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23話

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 元気よく貴奈津の部屋のドアを開き、中へ入ろうとした眞鳥は、部屋の中に目をやってドアノブを掴んだまま硬直した。
「調子はどうかね、貴奈津」
 と、かけるつもりだった言葉を飲みこむ。
 口をついたのは、別の言葉である。
「……なにをしているのかね、イーライくん」
 椅子にもたれて眞鳥を振り向いた貴奈津の隣に、なぜかイーライが立っていた。
「妻や娘のガードを、彼に依頼しようとは思わないよ」
 と言った友人の言葉が、眞鳥の脳裏を駆け巡った。
 まさか……いや、そんなはずはない。
 なぜなら、文書にこそしなかったが、眞鳥はボディガード契約を結ぶとき、
「けっして娘を口説かない」
 旨、イーライに念を押しておいたのだ。
「ご心配にはおよびません」
 と、イーライは誓約したはずではなかったか。
「どうしたの、お父さん。そんなところで凍りついちゃって。勉強みてもらってたんだけど、それがどうかした?」
 貴奈津がイーライにかわって答えるのを聞き、ようやく眞鳥の硬直がとけた。
 ほっと胸を撫で下ろす。
 一瞬のうちに、およそ事実とかけ離れた、ものすごい想像を巡らせたのだった。
「おお、そうか、それは重畳」
 おそらく照れ隠しだろうが、いきなり時代錯誤的な言葉遣いになる。
 貴奈津は意味がわからなかったとみえ、眉をしかめた。
「なにそれ?」
「よかったね、という意味だよ」
 すかさずイーライが解説すると、貴奈津はくるりとイーライを振り向いた。
「さーすが家庭教師。博学ねー」
「どうも」
 貴奈津の素直な賛辞に軽く頭を下げて謝意をあらわすと、イーライはちらりと眞鳥を見た。
 その目が笑いを含んでいる。
 たったいま、自分がなにをどう想像したか、イーライに気付かれたことを眞鳥は悟った。
 だから、わたしの質問に答えなかったのだな。
 父親が妄想を抱いてしまっている場合、男がなにを答えても、ほとんど信用してもらえまい。
 イーライはそれを知っていた。
 とはいえ、知っているということがまた、なにゆえ、そういう状況についてのセオリーに詳しいのか、経験があるからではないのか、などと眞鳥の猜疑心を掻き立ててしまう。
 しかし、これではきりがない、と眞鳥は思いなおした。
 とりあえず、現実に戻る。
「貴奈津、いつからイーライくんは家庭教師になったのかね」
 あははは、と貴奈津は笑い、椅子にもたれすぎて、あやうく後ろへ倒れそうになった。
 慌ててバランスをとる。
「だって、お父さんが言ったんでしょ。イーライが家庭教師だって。みんな、わたしの家庭教師だと思ったみたいよ」
「それはそうだが、方便だということはおまえも知っているだろうに。イーライくんによけいな仕事までさせてはいかんよ。勉強なら、月葉にみてもらいなさい」
「でも月葉の教え方って、つまらないんだもん」
「悪かったね、つまらなくて!」
 ふいにドアの前に現れた月葉を見て、貴奈津は、
「ひぇー」
 と身を引いた。
 おそるおそる月葉にたずねる。
「いまの聞いてた?」
「すっかりね。いくら貴奈津の部屋が防音になっていても、ドアを明け放してあれば、ぼくの部屋まで聞こえるんだよ」
 防音という部分に反応して、イーライが室内を見まわした。
 職業的な興味を引かれたのかもしれない。
 月葉がイーライの動作を中断させた。
「イーライ」
「なにかな」
「あなたはボディガードなんですから、家庭教師までやらなくていいんです」
 どういうわけか挑戦的な月葉に、貴奈津が抗議の声をあげた。
「そういう言いかたって失礼よ、月葉。だいたい、頼んだのはわたし。イーライに文句を言わないで」
 貴奈津は月葉の理不尽さを窘めただけだった。
 それは、貴奈津の真っ直ぐな性格からくるもので、ことさらイーライをかばっているわけではない。
 月葉も理性では、そうとわかる。
 しかし理性をこえるものが、月葉をいらだたせた。
「文句なんか言ってない。だけど、貴奈津の勉強はぼくがみる。なんでぼくに言わないで、イーライに頼むんだ」
「たまたま、さっき廊下で会ったからよ。でもどうしてイーライに頼んだらいけないのよ、本人がいいと言ってくれたんだから、いいじゃないの」
「だめだ!」
 月葉が言い切る。
 眞鳥は「よく言った、月葉」と心の中で声援を送った。
 イーライはただ黙って、しかし、おもしろそうに状況を観察していた。
「なぜ、だめなのよ。理由を言いなさいよ、月葉」
「だめだといったら、だめ!」
 月葉らしくもない、およそ不条理な決めつけをする。
 それに呼応するかのような声が上がった。
「そうだ! このままじゃダメだ!」
 叫んだのはレイだった。
 居あわせた全員が、声のしたほうへ振り向いた。
 レイは幼児用のベッドで、半身を起こしていた。
 月葉も眞鳥も気付かなかったが、レイは先程からずっと、そこに寝ていたのである。
 一同が自分を見ているのに気付き、レイはニンマリとした。
 たぶん、ニッコリしたつもりなのだろうが、レイの顔の造作ではニンマリにしかならない。
「なんだ、みんな揃っていたのか。ちょうどいい」
 レイは両耳から半透明のセロハン紙のようなものをはがした。
 耳をちょうど覆うくらいの大きさのそれは、手に取るとたちまちボタン大ほどに収縮した。
 二つそろえて、レイはオーバーオールのポケットに、半透明のボタンをしまいこんだ。
「今ポケットにしまったそれ、耳栓?」
 貴奈津が聞くと、レイは肯いてベッドに立ち上がった。
 レイ専用に貴奈津の部屋へ運び込んだものだ。
 幼児用ベッドだから、高さはあるが小さい。
 まわりを囲む柵に片足をかけ、レイは隣にある貴奈津のベッドに飛び下りた。
「形状記憶耳栓だ。完全に音が遮断されるから、考え事するときなんかに便利だぞ。おまえがあんまり幼稚な数学をやっているから、聞いているのも疲れちゃってな」
 腕組みをしてベッドに立ち、レイはふんぞり返った。
「えらそうに……」
 貴奈津は言い返したが迫力に欠けた。
 高校の数学を幼稚と言われるのもくやしいが、それを楽々とは理解できないというのが、さらにくやしい。
「さて、おまえたち。いまのところ異世界……」
 一番近くにいた貴奈津がダッシュして、
「異世界宮殿が」
 と言いかけたレイの口を塞いだ。
 愛想笑いを浮かべて振り返ると、イーライはもうドアに向かっているところだった。
「わたしは失礼します。家族団欒のお邪魔はしたくありませんからね」
 イーライはドアの前で軽く一礼した。
「ごめんね、イーライ」
 ドアを閉めかけたイーライに、貴奈津がわびる。
「どういたしまして」
 イーライは微笑んで、ドアを閉じた。



 続く……
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