上 下
62 / 118

63話

しおりを挟む
 世田谷の友人宅で遊び呆けてしまい、帰路についた時点で、すでに深夜十二時をまわっていた。
 これは確実に「帰宅が遅すぎる!」と、月葉の小言を聞かされる時間だ。
 しかし、今夜の貴奈津はなぜせか強気だった。
「わたしにこわいものなど、なにもないのよっ」
 月葉はまだ家に戻っていなかった。
 友人宅を出るまえに、それは確かめてある。
 さらに、貴奈津のほうが早く帰りつくだろうことは、百パーセントの自信を持って絶対だ。
 イーライが月葉を足止めしてくれているからだ。
 貴奈津が電話で頼んだのである。
 快く引き受けたイーライだったが、彼には彼の思惑があるのかもしれなかった。
 そのへんのところは、定かではない。
「ほんと、頼りになるわー、イーライって」
 そこまでしなくとも、いいのではないかと思うがおそらく、貴奈津はやはり月葉に叱られるのが怖いのだ。
 刷り込み効果は、侮りがたい。
 貴奈津は軽快にバイクを飛ばしていた。
 交差点の信号が赤に変わり停止したとき、ふと貴奈津は首を捻った。
「そういえば、このまま直進すると、あれよね」
 なんなんだか、わからない一人言を呟く。
「時間も同じくらいだし、またこの前みたいに、ルビイに出くわすとめんどうだわ」
 前回、女性だけのチーマー・ルビイに出会ったのが、この道の先、これくらいの時間だったのを思い出す。
「早く帰りたいから、回避しよーっと」
 チーマーというのは一様に華やかな舞台を好むものだから、幹線道路を外れればルビイに遭遇することもないだろう。
 信号が青になると同時に、貴奈津は脇道へそれた。
 少しは学習能力があるのだ。
 だがルビイだって学習していたとは、よもや貴奈津は思わなかった。
「えっ?」
 狭い二車線の裏道をしばらく走ると、前方に五、六台の車がエンジンをかけたままたまっていた。
 まだ距離はあったし夜目ではあったが、車体に大きくペイントされた、ミッキーマウス
を貴奈津は認めた。
 チーマー・ルビイのトレードマークである。
「ええー、どうしてルビイがこんな裏道にいるのよ。約束が違うんじゃないの?」
 誰も約束などしていない。
「チーマーならチーマーらしく、表通りで群れてほしいわね」
 とはいえ、ルビイにしてみれば貴奈津と出会う危険をさけて、たまり場を幹線道路から外していたのだ。
 身を守るための切実な回避行動なのだから、貴奈津に文句を言われてはたまらない。
 話が違うと言いたいのはルビイのほうだったろう。
「うーん」と、フルヘルのなかで貴奈津は唸ったが、今さら回避するのも面倒だし、すでに、たむろしているルビイのメンバーたちの顔が見分けられるほど接近してしまっていた。
 知らん顔してとっとと通りすぎることに、貴奈津は決めた。
 アクセルを大きく開く。
 市販車では群を抜く加速のよさが、貴奈津のバイクの売りである。
 ルビイのメンバーたちは、急速に接近するバイクには気付いたが、それでものんびりと車の屋根で頬杖をついたりしていた。
「なに、あのバイク。すごいスピード。制限速度の百キロオーバーってとこかねー」
「無謀なヤツだな」
 チーマーに制限速度や交通道徳を、うんぬんされたくはない。
「わたしらを見て、びびったんじゃないのれ? 早く通りすぎたいんだよ、きっと」
「そうかも」
 呑気な感想をかわしあい、笑いが上がる。
 しかし、バイクが目前を突っ切ったとき、彼女たちはいっせいに身を強張らせた。
「ゲッ、な、な、貴奈津姐さん!」
 そのままなにごとも起こらなければ、ルビイのメンバーたちは、仰け反り、青ざめ、しばらく硬直したりはしただろうけれど、少なくとも貴奈津に関わることはしなくてすんだのだ。
 ところが、ルビイにとっては幸か不幸か判断不能なのだが、その瞬間、東京都内に再び異常現象が襲い来た。
 大気も地面も同様に液状化したように目に映る周囲の光景。
 船酔いと目眩と耳鳴りに、一度に見舞われたみたいな、言いようのない不快な感覚。
 現実に存在する次元に、不可視のもう一つの異次元が重なり合い、空間に歪みを生じさせたのである。
「これは!」
