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17話

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 眞鳥と月葉を前にイーライは営業用の顔をして、黙ってソファーにかけていた。
 一通り挨拶はすんだので、あとは雇用主が先に口を開くのを待っている。
 ボディガードというより、ファッションモデルといったほうが、まだしも納得できる外見と服装を、イーライはしていた。
 年齢は二十代半ばくらい、長身ではあるがどちらかといえば細身で、なかなか美男子のくせに親しみの持てる雰囲気からは、職業を想像しがたい。
 白っぽいスーツの下に、薄い青紫色のTシャツを着ている。
 それはボディガードとして、特におかしくはないが、スーツの布地はキュプラで、Tシャツはシルクだ。
 どちらも光沢のあるしなやかな素材で、およそガード・ビジネス向きのものではなかった。
 靴が足首まで包む編み上げ靴で、それが唯一職業向きといえるかもしれない。
 だがラバー・ソールでもなければ、ワークブーツでもない。
 白い革製で、なんと刺繍入りだ。
 こんなヤツがボディガードとは、誰も思うまい。
 月葉は目を合わせないように注意しながら、イーライを観察していた。
 月葉の視線にはややトゲがあるが、それにはちゃんとわけがあった。
 複雑な混血の結果なのか、人種の特定が困難な容姿を持つイーライと、月葉は初対面ではなかったのである。
 昨夜、渋谷の駅前で、じっと自分を見ていた若い男、それがイーライだった。
「つまり、昨夜この男は、ガードする相手のぼくを、偵察しにきていたわけか」
 そうとわかると、月葉としては多少、面白くない気分なのである。
「失礼します」
 控え目な声とともに、居間のドアが開かれた。
 眞鳥は振り向いて、片側の眉をぴくりと上げた。
 お茶を運んできたのが、メイドではなく貴奈津だったからだ。
 貴奈津は眞鳥の視線をことさらに無視しながら、トレイをかかげて進んでくると、まず客のイーライに紅茶をさしだした。
「どうぞ」
 精いっぱい上品な口調と動作を心掛けたつもりだが、礼を言うイーライに笑みを向けられ、つられて思わずニコニコしてしまう。
 その様子を見ながら、月葉は内心で溜め息を吐いた。
「いい男に弱いんだから、貴奈津は……」
 この点が、月葉には一番の悩みの種なのであった。
 紅茶を配り終えた貴奈津は、当然のことながら、すぐに居間を出ていったりしなかった。 ソファーを回って眞鳥の後ろに立つと、そのまま動こうとしない。
 眞鳥はチラリと貴奈津を振り返り、そして諦めた。
 貴奈津がいては困る、というわけでもなかった。
 イーライには特に紹介しなかった。
 家族構成はプロフィールつきで、すでに説明済みであった。
「ま、どうぞ」
 などとイーライに紅茶をすすめ、自分でも間持たせに一口飲む。
 困ったことになってしまった。
 居間に入ってからずっと、眞鳥は思案していた。
 ここ最近、眞鳥は本気で、月葉にボディガードをつけようと考えていた。
 そして昨日の昼頃、イーライと契約をかわした。
 しかし昨夜の一件がある。
 今後、月葉は、そして貴奈津も眞鳥もということになるが、超常現象など日常茶飯事の世界に飛びこむことになるだろう。
 そのような状況では、月葉にボディガードをつけておくわけにはいかない。
 行動がいちじるしく制限されてしまうし、だいたい秘密が守れない。
 ここは、なんとか理由をもうけて、イーライくんにお引きとり願うしかあるまい。
 そう眞鳥は決心した。
「じつは……」
 切り出したとたん、月葉が割りこんだ。
「父がなんと言ったか知りませんが、ぼくにボディガードは必要ありません。せっかく来ていただいたのに申しわけありませんが」
 勝手に断ってしまう。
 口調に険があった。
「昨夜のことを根に持ったんだな」
 とイーライは気付いた。
 しかし、そのことはもちろん口に出さず、月葉を見て微笑をうかべた。
「きみの気持ちは尊重したいのですが、わたしの雇用主は……」
 イーライは言い、片手を上げて眞鳥を示した。
 そして続ける。
「きみのお父上なのです」
 言葉は丁寧で表情も優しげだが、ようするに月葉の指示など受けないという姿勢だっ た。
 月葉にとっては気に入らない態度なのであるが、イーライの言い分ももっともだと認めざるを得ない。
 月葉は矛先を向け変えた。
「お父さん、ぼくにボディガードが必要とは思えないんですけど」
 月葉がそう言うだろうことを、眞鳥は予想していた。
 昨日までなら、月葉の説得に全力を上げただろうが、
 今は違った。
 月葉の意見に、眞鳥は肯いてみせた。
 そして、イーライに身を乗り出した。
