精霊の御子

神泉朱之介

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71話

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 李玲峰イレイネ は飛行船の帆を調節し、浮遊島の上へと船体を降下させていった。
宇無土ウムド だわ!」
 麗羅符露レイラフロ が歓声を上げた。
 そう…… 宇無土ウムド、おれたちの島だ。
 李玲峰イレイネ は心の中で応じた。
「イレー! 懐かしい。嬉しいわ。宇無土ウムド にまた戻ってこれるなんて、夢みたいだわ! ねぇ、イレー?.」
 麗羅符露レイラフロ は、心の底から嬉しそうな、はしゃいだ声を出す。
 李玲峰イレイネ はうなずく。
宇無土ウムド )
 でも、李玲峰イレイネ にとっては、ここは苦い思い出の土地でもある。
 麗羅符露レイラフロ を、於呂禹オロウ を奪われ、半年にわたって 亜苦施渡瑠アクセドル から受けた傷に苦しんだ、あの時の……
 優しいそよ風、草の香り、花々が咲く野、緑の森。
 宇無土ウムド は変わらない。
 飛行船が着地すると、待ちきれないように 麗羅符露レイラフロ は船から飛び出し、宇無土ウムド の地面を踏んだ。
 麗羅符露レイラフロ は鎖帷子を着た軽武装をしていたが、宇無土ウムド に足を着けるや、靴を脱いでしまい、裸足で草の上に立った。
 風が吹き寄せてきて、麗羅符露レイラフロ が鎖帷子の下に着たローブの白い長い裳裾を膨らませ、靡かせる。
「風だわ!」
 麗羅符露レイラフロ はくるくるとその場で回り、李玲峰イレイネ の方を見た。
 宇無土ウムド の風の中で 麗羅符露レイラフロ は大きく息を吸い、笑った。
 李玲峰イレイネ もつられて、笑った。
 大地が歌っている。
 今は、李玲峰イレイネ にも 於呂禹オロウ が言っていたその言葉がわかるように思う。
 ここでは、大地も風も、何もかもが新鮮で、生き生きしている。
 どうしてこの風景がこんなにも胸を打ち、心をなごませ、気持ちを大らかにし、そして気持ちを引き立ててくれるのか。
 流れる雲、風が運ぶさまざまな生命の息吹の香り、草のさやぐ音。
 李玲峰イレイネ は、風の中に手を差し伸べた。
 太陽の光に肌に透けて、手の平に血潮が通っているのが見える。
 炎の、赤い色。
 彼の色だ。
「イレー!」
 風の中で踊るのを休止して、麗羅符露レイラフロ ははぁはぁ息をつく。
 銀色の髪が風に靡く様が、なんときれいなことだろう。
 四大精霊の力に恵まれた、この世にただ一つの楽園……宇無土ウムド 。
「不思議ね。あたし、ここでずっと育ったのに、こんなふうに自分でこの草原の風の中に立つのは初めてなのね」
 麗羅符露レイラフロ はつぶやいた。
「でも、初めてのような気はしないけれど。いつもあなたと 於呂禹オロウ の目を通して見ていたし、感じていた通りだわ。風が気持ちいい。やっぱり、こんなふうに草の中を歩くのってステキね。
 こっちの方が、僧院ね」
 麗羅符露レイラフロ は迷わず、李玲峰イレイネ と 於呂禹オロウ が寝泊まりしていた僧院の方角を指差した。
「そうだよ」
 李玲峰イレイネ は答えた。
「行きたいわ! いっつも羨ましかったんだもの。あんたと 於呂禹オロウ が僧院に帰っちゃうのが」
「いいけど、もう廃墟しか残ってないよ」
「廃墟?」
 麗羅符露レイラフロ は眉をしかめ、それから、ああ、と顔を曇らせた。
「そう……だったわね。何もかもが昔のままではないのね」
「でも。行ってみるだけでも。行ってみるかい?」
 李玲峰イレイネ は、慌てて言った。
 麗羅符露レイラフロ をがっかりさせたくなかった。
 少なくとも、地下室だけは残っている。
 麗羅符露レイラフロ はためらったが、うなずいた。
「ええ。連れて行って、イレー。一目、見てみたいわ」
 李玲峰イレイネ は、麗羅符露レイラフロ の手を取った。
