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16話

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 ぼんやりとレイを眺めていると、ドアの外から月葉の声が聞こえた。
「入るよ、貴奈津」
 言い終えるのとほぼ同時に、月葉がドアを開けて食堂に入ってきた。
「帰ってくるの、早いんじゃないの?」
 意外そうな表情を浮かべる貴奈津に、月葉はやっぱりと言いたげな笑みをこぼした。
「そうでもないよ、もう夕方だから。貴奈津はよく眠ったみたいだな」
 言って月葉は、レイのスプーン操作に目をとめた。
「へえ」
 と、もらし、立ったまま、レイがキャビアを食べ終わるまで観察していた。
 瓶詰めをすっかり空にして、レイはスプーンを置き、ようやく月葉に顔を向けた。
「やあ、スゥーディ、じゃなくて、今は月葉か」
 現世の名前で呼ぶことにしたらしい。
 レイのあいさつに、月葉は微笑を浮かべた。
「レイも食事をしてたのか。どう、口に合う物があったかな」
「ボクは好き嫌いはしない主義だ。なんでもありがたくいただく。ところでおまえはどこへ行ってたんだ? 朝からずっと姿が見えなかったようだが」
 月葉は軽く肯いた。
「スクールだよ。一週間に数回は出かける」
「そうか。でも……」
 レイが視線をふった先で、貴奈津が顔を背けた。
 昨夜、同じように夜更かししたはずなのに、貴奈津が昼過ぎまで惰眠を貪っている間に、月葉はスクールに出かけ、リポートを書いて提出し、さらに講義まで受けてきていた。
 この差はどこからくるのだろうか。
 その理由はわからないが、学年の逆転という形で、結果ははっきりと表れている。
「食事がすんだのなら、お茶でも飲もうか、三人で」
 居間の方向へ、月葉が手を向けた。
 貴奈津が「そうね」と応じたところへ、ドアを通して、にぎやかな足音が響いてきた。
 一人で三人分の足音をたてる特技を持つ、眞鳥のものだ。
 同時に大きな呼び声も聞こえた。
「貴奈津ーぃ、月葉ーぃ」
 呼ばれた二人は顔を見合わせた。
 夕刻のこの時間に、眞鳥が帰宅するのはたいへん珍しかったからだ。
 家庭での言動からは想像しがたいものがあるが、一歩社会へ出れば、眞鳥は巨大企業の会長なのである。
 やろうと思えば、仕事は山ほどあるということだ。
 勢い良くドアが開かれ、スーツ姿の眞鳥が入ってきた。
「おお、愛しい子どもたちよ」
 後ろ手にドアを閉じると、貴奈津と月葉に向き直り、大きく両腕を広げて歩み寄る。
 二人を抱きしめようと思ったのだが、月葉はともかく、貴奈津が椅子にかけたまま立ち上がろうとしなかったので、しかたなく片腕に月葉を抱き、椅子の背ごと貴奈津を抱きよせた。
 いったい何事が起こったのか、などと貴奈津も月葉も思ったりしない。
 二人は黙って、されるがままになっていた。
 眞鳥にはよくあることなのだった。
 それにしても、眞鳥がめったにないほど早い帰宅をしたのは、さすがに昨夜の一件が気になっていたためとみえる。
 常人なら当然のことだが。
「二人とも、今日は何事もなかったかね」
 こういうとき、貴奈津は「まあね」などとろくな返事をしないので、きちんと対応する役は、おもに月葉が買って出ていた。
「はい、ぼくはスクールヘ行って来ただけですし、貴奈津はさっきまで眠っていて、今、食事をしただけですからね」
「そうか、そうか」
 大きく肯き、眞鳥が抱きよせる腕に力を込めたため、貴奈津は呻き声を上げた。
 首しめ状態だったのである。
「く、苦しい、放して」
 おお、と眞鳥が腕を弛めたところへ、食堂のドアがノックされた。
 貴奈津は素早く立ち上がり、レイの背後に回った。
 振り返ろうとしたレイの頭を両手で掴み、前向きに捻る。
「動くな、あんたはヌイグルミなのよ」
 食堂に三人が揃っている以上、次に現れるのはメイドか執事しかいない。
 眞鳥の許可を得て、食堂に姿を見せたのは執事だった。
 執車が来客を告げると、眞鳥は首をひねった。
「はて……?」
「六時のお約束だそうでございます。イーライ様とおっしゃる若い男性で……」
 執事に言われ、眞鳥ははたと手を打った。
「そうだった」
 約束したのは昨日のことだが、昨夜来の出来事に気を取られ、すっかり忘れていたのであった。
 そんなことで企業の会長が務まるのか、という向きもあろうが、ビジネスについては、優秀な秘書が万事ぬかりなく手配してくれるから問題ない。
 しかし今日の約束は私事であり、眞鳥は誰にも話していなかった。
「しかたがない。居間にお通しして」
 執事に指示する。
 時間通り来訪した客に「しかたがない」とはずいぶんな言いかただが、執事が異を唱えるはずもない。
「はい、そのように」
 と礼儀正しく答え、客を迎えに出て行った。
 眞鳥は困っていた。
 それは表情で、貴奈津と月葉にもよくわかった。
 だが理由はわからない。
 一頻り首筋に手をやったり、腕組みをしてみたりしていた眞鳥は、溜め息を一つ吐く と、観念したらしい。
 ドアに向かって足を踏み出す。
 しかし、三歩進んで二歩下がり、月葉を振り返った。
「一緒に来なさい、月葉。客というのは、じつは、おまえのために雇ったボディガードな
のだよ」
 月葉は無言で瞬きをした。


 貴奈津は廊下を全力疾走していた。ミニスカートのうえ、ヌイグルミになったレイを胸に抱えているためクイムは落ちるが、それでも百メートル十二秒を切っていると思われる。
 廊下の突き当たりで速度を落とすと方向を変え、階段を一気に自室のある三階までかけのぼる。
 エレベーターもあるのだが、ドアの開閉を待つあいだに、足を動かしたほうが早い。
「おとなしくしてるのよっ」
 自室のドアを開けるや否や、レイをベッドヘ放り出し、すぐさま踵をかえす。
 五メートルほども宙を飛び、レイがバフッと音をたててベッドの上に落ちたときには、貴奈津はすでに階段を駆け下りているところだった。
 貴奈津の目的は、できるだけ早く居間にとって返し、客を迎える仲間に加わることだった。
 理由は簡単で、イーライという名の来客が、なかなかハンサムだったからだ。
 居間に案内されてきたところを、廊下の角から覗き見たのだ。
 ファーストネームなのかファミリーネームなのか、東欧式の名を持つ青年は、明るい茶系の髪をしていた。
 顔立ちと肌の色は、日本人といえばいえる、という感じで、おそらく日系の混血ではないか、と貴奈津は推理した。
 ボディガードという職業にも、強い興味をおぼえた。
 直接関係ない客だから、貴奈津は居間に呼ばれなかったが、なんとか入り込みたい。
 方法は考えてあった。


 続く……
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