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第2話 静かに近づく距離
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結婚初日、緊張と妙な空気が屋敷を包んでいた。
「……よろしく」
自室の隅で小さく頭を下げる影の騎士——ノクス・アルヴァ。対して私は、何と返せばいいのか分からず、ワインを持った手が小刻みに揺れるばかりだった。華やかなドレスを着ていても、内心は不安と戸惑いでいっぱいだった。
「こちらこそ……た、頼りにしていますから」
言葉はたどたどしく、視線は宙をさまよう。ふたりの間に流れる沈黙は重苦しいようで、どこか可笑しくもあり、不器用な私たちの関係を象徴していた。
「では……失礼する」
影のように音もなく去っていく彼。その背中は冷たいはずなのに、どこか寂しさを滲ませていた。
——これから本当に、この“影”と共に歩んでいけるのかしら。
翌日から、奇妙な日常が始まった。
夜更け、屋敷に漂う甘い香り。かつては酒や香水の匂いで満たされていた空間が、優しいバターと焼き菓子の香りに変わっていくなんて。
「……信じられない」
そっと廊下を進み、足音を殺してキッチンの扉をわずかに開く。そこにいたのは、誰よりも鋭く、そして孤高だった影の騎士——ノクス。真剣な表情でクッキーを成形し、繊細な模様を描くようにアイシングを施している。その手には戦いの傷跡が残っていたけれど、指先の動きはまるで芸術家のように優しかった。
「……ふふっ。ギャップがすごいわね」
笑いを堪えながらそっと扉を閉めた。
翌朝、食卓には可愛らしいリボンで結ばれた小箱が置かれていた。開けると、宝石のように美しいクッキーが整然と並んでいる。ひと口かじれば、口いっぱいに広がる優しい甘み。自然と頬が緩み、胸が温かくなった。
「この人……こんな一面を隠していたのね」
その翌晩。
「劇場に行く……?」
夜、ノクスが屋敷を抜け出す姿を見つけた私は、抑えきれない好奇心に突き動かされて尾行した。辿り着いたのは、王都で最も華やかな劇場。
最上階の隅に腰掛けた彼は、誰にも気づかれないように身を潜めていた。そして、幕が上がると同時に、その冷たい顔が驚くほど柔らかくなり、少年のような瞳で舞台を見つめていた。
煌めくドレスをまとった役者たち、華やかな音楽、そのすべてを全身で楽しむ彼。その姿は、孤独な影ではなく、ただ夢を見つめるひとりの人間だった。
「あなたは本当は……こんなに純粋な人なんだ」
胸がじんわりと熱くなった。
数日後、古びたレシピ帳を熱心に眺めている彼の姿を見かけた。
「……新しいレシピ?」
問いかけると、視線をそらして頬を少し染めながら「次は……スフレを作ってみたい」と小声で答えた。その不器用な可愛さに、思わず笑みがこぼれた。
「なら、一緒に作ろう?」
その日の午後、粉まみれになりながら奮闘する二人。膨らみすぎて焦げたスフレを眺めて「次こそ成功させよう」と笑い合った時間は、何よりの宝物になった。
ある日、庭で花を植える彼を見つけた。土を優しくなでる指先、静かに並べていく苗たち。
「落ち着くから」と呟いたその声は、戦場で鋼の心を持つ男とは思えないほど柔らかかった。
だが、その穏やかさは長くは続かなかった。
王都は緊張に包まれ、通りの空気も重苦しくなっていた。盗賊団の暗躍、闇取引の噂、そして魔物の影——街角の人々が怯えながら目を伏せる光景が広がっていた。
夜ごと帰宅するノクスの姿には、隠し切れない戦いの痕跡が刻まれていた。切り傷、血痕。それでも夜には変わらずキッチンに立ち、クッキーを焼く彼。
「どうして……そんなに無理をするの」
その背中を見つめながら、涙がこぼれそうになった。
「私が支えなくて、誰があなたを守るの……」
ある夜、月を見上げる彼の姿を見つけた。
「何を見ているの?」
そっと問いかけると、しばらくの沈黙の後に、静かな声が返ってきた。
「……光の中で笑ってみたかった」
その言葉に、胸が張り裂けそうになった。
翌朝、机に置かれた包みには、私の好きな甘いお菓子と『愚痴に付き合ってくれてありがとう』と書かれた小さな紙片が添えられていた。その小さな優しさに触れた瞬間、涙があふれた。
