めて言う。
「あなたがいつかまた当ホテルに戻るなら、私はそれをいつまでも待ちます」
「また行ってもいいんですか? ……あ」
撫子は思わず顔を輝かせる。そんなの現金だとあきれてすぐ笑顔を引っ込めた撫子に、オーナーはそっと言う。
「あなたがその命を終える時まで私を覚えているのならば」
「絶対覚えてます。百年経っても忘れたりしません!」
繰り返しうなずく撫子を引き寄せて、オーナーは撫子を抱きしめた。
このひとの腕は出会ったときから今まで、ずっと温かい。撫子もオーナーの背中に腕を回して抱きしめ返す。
「約束します。いつ死んでも未練なんて一つも残さないくらい生きて、絶対に死出の世界で休暇を取ってみせますから」
撫子の頭の上で、オーナーがうなずく気配がした。
「約束です。極上の休暇をご用意して、お待ちしております」
ゆっくりと体を離して、オーナーは撫子に言った。
「電車に遅れますよ。せっかく勝ち取った生の世界の時間です。大切になさい」
「はい!」
撫子はうなずいて、駅舎に向かって歩き出す。
古びた駅の改札を通って、出発間近の列車に乗り込む。
窓から公園を見下ろすと、先ほどオーナーが立っていた場所に白猫が座っていた。いつか見た、綺麗でしなやかな体躯の猫だった。
こちらを見上げているその猫に、撫子は力いっぱい手を振る。
いつか帰る場所がある。生の世界を力いっぱい走り終えた後には、大好きな存在に会える。
だから、私はこれから何があろうと大丈夫。十分休んだ魂は、もう一度人生に漕ぎだす力を与えてくれたのだから。
「行ってきます」
新しい場所へ、撫子を乗せた列車はゆっくりと走り始めた。
「一人で大丈夫?」
「地図があるから平気ですよ。電話番号もメモしてありますし」
心配してくれた看護師に、撫子が行く施設から送られてきた手紙を見せながら告げる。
「お世話になりました。先生も」
「二度と来ないでくださいね。解体もできずに眠らせておくだけの患者なんて面倒なだけですから」
口が減らない先生に笑い返して、撫子は玄関で頭を下げてから別れた。
歩いて最寄りの駅に向かう。銀杏の葉が降り積もる金色の歩道は、撫子が眠りについた夏とはすっかり様変わりしていた。
「んーと……あ」
撫子は地図を見ながら歩いていたので、誰かにぶつかってしまった。
足元の銀杏が音を立てる。
つまずきそうになった撫子の手を、誰かがつかんだ。
「危ないですよ」
その人は車道に落ちそうになっていたところを止めてくれた。撫子は慌てて頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「いいえ」
撫子の横を、彼は言葉少なく通り過ぎていく。
落ち葉の上に、その人の黒い影が動いていくのを視界の隅で捉える。
撫子は思わず振り返っていた。
意識のどこかに、強烈に蘇るものを感じた。
既にだいぶ離れているその背中に、撫子は駆け寄る。
この空気を、撫子は知っている。背中で笑っている気配を、撫子は覚えている。
「待ってください!」
道を折れて、駅前の公園にいた。線路が長く伸びて、撫子の向かう駅舎がすぐ間近に見える。
撫子は彼の肩に触れて、息を切らしながら叫ぶ。
「……あなたは」
その人には猫耳も尻尾もない。髪も白くなければ顔立ちがとりたてて整っているわけでもない。
どこにでもいそうな、黒髪に黒い瞳の若い男性。
だけど一緒に過ごした時間が、迷うことなく彼を当てることができる。
「私を旧坑道から病院に運んでくれたのはあなたですね? 借金を返してくれたのも」
無表情で振り返ったその人に、撫子は顔を上げて言う。
「……キャット・ステーション・ホテルに連れて行ってくれたのも。オーナー!」
死出の世界でのことはすべて夢かもしれないと考えたこともあった。
けれど目覚めた時の頬の温もりを思い返すたび、自分が持つ記憶を確かなものだと信じられた。
「間違っていたらどうするつもりだったんですか」
彼はゆるりと笑みを浮かべる。その皮肉まじりの笑顔を、撫子は知っている。
「頭がおかしいと言われて病院に逆戻りしたかもしれませんよ、撫子」
撫子は思わず笑って、すぐにその笑みを引っ込める。
「オーナー。聞いてください」
オーナーの服の裾を掴んで撫子は言う。
「少しでいいので時間をください。まだ伝えていないことがあるんです」
もう一度会えたことについ安心しそうになる。でも今すぐにでもオーナーが消えてしまうかもしれないと思うと落ち着いていられなかった。
オーナーは一瞬黙って立ち止まる。
撫子は息を吸って言った。
「私が今こうしていられるのはあなたのおかげです。ありがとうございます」
まずは何においても伝えたかったお礼を告げて、撫子は頭を下げた。
「私がこっちの世界に戻って来たのは両親のためなんて綺麗な理由だけじゃありません。もっと大きな、自分勝手な理由があります」
最大限の誠意を見せてくれたオーナーには、嘘をついたままではいられなかった。
