精霊の御子

神泉朱之介

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31話

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 風が吹いていく。
 吹き渡る風は草をそよがせ、野原に草の波を立てていく。
 野原、一面に。
 見渡す限り、ただ、草の波。
 草の波頭は降り注ぐ太陽の光に輝く。
 風が訪れるたび、草はそのさやぎ声で歌を吟う。
 今は、島に一人しかいない住人に向かって。
 神聖島 宇無土ウムド
 精霊の恵みを失ったとされるこの世界で、精霊の恵みをふんだんに受け、精霊の力に守られたその浮き島の野を、ひとりの背の高い青年が渡っていた。
 長い漆黒の髪、黒銀に輝く長衣とマント。
 すらりと、均整の取れた躯付きををした青年。
 長い黒髪はマントとともに風になびき、青年は伏し目がちの、あまり表情を映さないその端正な美しい横顔を風に向けて、歩いていた。
 風が青年の周囲を戯れるように取り巻き、草を騒がせる。
 ふと、青年は、端正な横顔を空に向けた。
 静かな眼差しが吸い込まれるように青い、青い空へと向かい、遙かを見晴るかす。
 秀麗な眉は微かにしかめられた。
 一点の曇りも無いはずのその蒼穹の中に、小さな汚点でもみつけた、とでもいうように。
 青年は、視線をふたたび伏し目に戻した。
「ふ……ふふ」
 その耳元に。
 声が届いた。
 その響きだけでも、人に悪意を感じさせる笑い声。
 残忍な心、邪悪な娯しみ、堕ちた魂の響きを感じさせる声だ。
 忍び笑うその声は、神聖島の強い風に飛ばされていく。
 だが、声は執拗に歩んでいく青年の後を追った。
「つれないね。こうして言葉を交わし合うのも三百年振りだというのに、那理恵渡玲ナリエドレ?」
 忍び笑いつつ、声は言った。
 青年の正面の空間がまるで陽炎のようにゆがみ、そこにひとつの映像が浮き出ようとしていた。
 黒い一角天馬に騎乗している、火のような赤い髪をした青年。
 銀のマントがその髪の炎の色を照り返らせている。
 赤い髪の青年は、魅惑的な美しい顔の口元に、にやり、とい声と同じように危険な、残忍な心を感じさせる笑みを浮かべた。
「相変わらず、お高いことだな。
 教え子たちは必死で戦って悲惨な目に遭っているというのに、お前はこんなところでのんびり風に吹かれている、というわけか。
 どんなふうに戦っているか、見たくはないかい?
 なかなかステキだよ?」
 魔皇帝 亜苦施渡瑠アクセドル 。
 この世界の、たった一つだけ定着した大地を持つ大陸。
 死した大陸、根威座ネイザ を支配する男。
 彼はそこで 永久の獄炎 と呼ばれる遠い昔に封じ込められた究極の力を手に、もう何百年、何千年もの長い歳月を生き続けていると信じられている。
 魔皇帝の姿を 那理恵渡玲ナリエドレ の前に映し出す、陽炎のように微かな歪んだ空間の背後に戦いが見える。
 背景にあるのは、この浮き島 宇無土ウムド の空にあると同じような、澄みきった青空。
 しかし、その青空には幾条もの黒煙が立ち昇っている。
 刃の尖端から火炎を吹き上げる槍を手にして飛翔する、黒い鎧、仮面の付いた黒い兜を着けた巨鳥兵 鵜吏竜紗ウリリューサ たち。
 魔皇帝 亜苦施渡瑠アクセドル の親衛隊、仮面騎士団だ。
 乱戦となって彼らと戦っているのは、九大陸連合。
 九つの浮遊大陸のそれぞれの王家に仕え、それぞれの紋章をその身に纏った戦士たちだ。
 彼らもまた巨鳥 鵜吏竜紗ウリリューサ を駆り、槍を繰り出し、奮戦しているが、劣勢は覆うべくもない。
「ほら、君の大切な養い子である 炎の御子 がいる。
 もうひとりの養い子だった 大地の御子 もいるがね」
 娯しげに、本当に娯しげに、亜苦施渡瑠アクセドル は忍び笑う。
 ゆがんだ空間に浮かぶのは、炎の御子 。
 この神聖島で 那理恵渡玲ナリエドレ が自ら育てた、炎の髪をした 精霊の御子、李玲峰イレイネ だった。
 手には、炎の精霊王 より彼に託された精霊の剣、炎の宝剣 を持っている。
 彼の剣から火炎が噴き出し、その炎に巻かれて帝国の巨鳥兵たちがばたばたと堕ちていくと、その行く手からさしもの大陸 根威座ネイザ の帝国軍の戦列も引いていく。
 九大陸連合の戦士たちから雄叫びと歓声が上がる。
 炎の王子、李玲峰イレイネ を称えて。
 だが、それに対峙するように現れるのは、黄金の騎士だ。
 黄金の甲冑を身につけ、黄金の仮面をつけ、白い天馬に乗っている。
 周囲を、魔皇帝の親衛隊である仮面騎士団の鳥騎士たちに守られている。
 黄金の騎士の姿をみつけると、李玲峰イレイネ は 鵜吏竜紗ウリリューサ を操って、彼がいるのとは別な方向へと避けるように動く。
 亜苦施渡瑠アクセドル は声をあげて笑う。
「可愛いだろう? 彼は黄金の甲冑を着た者がいると、それだけでなんとか戦わなくてすむようにするんだよ。それが、彼が大好きな 大地の御子。きみがこの島で共に育てたあの大切な 精霊の御子 かどうか、確かめもせずに、ね。
 どうだい?
 どんな気分かな?
 美しい情景だろう、 那理恵渡玲ナリエドレ ?
 いや、楽しませてくれるよ、実際、ね。
 だが、いくら逃げ回っても無駄さ。いずれは対決せざるをえなくなる。このわたしが、その舞台を用意してあげよう。せいぜい華麗に、ドラマティックに演出してあげよう。 精霊の御子 らに敬意を表して。
 二人は戦わずにはいられない。きみが愛する 精霊の御子 たちは、互いに殺し合うんだ。
 どちらが死ぬかな?
 ねぇ、那理恵渡玲ナリエドレ?」
 顔を上げた黒髪の青年の目元に、微かな怒気が現れた。
 だが、彼はそれ以上には表情を変えず、一言、ひそやかにつぶやいた。
「去れ」
 哄笑する魔皇帝の声ごと、そのゆがんだ空間を風が吹き飛ばした。
 風は逆巻き、虚空へと舞い上がっていった。
 ふたたび。
 そこにはただ風が吹くばかりの、静かな野があった。
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