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積み木.1
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穏やかに時が流れる。
先生が居ても居なくても、昼休みを数学準備室で過ごす。僕のために鍵は毎日開いている。みんなの好奇心を背に、後ろ手で扉を閉める。
ただ、勉強を教わる。少し慣れて会話が出来るようになった。それだけだけれど。
授業をサボるようになった。保健室に行きます、と教師に言い残して、歴史学の空き準備室に顔を出す。
一五が居るかどうかはわからない。居れば一緒にイヤホンを分けあって音楽を聞いたり、手を繋いで昼寝をする。こっそり持ち込んだゴーを枕にして。
もちろん優等生は維持。矢野さんに頼んで、田村医師に診断書を作ってもらった。『オメガフェロモンが不安定だから、思春期メンタルも不安定、見守ってね』と書いてあるそうだ。相変わらず田村医師の説明は砕けている。
その上で、計算してバランス良く授業を抜けている。今のところ、僕の逸脱行為は咎められてはいない。
時折、一五にくっついてライブハウスにお邪魔する。ストリートの方は護衛しづらいから、と断られてしまうけれど。豹っぽい一五を猫可愛がりするグループの方々とも、知り合いになった。
僕を大人っぽくするために、放課後矢野さんが迎えにくる。プライベートサロンで磨かれるだけでなく、演奏会や個人美術館、社交の場にも連れ出されるようになった。
けい兄には……会わせてもらえない。
「失礼いたします」
吸入薬を深く肺まで取り込んでから、準備室の引き戸をノックする。今日は先生が僕を待っている。
「松流さん、ごきげんよう」
明るく笑って、大きめの水筒を軽く掲げてみせる。ふわりと淡く揺れるせんせいの薫り。笑顔にはやっと耐性がついた。
「淹れたての方が、美味しいんだけどね」
少し前から、お言葉に甘えてご馳走になっている。先生が自宅で手ずから淹れた珈琲を。
ごつい湯呑みに入った真っ黒な水面。カランと響く氷の音。本当は苦くて不得手なはずのブラックを、僕は背伸びして、毎回澄ました顔で飲んでいる。
そっと両手で包んだ珈琲が、昨日より僅かに甘くなっている。気づいた僕は、心までちょっぴり甘くなってしまう。
それでも、幼い舌を見抜かれて何だか悔しい。その優しさに素知らぬ顔して、コクリと飲み干す。
やってきた特別宿題のノートを提出して、新しいものをいただいて。細長いテーブルに並んで、僕は解く。先生は何か作業をする。
黙ったまま、触れそうで決して触れない二人の距離。全館空調の音が聞き取れる。きっちり閉じた窓の外は、梅雨の走り。雨音は届かない。
無理やり質問事項を捻り出して、ひと言ふた言。
「ありがとうございました」
「また、明日」
昼休み終了の鐘の音色が響く前に、準備室を出る。お弁当は別々。チラッと見えた包みは、ベーカリーに勤める番さんの手作りサンド。見たくない。お互いに見えないフリ。
多分……たぶん、だけれど。せんせいも戸惑っている。
ちゃんと、放課後。一人で赤い傘を差して裏門の車寄せまで歩く。雨はもう疎らで、蒸した空気の方が地上を占めている。期間限定送迎車の許可はまだ継続している。
何となく予感はあった。矢野さんが車内にいる。忙しいからだろう、いつも何の連絡も無く現れる。
「そろそろかな、って思ってた。お疲れさまです」
「おかえりなさいませ、松流様」
紳士の仮面は顔色が読みづらいけれど、いつもよりもご機嫌な気がする。
「今日は何するの?」
「髪を整えようかと」
僕の襟足の髪を、繊細な手つきで指にくるりと絡ませる。研究室の味見の件以降、僕にキスしたり膝に抱き上げるようなスキンシップを、矢野さんからはしなくなった。でも時々こうやって、自然に僕に触れることはある。きっと無意識なんだろう。
彼の指を受け入れたまま、運転手に都心へと運ばれる。
大通りから道一本入った瀟洒なビルの一角、看板の無い美容室。案外狭い店内に入ると、いつものサロンのお姉さまが二人、出張してきている。何だか楽しそうな様子。
「矢野さま、平さまのヘアスタイル、いかが仕上げましょう?」