「私、あのままだと毎日に引け目を感じながら暮らさなきゃいけなかったと思うんです」
言葉にするのも難しかったから、撫子は迷いながら言った。
「だってオーナーも最初に言っていました。キャット・ステーション・ホテルは、この世で抱えた疲れを癒す場所だって」
でも、と撫子は続ける。
「この世で疲れるほど一生懸命生きたお客様。それがあのホテルのお客様の資格ですよね。……でも私にはそれがなかった。両親がいなくなったことに失望して、この世から逃げだしただけでした」
それではいけないと思った。自分は中途半端で、本来ならお客様になれないはずだった。
「オーナーが一生懸命作ったホテルなのに、いい加減な理由ではいられない」
オーナーは求婚して撫子を迎え入れてくれた。何よりオーナーに対して、撫子はそんな中途半端な資格であそこに留まるわけにはいかなかった。
「それで……私は……」
視線をさまよわせて言い淀んで、撫子は何とか顔を上げてオーナーの目を見る。
「今は無理でも、いつか堂々と胸を張れる「お客様」の資格を得てから」
オーナーの目がぴくりと動いた。
「……それからあのホテルに行きたい! オーナーに特別扱いされて裏口から入るんじゃなくて、ちゃんと表から入って休暇を過ごしたいんです!」
言いきった。そのことに、撫子はほっと息をつく。
「それが約束を破る理由ですか」
「すみません!」
反射的に謝った撫子に、オーナーがふっと笑う気配がした。
「怒れたらどんなにいいでしょうか」
オーナーは撫子の頬に手を触れた。顔を上げさせられて、撫子はオーナーの表情を窺うことができるようになる。
「私もあなたに黙っていたことがあります。あなたを妻に選んだのは、名前の他にもう一つ大きな理由がありました」
彼は柔らかく微笑んでいた。見た目は撫子の知らない男性の姿なのに、撫子は確かにそこにオーナーの面影を感じていた。
「私はあなたをずっと見ていました。あなたは借金だらけの両親に付き合っていつもひとところに留まることなく転々としていた。生活は惨めなほど貧しくて、友達もすぐに失って、世間からは白い目で見られる。傍から見れば不幸そのものの生活」
オーナーは苦笑を浮かべて言う。
「苦労の源である両親と縁を切って誰かに助けを求めれば、もっと器用に生きればいいものを、あなたは物がわかる年頃になっても一緒に苦労をしていた。……なんて馬鹿な子だろうと思いました」
撫子が苦笑を返すと、オーナーも口の端を上げる。
「でもあなたはその生活に満足して楽しんでいましたね。嫌々ではなく、自分の意思で両親と一緒にいることを選んでいました」
撫子ははっとしてオーナーを見返す。
「死出の住民には、こちらの世界の住民の嘘は色のついた霧のように見ればわかるものなのですよ」
オーナーは目を細めて告げる。
「あなたは自分の望むままに生きていた。馬鹿正直な生き方が、無為で無生産で実に美しいと思ったんです」
皮肉屋のオーナーの最大の賛辞がこめられているのを感じ取って、撫子は言う。
「全然褒めてるように聞こえませんよ」
ぷっと吹き出して、撫子は頬をかいて照れた。
「そんな馬鹿な子に私は弱いのです」
オーナーは苦笑を収めて言う。
「あなたがいつかまた当ホテルに戻るなら、私はそれをいつまでも待ちます」
「また行ってもいいんですか? ……あ」
撫子は思わず顔を輝かせる。そんなの現金だとあきれてすぐ笑顔を引っ込めた撫子に、オーナーはそっと言う。
「あなたがその命を終える時まで私を覚えているのならば」
「絶対覚えてます。百年経っても忘れたりしません!」
繰り返しうなずく撫子を引き寄せて、オーナーは撫子を抱きしめた。
このひとの腕は出会ったときから今まで、ずっと温かい。撫子もオーナーの背中に腕を回して抱きしめ返す。
「約束します。いつ死んでも未練なんて一つも残さないくらい生きて、絶対に死出の世界で休暇を取ってみせますから」
撫子の頭の上で、オーナーがうなずく気配がした。
「約束です。極上の休暇をご用意して、お待ちしております」
ゆっくりと体を離して、オーナーは撫子に言った。
「電車に遅れますよ。せっかく勝ち取った生の世界の時間です。大切になさい」
「はい!」
撫子はうなずいて、駅舎に向かって歩き出す。
古びた駅の改札を通って、出発間近の列車に乗り込む。
窓から公園を見下ろすと、先ほどオーナーが立っていた場所に白猫が座っていた。いつか見た、綺麗でしなやかな体躯の猫だった。
こちらを見上げているその猫に、撫子は力いっぱい手を振る。
いつか帰る場所がある。生の世界を力いっぱい走り終えた後には、大好きな存在に会える。
だから、私はこれから何があろうと大丈夫。十分休んだ魂は、もう一度人生に漕ぎだす力を与えてくれたのだから。
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