 二人で草野を歩きながら、李玲峰イレイネ はこの神聖島に住むはずの青年の姿を目に求めた。
(ナリェ)
 那理恵渡玲ナリエドレ
 神聖島 宇無土ウムド の聖者。
 漆黒の髪の若者。
那理恵渡玲ナリエドレ……ナリェはいないのかしら?」
 麗羅符露レイラフロ も、李玲峰イレイネ と同じことを気にしているらしく、そう、つぶやいた。
「前に一度だけ戻ってきた時には、いたんだけどな。もしかしたら、今はよそに出掛けているのかも。よく、そういうことってあっただろう?.」
 風に波打つ草原があるばかり。
 二人の視線はむなしく、草の野の上の空間をよぎった。
 やがてふたりは無残な姿を晒した僧院の廃墟へとたどりついた。
 そこも、李玲峰イレイネ が最後にここを訪れた時と、少しも変わっていない。
 麗羅符露レイラフロ の方はその無残な有様に驚いて目を丸くし、口元をわななかせた。
「ひどい」
 李玲峰イレイネ は率先して、廃墟の中へと瓦礫を越えて入り込んでいく。
「イレー、大丈夫? 平気なの? 危なくない?」
「平気さ。ほら、この鋼鉄の扉。これのおかげで、地下室が残ったんだ。錆びついてる。開くかな?」
 李玲峰イレイネ が取っ手を力いっぱい引っ張ると、ぎぃぃ……っと、にぶい音を立てて、錆ついた重い鋼鉄の引き戸が開いた。
 その下には、小部屋がある。
 人が棲んだ生活の印が残っている小部屋。
「ほら。来いよ、レイラ」
 李玲峰イレイネ が手を出すと、麗羅符露レイラフロ はおずおずとその手を取った。
 李玲峰イレイネ が先に降りて行って、麗羅符露レイラフロ の体を下から支えて、中へ入らせた。
 地表すれすれの場所にある窓から、部屋の中に光が入ってくる。
 うずたかく積もった塵にすべてが埋もれている。
 暖炉。
 小さな机。
 粗末な寝台。
 李玲峰イレイネ は暖炉の側の床上に落ちていた、ぼろぼろに朽ちたナイフを拾い上げた。
「これ、おれのだ」
 麗羅符露レイラフロ が覗き込む。
「そうね。見たことがあるわ。あたしがいた地下湖にも、持ってきたことあったでしょう?」
 麗羅符露レイラフロ は部屋の中をぐるりと見回した。
「この部屋も、なんだか記憶にあるわ。こんなふうじゃなかったような気がするけれど、あの高い窓とか、覚えている」
「ここがこんなふうになる前は、食料庫だったから。しょっちゅう、於呂禹オロウ と食べ物を取りに来てたからね。きみはおれたちの目を通して、この部屋もよく見てたはずだよ」
 李玲峰イレイネ が寝台に腰を下ろすと、埃が、ぶわっ、と周囲に舞い上がった。
 李玲峰イレイネ は静かな感慨をこめて、その表面をさすった。
「おれは、ここで半年の間、寝たきりだった。きみたちが連れさらわれた後、魔皇帝の毒のついた剣で斬りつけられたせいで、高熱を出して、ずっと生死の狭間を彷徨ったんだ。ナリェの看病で命は取り止めたけど」
「半年も?」
 麗羅符露レイラフロ は、そっと言葉を繰り返した。
「きみたちに比べれば、たいしたことじゃないさ」
 李玲峰イレイネ は笑ったが、麗羅符露レイラフロ は笑わなかった。
 彼女は塵が裳裾に付くのも構わず、李玲峰イレイネ の前に膝をつくと、彼をみつめた。
「あたしたち|、みんな、辛い目に会ったわね。李玲峰イレイネ 。平和に暮らしていたのに」
「ああ、レイラ」
 李玲峰イレイネ は、麗羅符露レイラフロ の手を握りしめた。
「でも。おれときみはこうして、ここにいる。生きて、二人で」
「そうね」
 だが、於呂禹オロウ がいない。
 彼だけが、ここにいない。
 金色の、大地の色の髪をした少年の面影が、二人の脳裏によぎる。
 優しい大地の眼差しを持つ彼。
「イレー」
 一瞬、李玲峰イレイネ は空耳かと思った。
 そうしたことはよくあった。
 於呂禹オロウ の声が耳元で聞こえた、とそう感じることが。
 だが、目の前の 麗羅符露レイラフロ にもはっとした表情が浮かび、李玲峰イレイネ はその声を聴いているのが自分だけではないことを悟った。
 まさか?