 たむろしているルビイの前を通過した直後に、貴奈津は感覚以上に陥った。
「この感覚は、あの時と同じだわ、異世界宮殿が現れたときと」
 そう認識することは出来たが、前方に向けられた貴奈津の目は、何一つ秩序立てた形状を捉えることが出来ない有り様だった。
 貴奈津が感覚に受けた打撃は、その異常さにおいて、同じ場所にいたルビイと比較も出来ないほど激しかった。
 目に揺らめいて見えるだけではない。
 タイヤから伝わる感触は、路面が物理的に波打っているとしか思えない物だった。
 高速走行中だったことが災いして、貴奈津はバイクの制御を放棄せざるを得なかった。
 この速度で急ブレーキをかけることは自殺行為だし、ハンドルを切ってどうなるものでもない。
 一瞬の自由落下感覚があり、貴奈津の体が車体から浮き上がった。
「なによ、これ!」
 不平を叫びながら、貴奈津はバイクを見捨てた。
 ハンドルから思い切りいよく手を放し、同時に車体を蹴る。
 バイクから飛び下り、自分だけ助かろうとしたわけだが、貴奈津が宙を飛び、制御を失ったバイクが車体を急激に傾け始めた途端、異常現象が消え失せた。
「あっ、ずるい! こんなことならバイクを放すんじゃなかったのにっ」
 宙にあって、着地のために体を一回転させながら貴奈津はわめいたが、すでに手は届かない。 
 三百五十CCバイクといえども、重屈は二百キログラム近い。
 路面に横倒しになったときの音は迫力があった。
 夜に長く激しい火花を引きながら、バイクは路面を削って滑っていく。
 レバーが折れ、カウルが割れて破片を撒き散らす。
 こちらは無傷で着地を決めながら、貴奈津はマフラーが千切れ飛んで路上に転がるのを視界に入れた。
「あーあ、これじゃ、フレームもガタガタになっちゃうわね」
 そんなものではすまない。
 剥き出しのエンジンが、もう使いものにならなくなっており、貴奈津の気楽な観測を打ち砕いてやるために、バイクは歩道の縁石に衝突して、その勢いで乗りあげた。
 細かな部品を飛び散らせつつ、車体が路面から跳ね上がる。
「ほー、跳ねて浮きますかねー。二百キロのバイクが」
 腕組みして貴奈津は、スローモーションのように宙でひっくり返る車体を眺めた。
 ここまでくると、他人事と同じだ。
 手の打ちようないのだから。
 全壊したと確実にわかる衝撃音を響かせ、バイクが歩道の敷石に叩きつけられる。
 貴奈津は フルヘルをとって髪をかきあげた。
「あははははは……」
 ヤケ気味の乾いた笑いを上げる。
「姐さん、ご無事で?」
 ふいに背後からかけられた声に、貴奈津は飛び上がった。
 ここ最近では最大級の驚きかたである。
 後方にルビイがたむろしていたことなど、きれいに貴奈津は忘れ去っていた。
「あ、あーら、こんばんは」
 振り返って貴奈津が愛想笑いを浮かべる。
 ルビイのリーダーが真顔で、貴奈津の前に立っていた。
「お怪我はなかったですか、貴奈津姐さん」
 貴奈津がルビイの姉費分だとかいうのではない。
 ルビイが貴奈津怖さで勝手に、貴奈津を「姐さん」と呼ぶのである。
 第一リーダーのほうが年長だ。
「ケガ? まさか、ないない、そんなこと」
「そりゃあ、よかった」
 本気で心配してくれたらしいリーダーに、今度はお愛想ではなく、貴奈津は微笑んだ。
「ありがとう、えーと……」
「あ、あたしはヒロミっていうんです」
「ありがとう、ヒロミさん」
 いえいえ、と手をふりながら、それでもヒロミは嬉しそうだった。
 貴奈津と今のような状態を保っていられるなら、逃げ隠れする必要は当面ないと思うからだろう。
「ときに姐さん、バイクがあれじゃあ、どうやってお帰りになるんです?」
 ヒロミが指差したほうを、貴奈津もチラリと振り返った。
「ははははは……」
 力なく笑い、だがすぐに表情を引き締め、
「問題はそれよ」
 と指をふる。
 その仕草が、なんとなくレイに似ていた。
 付き合っているうちに、うつったのかもしれない。
 ほとんど意味などない貴奈津の表情と手振りを、ヒロミはきっちり誤解、かつ深読みした。
「わかりました。あたしがお送りさせてもらいます」
 しゃちほこばって頭を下げる。
