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第37話 越えてはいけない線
カルデサックの食事処には、しばらく沈黙が落ちていた。
湯気の立つ料理は、すでに半分以上が手つかずのまま冷めかけている。マールもレティシアも、箸を止めたまま、ただブリュンヒルデを見ていた。
彼女は杯に口をつけることもせず、しばらく視線を落としたまま動かなかった。
「レグルスとの仲を切り裂くことになったキッカケ……それはクラウスから出された“とある指令”だった」
ようやく絞り出すように、ブリュンヒルデは続ける。
「魔の森に侵食された砦の奪還作戦でな」
マールが、思わず小さく息を吸った。
「今ではカルデサックの街がそうだが、かつては砦が国境防衛の要だった。だが魔の森の拡張によって孤立し、最終的には巨大な鷹の魔獣――ベノムイーグルに占拠された、とされていた」
ブリュンヒルデは、そのときの自分を思い出すように、わずかに眉を寄せる。
「……馬鹿な話だ」
当時の声色をなぞるように、吐き捨てる。
「私たちは対人戦を主軸に編成された前線部隊だ。なぜ魔獣の討伐を――しかも砦奪還などという大仰な任務を、こちらに振る?」
その疑問には、理由があった。
各国で、魔の森による領土侵食が目に見えて進み始めていた時期だった。村が消え、街道が断たれ、国境線は静かに、だが確実に後退していく。
民衆の不安と不満は、日に日に膨らんでいた。
『国は何をしている』
『軍は役に立っているのか』
そうした声に対する、“分かりやすい成果”が求められていた。
「砦の奪還は、象徴としては十分すぎる」
ブリュンヒルデは、淡々と語る。
「だからこそ、あの男――クラウスが、この作戦を強く推進した」
功績。
数字。
昇進。
そのための舞台として、前線が選ばれたのだ。
「だが、命令書を読み込めば読むほど……おかしな点が目についた」
退路は薄い。
援護部隊は最低限。
事前情報は、すべてクラウス側がまとめたもののみ。
「嫌な予感しかしなかった」
ブリュンヒルデは、そこでようやく視線を上げる。
「だから私は、その命令書を……そのまま、彼に見せた」
◇
前線司令部の簡易テント。
夜明け前の冷えた空気の中、ブリュンヒルデは机の上に命令書を置いた。
「これが、次の作戦だ」
向かいに立つレグルスは、無言でそれを手に取る。
目を走らせる速度は速かった。だが雑ではない。行間まで含めて、すべてを飲み込んでいく。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……なるほど」
それだけだった。
怒りも、驚きも、声には滲まない。
「お前は納得したのか?」
ブリュンヒルデが問いかけると、レグルスは命令書から目を離さずに答えた。
「この作戦の意味が分からないほど、愚かじゃないさ」
静かな声だった。
「砦奪還。魔獣討伐。象徴的成果。退路が細いのも、援護が薄いのも……全部、意図的だ」
紙を畳み、机に戻す。
「だが、俺では反抗できない。命令だからな」
ブリュンヒルデは、唇を噛んだ。
「……すまない」
その一言に、レグルスはようやく彼女を見る。
責める色はなかった。
「少尉」
低く、落ち着いた声。
「アンタはそれが“最善”だと判断したんだろう?」
確認するような口調。
ブリュンヒルデの目が、わずかに見開かれる。
「その判断を、俺は信じる」
それ以上、何も言わなかった。
その背中を見送りながら、ブリュンヒルデは言葉を失っていた。
◆
作戦当日、早朝。
魔の森は、濃い霧に覆われていた。
夜明けの気配はある。だが光は届かない。白く湿った靄が視界を塞ぎ、十数歩先すら曖昧だ。吸い込む空気には、舌に残るような微かな苦味が混じっていた。
砦の外縁を囲むように、部隊が静かに展開する。
石壁はところどころ崩れ、苔と黒ずんだ蔓が絡みついている。かつて人の手で築かれた防衛拠点は、もはや森に呑み込まれかけていた。
事前に共有されていた情報は、単純だった。
――ベノムイーグル。
毒をまき散らす猛禽類。
上空からの急襲と、毒液による範囲攻撃。
ゆえに警戒は空に向けられていた。
弓兵は仰角を取り、魔導士は対空障壁の詠唱準備に入る。索敵班も、自然と視線は霧の上へと向いていた。
だが。
「……おかしいな」
先行していた斥候の一人が、小さく呟いた。
空に、影がない。
羽ばたきの音も、気配も、何ひとつ。
代わりに。
足元で、靄の中から奇妙なものが浮かび上がってきた。
地面を這う、細い白線。
苔とは違う。蔓でもない。
菌糸だ。
不自然なほど規則的に、砦の周囲へ広がっている。
その瞬間だった。
「――吸うな!」
レグルスの声が、鋭く飛ぶ。
だが、遅かった。
霧の中で、何かが弾けた。
ぱっと、視界が白く染まる。
霧とは別の、細かな粒子。
花粉のようで、灰のようで、しかし生き物めいた粘りを帯びている。
「ぐっ……!?」
兵の一人が膝をついた。
咳き込み、喉を押さえ、呼吸が乱れる。皮膚に露出した部分が、みるみるうちに赤黒く変色していく。
「毒だ!」
「治療班、前へ!」
だが、治療資材は足りなかった。
想定していたのは、毒液による局所汚染だ。吸引性の毒菌など、準備に含まれていない。
そして、霧の奥から軋むような、湿った羽音が響いた。
姿を現したそれは、もはや“猛禽”ではなかった。
骨格は鳥に近い。だが翼は、羽毛ではなく菌膜で覆われている。身体の随所から、胞子嚢のような瘤が脈打ち、膨張と収縮を繰り返していた。
ベノムイーグル。
だが、それは猛禽類ではない。
――猛菌類。
鷹ではなく、胞子に主導権を奪われた菌類へとと変質していた。
胞子が舞うたび、兵が倒れていく。
吸えば肺を侵され、触れれば皮膚が腐る。
砦を中心に、すでに“死地”が形成されていた。
レグルスは、歯を食いしばる。
(このままじゃ……隊が全滅する)
即座に、配置図を引き寄せる。
風向き。
地形。
菌糸の広がり。
事前情報なぞ、すでにゴミと化した。
空中戦を前提にした、あまりにも古い資料。
(……なぜ誤情報が、いや――)
喉の奥に、冷たいものが落ちた。
(クラウスの仕業か)
偶然では済まない。
この魔獣の変質は、ここ数日の話ではない。少なくとも、事前に調査する者がいれば分かったはずだ。
にもかかわらず、提出された情報は“猛禽類”のまま。レグルスは、はっきりと理解した。
(俺が邪魔だったから……だからってここまでするか?)
これは失策ではない。あまりにも残忍な切り捨てだ。
彼は顔を上げ、霧の向こうで指示を飛ばすブリュンヒルデの姿を捉えた。
ここで判断を誤れば、全滅する。
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