「イーライくん、申し訳ない。月葉がこう言うのでは、無理なようだ。こちらの身勝手は重々承知のうえで、契約は解除させてほしい。したがって、充分な違約金を支払うということで、一つ、いかがでしょうかな」
「ボディガードをつけると言いますとね、十人中、九人までが、自分にはそんなものは必要ないと主張するものなのです」
 穏やかにイーライは説明した。
 それから、嬉しくてたまらないというような笑みを浮かべると、セカンドバッグを取り上げた。
「さらに、その契約についてですが」
 持参したバッグから、イーライは書類封筒を取り出した。中から契約書を抜き出す。
「この一文を、もう一度お読みになってください」
 テーブルの上に置いた契約書を、イーライが指し示す。
「む……」
 言葉に詰まった眞鳥は、だが、食い下がった。再度イーライに頼みこむ。
「そこをなんとかならんかね」
 イーライは首を振った。
 この二人のやりとりは、月葉と貴奈津には意味がわからなかった。
「ぼくも契約書を見せて貰っていいですか」
 月葉は聞いてみた。あっさりとイーライが許可したので、月葉は手を伸ばし契約書を手に取った。
 すかさず貴奈津が隣に移動して、月葉の肩越しに契約書を覗き込む。
 二人はイーライが示した短い一文を、一緒に読み、そして顔を見合わせた。
 契約の解除はイーライの側からしかできない、という内容だった。
 つまり、雇用主である眞鳥は、イーライを解雇にすることができないのである。
 むろん契約に先立ち、この条項を、眞鳥はきちんと読んでいた。
 契約内容の確認は、商売人として当然の習慣だ。
 雇用人に契約解除の権利がないというのは、かなりおかしな内容なのだが、眞鳥はそれを飲んだ。
 眞鳥の側から解除することはないと思ったし、イーライの腕は超A級と、眞鳥が信頼する友人の折り紙つきだったからだ。
 一方、イーライにとっては、この条項こそがもっとも重要な部分なのだった。
「こんな契約がありですか、お父さん……」
 月葉が困惑を声にあらわしたが、眞鳥だって閉口してしまう。
 困り果てて顔を見あわせる月葉と眞鳥を、貴奈津は交互に眺めていた。
 イーライは膝の上で指を組み、そんな三人を嬉しそうに見ていた。
 ふとイーライの視線が、立っている貴奈津の背後にふられたが、誰もそれには気付かなかった。
 解決策を求めて、眞鳥が口を開いた。
 事実をそのまま述べることはできないが、ここは誠意を持って、なるべく真実に近い説明をしたほうが賢明だと考えたのだ。
「イーライくん、昨日の今日でおかしいと思うかもしれないが、じつは昨夜から今朝にかけて、月葉を、いや、わたしたち家族をと言ったほうが正確でしょう、とりまく状況に劇的な変化が起こったのです。
 そのため、月葉にボディガードをつけておくわけにはいかなくなってしまったのですよ」
「あなたのおっしゃる劇的な状況の変化とは、昨夜東京を襲った異常現象に関わりがありますか?」
 いや、あれは別に関係ありません、と、とぼけようとした眞鳥の横で、貴奈津が小さく、
「えっ」
 と漏らしてしまう。
 これでは眞鳥がなんとかごまかそうとしても、月葉がポーカーフェイスを作っていても、全て台無しなのである。
「そうではありません」
 見え見えの返事を眞鳥はしたが、溜め息まじりになってしまったのは、致し方あるまい。
 イーライは理解を示して肯いた。
 もっとも、これは礼儀としてだ。
 組んでいた指を解き、イーライは貴奈津の背後を指さした。
「では、その物体に関係があるのでしょうか?」
 三人がいっせいに振り返ってみると、貴奈津の後ろの空中に、腕組みをしたレイが浮かんでいた。
 レイは今この瞬間に現れたわけではない。
 少し前から同じところに浮かんでいたのだ。
 しかし、誰も振り向いたり注目したりはしなかった。
 イーライだけが一度チラリと眼を向けただけだ。
 従ってレイは、自分がここにいても別段気にしていないのだと思っていた。
 それなのに、いきなり自分のほうへ全員の視線が集中した。
 こういう場合、誰でもがする勘違いをレイもした。
 レイも自分の後方を振り返ったのである。
 そして、つまらなそうに呟いた。
「なにもないじゃないか」
 レイの後頭部を、貴奈津が思いきり平手で引っぱたいた。
「みんな、あんたを見てるのよ、あんたをっ!」
「痛いじゃないか! ボクがなにをしたというんだ!」 
 睨み付ける貴奈津に、レイは怒鳴りかえした。
 眞鳥は頭を抱え、月葉はソファーに沈み込んであらぬほうを向いてしまった。
 イーライはソファーから、ゆっくりと立ちあがった。



 続く……
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