「そんなあなたを、私は……絶対に守る」
心からそう誓った。
——この影を、今度は私が光の中に導く番だ。
「……よろしく」
自室の隅で小さく頭を下げる影の騎士——ノクス・アルヴァ。対して私は、何と返せばいいのか分からず、ワインを持った手が小刻みに揺れるばかりだった。華やかなドレスを着ていても、内心は不安と戸惑いでいっぱいだった。
「こちらこそ……た、頼りにしていますから」
言葉はたどたどしく、視線は宙をさまよう。ふたりの間に流れる沈黙は重苦しいようで、どこか可笑しくもあり、不器用な私たちの関係を象徴していた。
「では……失礼する」
影のように音もなく去っていく彼。その背中は冷たいはずなのに、どこか寂しさを滲ませていた。
——これから本当に、この“影”と共に歩んでいけるのかしら。
翌日から、奇妙な日常が始まった。
夜更け、屋敷に漂う甘い香り。かつては酒や香水の匂いで満たされていた空間が、優しいバターと焼き菓子の香りに変わっていくなんて。
「……信じられない」
そっと廊下を進み、足音を殺してキッチンの扉をわずかに開く。そこにいたのは、誰よりも鋭く、そして孤高だった影の騎士——ノクス。真剣な表情でクッキーを成形し、繊細な模様を描くようにアイシングを施している。その手には戦いの傷跡が残っていたけれど、指先の動きはまるで芸術家のように優しかった。
「……ふふっ。ギャップがすごいわね」
笑いを堪えながらそっと扉を閉めた。
翌朝、食卓には可愛らしいリボンで結ばれた小箱が置かれていた。開けると、宝石のように美しいクッキーが整然と並んでいる。ひと口かじれば、口いっぱいに広がる優しい甘み。自然と頬が緩み、胸が温かくなった。
「この人……こんな一面を隠していたのね」
その翌晩。
「劇場に行く……?」
夜、ノクスが屋敷を抜け出す姿を見つけた私は、抑えきれない好奇心に突き動かされて尾行した。辿り着いたのは、王都で最も華やかな劇場。
最上階の隅に腰掛けた彼は、誰にも気づかれないように身を潜めていた。そして、幕が上がると同時に、その冷たい顔が驚くほど柔らかくなり、少年のような瞳で舞台を見つめていた。
煌めくドレスをまとった役者たち、華やかな音楽、そのすべてを全身で楽しむ彼。その姿は、孤独な影ではなく、ただ夢を見つめるひとりの人間だった。
「あなたは本当は……こんなに純粋な人なんだ」
胸がじんわりと熱くなった。
数日後、古びたレシピ帳を熱心に眺めている彼の姿を見かけた。
「……新しいレシピ?」
問いかけると、視線をそらして頬を少し染めながら「次は……スフレを作ってみたい」と小声で答えた。その不器用な可愛さに、思わず笑みがこぼれた。
「なら、一緒に作ろう?」
その日の午後、粉まみれになりながら奮闘する二人。膨らみすぎて焦げたスフレを眺めて「次こそ成功させよう」と笑い合った時間は、何よりの宝物になった。
ある日、庭で花を植える彼を見つけた。土を優しくなでる指先、静かに並べていく苗たち。
「落ち着くから」と呟いたその声は、戦場で鋼の心を持つ男とは思えないほど柔らかかった。
だが、その穏やかさは長くは続かなかった。
王都は緊張に包まれ、通りの空気も重苦しくなっていた。盗賊団の暗躍、闇取引の噂、そして魔物の影——街角の人々が怯えながら目を伏せる光景が広がっていた。
夜ごと帰宅するノクスの姿には、隠し切れない戦いの痕跡が刻まれていた。切り傷、血痕。それでも夜には変わらずキッチンに立ち、クッキーを焼く彼。
「どうして……そんなに無理をするの」
その背中を見つめながら、涙がこぼれそうになった。
「私が支えなくて、誰があなたを守るの……」
ある夜、月を見上げる彼の姿を見つけた。
「何を見ているの?」
そっと問いかけると、しばらくの沈黙の後に、静かな声が返ってきた。
「……光の中で笑ってみたかった」
その言葉に、胸が張り裂けそうになった。
翌朝、机に置かれた包みには、私の好きな甘いお菓子と『愚痴に付き合ってくれてありがとう』と書かれた小さな紙片が添えられていた。その小さな優しさに触れた瞬間、涙があふれた。
「そんなあなたを、私は……絶対に守る」
心からそう誓った。
——この影を、今度は私が光の中に導く番だ。
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