「イレー……レイラ……」
 李玲峰イレイネ と 麗羅符露レイラフロ は、目を見合わせた。
 声。
 思わず、李玲峰イレイネ も立ち上がり、周囲に人影を探した。
於呂禹オロウ、どこっっ!? ここにいるの!」
 麗羅符露レイラフロ が叫んだ。
 二人は耳をすます。
 しん、とした静寂と、窓の外から風の音が聞こえる。
 何も……聞こえない。
 だが、風に誘う気配があるのに、李玲峰イレイネ は気がついた。
 それは、ひどく遠く、弱々しい。
 だが、まるで風がささやきかけているようだ。
 イレー……レイラ……来てくれ、と。
 優しい、穏やかな少年の声。
 風の声が二人を、どこかへ誘導しようとしている。
 麗羅符露レイラフロ は、立ち上がった 李玲峰イレイネ の腕をすがるように掴んだ。
「行きましょう、イレー」
 少女は真剣な声音で言った。
於呂禹オロウ があたしたちを呼んでいるわ。あたしたち、行かなくちゃ。
 イレー、思い出しましょうよ。於呂禹オロウ は、いつだってちょっびり不思議な子だった。精霊たちの声を聞くのがあたしたちよりずっと上手くて、よくあの子は風と一緒になってあたしたちに話しかけてきたりしたものじゃない?
 於呂禹オロウ は、この島のどこかにきっといるのよ」
 そうだろうか?
 本当に、そんなことがありうるのか?
 だって、於呂禹オロウ は 根威座ネイザ の魔都 婁久世之亜ルクセノア に、その魂ごと囚われているはずなのに。
「さぁ、イレー!」
 麗羅符露レイラフロ が 李玲峰イレイネ を急かし、二人は僧院の地下室を出てふたたび神聖島の地表へと出た。
 風が導く。
 二人を。
「イレー……レイラ……」
 於呂禹オロウ の声が風の中で次第に明確に聞こえてくるような、李玲峰イレイネ はそんな気がした。
 風の中で 李玲峰イレイネ の感覚はより鋭敏に研ぎ澄まされていく。


 島の鍾乳洞の奥。
 麗羅符露レイラフロ が育ち、住居としていた地下湖のほとりの岩場。
 そこに、ぽつん、と腰をかけた少年の姿があった。
 金髪の少年。
 地下湖の水面を見下ろしていた少年は、赤い髪の少年と白銀の髪の少女が鍾乳洞を抜けてくる足音に応じて、振り返った。
 そして、にこり、と天使のように微笑んだ。
於呂禹オロウ!」
 李玲峰イレイネ はその名を叫び、そして絶句した。
 まさか! そんなことが!
 於呂禹オロウ はうなずいた。
「やっと、会えたね、イレー、レイラ。ぼくの大切な兄妹たち」
 だが、その口元は動いても、間こえてくる声は肉声ではなかった
 そして、二人はすぐに気がついた。
 於呂禹オロウ のその姿もまた、生身の肉体ではないことを。
 少年の姿は、その体の向こうが透けて見える。
於呂禹オロウ
 麗羅符露レイラフロ が悲痛な、掠れた声を出し、彼女もまた、言葉を途切らせた。
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