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22話

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「おとなしく帰すと思ってんのかよ、おいっ」
 男は月葉の背後を塞ぐ二人に合図を送った。
 月葉が振り向いてみると、ナイフの男が近付きつつあり、もう一方の男は両手でチェーンを握っていた。
「ようやくあなたの仕事になりましたね」
 月葉は嬉しそうに笑って、近付く男のほうへ向けイーライの背を押した。
 イーライが抵抗して振り向く。
「ちょっと待ちなさい、そういうのあり?」
「だって、イーライはぼくのボディガードなんでしょう」
「いや、実はちょっと違うんだけれどね。それにわたしはプロだから、アマチュア相手は苦手なんだよ」
 イーライの台詞が、男たちの嘲りを誘った。
 抱腹絶倒とまではいかないが、アホらしくてしかたがない、という笑いである。
「この兄ちゃんがボディガードだって? おもしれえじゃん、見せてみなよ、プロがどうこうっていうところをさあ」
 ナイフ男が面白がって、けしかける。
 イーライは溜め息をついて月葉を見たが、月葉は素知らぬふりで視線を逸らした。
 面倒をイーライに押しつけようという魂胆が、ありありと顔に浮かんでいる。
「しかたがないかな。今後のこともあるので自己紹介しておくことにしよう」
 言いながら、イーライは要人警護の国家ライセンスを取りだした。
 それを親切に、いちいち三人に向けてやる。
「と、いうわけで、今後一切月葉くんには近付かないで貰おう。なにしろ仕事が増えると面倒で」
 最後の一言が行けなかった。
 もとからライセンスを半信半疑で眺めていた男たちは、全てがイーライの冗談だと思ったようだ。
「ふざけんじゃねえよ、兄ちゃん」
 派手なシャツの男が、怒気を顕わにする。
 イーライとしても、本物ではあるがライセンスなどで効果が上がるとは考えていなかった。
 ライセンスを上着の内ポケットにしまい、もう一度抜き出された右手には、今度は銃が握られていた。
 スパイが護身用に持つような、小型の銃である。
 イーライは銃を躊躇いなく男に向けた。
 さすがに怯み、派手なシャツの男は一歩後退った。
「う、撃つわけねえよな」
「そうかな」
 前置きも無しに、イーライはいきなり発砲した。
「ぎゃあっ!」
 男が悲嗚を上げて後ろへ倒れ、腹を押さえてぎゃあぎゃあと、のたうち回る。
 これには月葉も驚いた。
「ムチャクチャだな……」
 無茶さかげんでは月葉もいい勝負ができるのだが、飛び道具を使う現場を目撃したのは初めてで、いささか衝撃的だったのである。
 イーライは唖然とした月葉を振り向き、にっこり笑って耳元に囁いた。
「なに、発射火薬の量をうんと減らしてあってね、弾は出るが、ちょっと肌にめりこむくらいで、血も流れやしないよ。いうなればアマチュア向けのオモチャだな」
 言うと、イーライはナイフ男のほうへ銃を向けたが、そこにいたはずの二人の姿はすでに消えていた。
 仲間を見捨てて、さっさと逃げ出したらしい。
「まあ、こんなところだろう」
 イーライは銃をしまいこむと、月葉を促し歩き出した。
 まだのたうちまわっていた男が、泣きながら懇願した。
「死んじまうよお、救急車呼んでくれよお」
「そんなかすり傷で死ぬものか。バンドエイドでも貼っておけ」
 一瞥もくれず、イーライが突き放す。
「人殺しい」
 立ち去ろうとする二人の背中に、恨みがましく男が叫いた。
 腹を押さえて、地面に蹲っている。
 撃たれたと思いこんでいるだけなので、声にはけっこう元気がある。
「チクショー、救急車呼べよ。こんなことしやがって、ただですむと思ってるのかよお。おまえの姉ちゃんがどうなっても知らねえぞ」
 悔し紛れに吐いた言葉が、月葉を真顔で振り返らせた。
 その動きを視界の隅でとらえ、男が顔を上げた。
 脅しの効果があったと思ったのだ。
 しかし、誤算だった。
 引き返してくる月葉を見て、男は恐慌に襲われた。
 口から思わず悲鳴がもれる。
 月葉から向けられた、凄まじい殺気を感じとったのである。
 一般人とは比較にならないくらい、荒っぽい場面には慣れていたこの男が、怯えに顔を
背けたくなるような、冷酷で苛烈な殺気だった。
 逃げ出そうとしたが足が動かず、男はヒイヒイと声にならない悲鳴を上げた。
 月葉は本気だった。
 殺してやろうと思ったわけではないが、怒りは完全に本物だった。
 この状態の月葉にかかると、相手は半死半生の目にあうくらいは覚悟しなければならない。
 足が男にとどく寸前、かけよったイーライが後ろから月葉を締め上げた。
「いけない、月葉」
「放せ!」
 振りほどこうとした月葉は、イーライが思いもかけぬ強さで、自分の腕を抑え込んでいるのに気付き愕然とした。
 こんなはずはなかった。
 どういう締め付けかたをしているにせよ、力で月葉の自由を奪える人間が、そうそういるとは思えない。
「月葉、今はだめだ」
 後でならいいのか、という、よくわからないことをイーライは口走った。
 ついで、怯えて竦んでしまっている男を怒鳴りつける。
「なにをしている、早く逃げろ! 殺されたいのか!」
 その声で我にかえったのか、男はほとんど這うようにして逃げ出した。
「なぜ、あんな奴を庇うんだ、イーライ。あんなヤツ、死んだってかまわない!」
「君の主張は正しい。でも、人が見ているんだよ、月葉」
 言われて月葉はようやく気づいた。
 路地の向こうから、通行人がこちらを覗き込んでいた。
 ナイフとチェーンを持った男たちは走り出てくるわ、銃声は聞こえるわ、悲鳴は上がるわで、誰も気付かないわけがない。
 なにごとが起こったのか、と思ったのだろう。
 月葉が抵抗を諦めると、ようやくイーライが腕を解いた。
 男が逃げ去った方向を睨んで立ち尽くす月葉の後ろで、イーライは大きく息を吐きだした。
「可愛い顔してまったく、なんて力だ。はたして、わたしに抑えきれるのかな」
 内心で、イーライは懸念を抱いた。
 呼吸を整えながらうかがうと、月葉の横顔には険しい表情が浮かんでいた。
「あいつ、絶対に許さない……」
 月葉の唇から低い呟きがもれたのを、イーライは聞き逃さなかった。



 続く……
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