「項を、晒そうか」
「う……なじ、を?」
先生が居ても居なくても、昼休みを数学準備室で過ごす。僕のために鍵は毎日開いている。みんなの好奇心を背に、後ろ手で扉を閉める。
ただ、勉強を教わる。少し慣れて会話が出来るようになった。それだけだけれど。
授業をサボるようになった。保健室に行きます、と教師に言い残して、歴史学の空き準備室に顔を出す。
一五が居るかどうかはわからない。居れば一緒にイヤホンを分けあって音楽を聞いたり、手を繋いで昼寝をする。こっそり持ち込んだゴーを枕にして。
もちろん優等生は維持。矢野さんに頼んで、田村医師に診断書を作ってもらった。『オメガフェロモンが不安定だから、思春期メンタルも不安定、見守ってね』と書いてあるそうだ。相変わらず田村医師の説明は砕けている。
その上で、計算してバランス良く授業を抜けている。今のところ、僕の逸脱行為は咎められてはいない。
時折、一五にくっついてライブハウスにお邪魔する。ストリートの方は護衛しづらいから、と断られてしまうけれど。豹っぽい一五を猫可愛がりするグループの方々とも、知り合いになった。
僕を大人っぽくするために、放課後矢野さんが迎えにくる。プライベートサロンで磨かれるだけでなく、演奏会や個人美術館、社交の場にも連れ出されるようになった。
けい兄には……会わせてもらえない。
「失礼いたします」
吸入薬を深く肺まで取り込んでから、準備室の引き戸をノックする。今日は先生が僕を待っている。
「松流さん、ごきげんよう」
明るく笑って、大きめの水筒を軽く掲げてみせる。ふわりと淡く揺れるせんせいの薫り。笑顔にはやっと耐性がついた。
「淹れたての方が、美味しいんだけどね」
少し前から、お言葉に甘えてご馳走になっている。先生が自宅で手ずから淹れた珈琲を。
ごつい湯呑みに入った真っ黒な水面。カランと響く氷の音。本当は苦くて不得手なはずのブラックを、僕は背伸びして、毎回澄ました顔で飲んでいる。
そっと両手で包んだ珈琲が、昨日より僅かに甘くなっている。気づいた僕は、心までちょっぴり甘くなってしまう。
それでも、幼い舌を見抜かれて何だか悔しい。その優しさに素知らぬ顔して、コクリと飲み干す。
やってきた特別宿題のノートを提出して、新しいものをいただいて。細長いテーブルに並んで、僕は解く。先生は何か作業をする。
黙ったまま、触れそうで決して触れない二人の距離。全館空調の音が聞き取れる。きっちり閉じた窓の外は、梅雨の走り。雨音は届かない。
無理やり質問事項を捻り出して、ひと言ふた言。
「ありがとうございました」
「また、明日」
昼休み終了の鐘の音色が響く前に、準備室を出る。お弁当は別々。チラッと見えた包みは、ベーカリーに勤める番さんの手作りサンド。見たくない。お互いに見えないフリ。
多分……たぶん、だけれど。せんせいも戸惑っている。
ちゃんと、放課後。一人で赤い傘を差して裏門の車寄せまで歩く。雨はもう疎らで、蒸した空気の方が地上を占めている。期間限定送迎車の許可はまだ継続している。
何となく予感はあった。矢野さんが車内にいる。忙しいからだろう、いつも何の連絡も無く現れる。
「そろそろかな、って思ってた。お疲れさまです」
「おかえりなさいませ、松流様」
紳士の仮面は顔色が読みづらいけれど、いつもよりもご機嫌な気がする。
「今日は何するの?」
「髪を整えようかと」
僕の襟足の髪を、繊細な手つきで指にくるりと絡ませる。研究室の味見の件以降、僕にキスしたり膝に抱き上げるようなスキンシップを、矢野さんからはしなくなった。でも時々こうやって、自然に僕に触れることはある。きっと無意識なんだろう。
彼の指を受け入れたまま、運転手に都心へと運ばれる。
大通りから道一本入った瀟洒なビルの一角、看板の無い美容室。案外狭い店内に入ると、いつものサロンのお姉さまが二人、出張してきている。何だか楽しそうな様子。
「矢野さま、平さまのヘアスタイル、いかが仕上げましょう?」
「項を、晒そうか」
「う……なじ、を?」
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