 礼儀正しいというより、体育会系のノリだった。
 体質的に近いものがあるのかもしれない。
「え? あの、ちょっと……」
 思わぬ展開に狼狽える貴奈津を尻目に、ヒロミはてきぱきとメンバーに指示を出してしまう。
 チームワークのよいチーマー・ルビイは即座に行動を開始して、発進の号令を待つ態勢を整えるまで、ものの十秒とかからなかった。
 リーダーの面目躍如というところだ。
 ヒロミが赤いスポーツカーの助手席側ドアをあけて、貴奈津にうながす。
「姐さん、どうぞ」
「ど、どうぞと言われても……」
 もごもごと呟く声は、外へはもれない。
 月葉なら、一瞥もくれずに背を向けることができる。
 だが貴奈津には、相手がチーマーだとわかっていても、自分に向けられた厚意をはねつける根性がなかった。
「どうぞ、お乗りになって」
 再度勧められ、貴奈津はぎこちなく肯いた。
 のそのそと足を進め、車に乗りこむ。
 助手席で肩を落としてうつむく姿は、部外者の目からは、チーマーに脅され拉致された気の毒な少女に見えるかもしれない。
 ヒロミは助手席のドアを閉めると、フロントを回り、運転席に乗りこんだ。
 インカムを装着して、マイクの位置を調節する。
「出るよ!」
 号令をかけるのと、サイドブレーキが解除されるのが同時。
 一瞬後にはアクセルが踏みこまれる。
 タイヤを鳴らして急発進する車の助手席で、貴奈津は思わず仰け反った。
 運転のしかたが荒っぽい。
「あの……ヒロミさん、なるべく安全運転してくださいね」
 貴奈津の言葉とも思えなり。
 だが、ヒロミはまじめな顔でうなずいた。
「そりゃあ、もう。貴奈津姐さんみたいなすごい運転、あたしたちにはまねできませんから」
 ずり……と、貴奈津がシートに沈む。
 意思の疎通をみごとに欠く返事だ。
 そういえば最初に会ったときから、主張がすれ違いっぱなしのような気がする。
 などと貴奈津が考え始めたとき、急激に体が横に振られた。
 車が幹線道路へ飛び出し、右折したわけだが、急ブレーキとともに急ハンドル、後輪を滑らせて車体の向きを変えるという、見た目の派手なやり方である。
「交差点内、徐行!」
 心の中で貴奈津が叫ぶ。
 いきなり道交法に目覚めたらしい。
「もしかして、わたし、生きて家に辿り着けないかも」
 そんなことはないだろう。リーダーだけあって、ヒロミの運転技術は確かなものだった。
 しばらく走っているうち、それは貴奈津にもよくわかった。
 しかし、今度は別の問題点が頭に閃く。
 後ろに五、六台をひきつれ、ヒロミは先頭を飛ばしていた。
「助手席に座っているわたしって、知らない人が見たら、絶対に仲間に見えるわよね」
 これは由々しきことではないのか。
 決して自分から優等生だとはいわないし、誰も思ってはいないだろうが、眞鳥さんちの貴奈津ちゃんは、素直で明るい子だと、ご近所ではけっこう評判がよいのである。
 それが、じつはチーマーの仲間だったなどと思われては。
「ああっ、そんなの困るわ、見合い話も来なくなっちゃうっ」
 なぜ、いきなり見合い話という方向へ展開するのか知らないが、期待したこともないくせに、貴奈津は焦りまくった。
 少しは心を入れ替えたのか、あるいは貴奈津を乗せているからか、ヒロミもあとに続く五、六台も、あまりひどい迷惑走行はしていない。
 それでも行く手に車が現れれば、追いつき、あおり、相手が怯んで道を空けるところを一団となって追い抜いていくその走法は、チーマー以外のなにものでもなかった。
「やめなさい!」
 と、一言 言えばよかったのだ。
 そうすれば、ルビイは素直に従ったはずだが、貴奈津はてんで気づかなかった。
 ルビイの車に同乗していることが恥ずかしくて、それどころではなかった。
「もう、お嫁にいけないわ」
 そういうことではない。
 もっとましな観点から、現状を捉えて欲しい。
 だが貴奈津はきっちり逃避した。
 両手で顔をおおい、俯いてしまったのである。
 だから、貴奈津は気付かなかった。
 対向車線を見覚えのあるクーペが、かなりの速度で近付いてきたことに。



 続く……
しおりを挟む

処理中です...