落火流水

桜 朱理

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第一章 水の商人

3)

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『どうしたの?』
『エミリア! 遊ばないの?』
 いつの間にかエミリアの周囲に、手のひら大の半透明な子どもたちが四、五人ほど集まって来て、空を漂っている。彼らが動くたびに、水が跳ね飛ぶ。
 水路の水を使って、水霊が形を作って現れたのだ。
 一気にエミリアの周りが騒がしくなる。
『疲れてるの?』
 寝ころんだまま起き上がらないエミリアを見下ろして、水霊が首を傾げて見せる。
『だったら水力を上げるよ』
 中の一人がすいっと寄って来て、エミリアの額にキスをした。触れ合った場所から清涼な力が流れ込んでくる。体の中に溜まっていた疲労が押し流されていくのをエミリアは感じた。
『私も!』
『僕も! 僕も!』
 一人がエミリアに水の力を分け与えたことをきっかけに我も我もと他の水霊たちがエミリアの顔の周りに集まってくる。
 彼らが動くたびに、跳ね散る水がエミリアの顔や髪を濡らすのがたまらず、「もう大丈夫だから!」と言って、エミリアは体を起こす。
 水霊たちのおかげで、体の疲れはすっかりと癒えていた。
「ありがとう」
 笑って手を水霊たちに伸ばせば、きゃらきゃらと笑った彼らがエミリアの手に纏わりつく。その無邪気な様子に、エミリアの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
 戯れに水の力を開放し、手からシャボンを生み出す。魚の形や花、生き物の形にシャボンを形成して、空に放てば水霊たちが喜びの声を上げる。
『綺麗ね!』
『私たちも出来るよ!』
『エミリア! もっと遊ぼう!』
 エミリアを真似て水霊たちもいくつものシャボンを生み出した。シャボンを追いかける水霊が現れ、彼らが触れたせいで、いくつものシャボンが割られた。空で弾けたそれが霧雨のように裏庭に降り注ぎ、小さな虹がいくつもかかった。
 普段はひっそりとしている裏庭に、幻想的な光景が生み出される。
 不意に背後でがさりと茂みが鳴った。その音に、エミリアはハッとする。水霊たちも警戒するようにパッと姿を消した。水霊たちが隠れたことで、彼らの仮の体だった水が、ぼとぼとと庭に落ちて、地面にいくつもの水たまりを作る。数個残ったシャボンと虹だけが裏庭に残された。
 水霊たちと戯れていて、周りに気を配るのを忘れていた。訪れる人は少ないが、この裏庭には警護の人間や休憩中の使用人がやって来るのだ。それをすっかり忘れて遊んでいた自分に、エミリアは臍を噛む。
 請願の儀式もなく水霊たちと交流が出来ることは、水龍族だけの秘密だ。
 この力が知られてしまえば、ただでさえ苦境に立たされている他の同胞にどんな類が及ぶかわからない。
 ――水の力を使っていただけだと、そう言えば誤魔化せるだろうか。
 必要であれば、強硬手段も辞さないつもりで、水路から立ち上がったエミリアは鋭い眼差しであたりを見渡す。
「誰かいるんですか?」
 警戒を含んだ声音に、裏庭の茂みの一角が不自然にゆれた。
 そちらに向かってエミリアは水の矢を放つ。
「うわぁ!」
 叫び声と同時にびしょ濡れの男が、茂みから飛び出してきた。そのまま男は、滑るようにエミリアの前に来て、土下座した。
「す、すみません! 宮の中で迷子になっただけで、お邪魔する気はなかったんです!」
 男の行動とその容姿にも驚いて、エミリアは瞳を見開く。
 肩先まで伸びた濃い灰色の髪に、鮮やか青の布をぐるりと頭に巻いて、左の額で結んでいる。上衣は額の布と同じ共布で作られたと思われる鮮やかな青に染められ、襟のない丸首をした足先までの長い裾の貫頭衣に、首元から裾まで縦一列に並んだボタン。ゆったりとした形のズボンはこの帝国ではあまり見ることのない形をしていた。
 この国の男性たちは、襟のない詰襟に膝丈までの裾の上着を着ている。上着は裾から腰くらいまでスリットが入っており、女性のローブと同じように首回りや襟口、裾に沿って刺繍や装飾が施されている。それにズボンを履いているのが一般的だ。
 それだけで、彼がこの帝国の人間ではないことが察せられた。
 何よりも水が性であることを表した色素の薄い髪の色に、白い肌にエミリアは驚いていた。
 ここは皇太子宮の最奥だ。ここに入ってくるのはこの宮に勤めている使用人か警護の人間くらいだと思っていた。なのに、彼はどう見ても宮の人間ではないし、炎龍族ですらない。
 灰色の髪とその民族衣装に、水孤族の商人ではないかとエミリアは思った。
「僕は水孤族の商人でアレイルと申します!」
 それを裏付けるように男が名乗りを上げた。
「皇太子宮からご依頼がありまして、訪問したまではよかったのですが、、緊張して下を向いて歩いてましたら、うっかり案内人の方とはぐれて、迷子になりました! 進めば進むほどに、人気がなくなって、もう一生この宮の中から出れられなくなるんじゃないかと思ってたら、人の笑い声が聞こえて来て、これは天の助け! と案内をお願いしたくて、ここまできたんです!」
 エミリアの前で土下座したまま、アレイルは立て板に水の勢いで話し出す。エミリアが口を挟む間もないほどにその口は滑らかだった。
「それでこちらを覗きましたら、まるで夢のような光景が広がってまして、あまりの美しさに、あれ? 僕やっぱり皇太子宮の中で迷後になったまま死んだのかな? って思ったりもしたんですが……」
 そこまで言って男がエミリアの方にちらりと顔を向けた。
「あの……僕、生きてますよね?」
 こちらの顔色を窺い、眉尻を下げた今にも泣きそうな何とも情けない男の顔に、エミリアは毒気を抜かれてしまう。
 思わずまじまじと男の顔を見下ろした。アレイルは整った顔立ちをしていたが、エミリアが気になったのは別ことだった。その瞳の色に再び驚く。
 右目に片眼鏡をつけたその瞳は、左が水孤族特有の紺で、右がアクアマリンのような水色だった。彼は純粋な水孤族ではないのだろう。この混血が進んだ時代に、それは珍しいことではなかったが、何よりもその右目にエミリアは惹きつけられた。右目の氷青は水龍族特有の色だ。彼の遠い祖先のどこかに自分の同胞がいた証だ。
 ――珍しい。
 混血が進む時代になっても、水龍族が同胞意外と番うことはほとんどなかったと聞いている。例外はそれこそエミリアのように、宿命の番と出会ってしまったものだけだ。
 水孤族の商人と言うことで、エミリアはふと三百年ほど昔に、彼らに嫁いだ巫女がいたことを思い出す。巫女と他民族が番うことは当時の水龍族の間でかなりの波紋を生んだせいか、記録が残っていた。彼はその系譜に連なるものなのかもしれない。
「あの……その……僕、聞こえてますが、見えてません! だから、あの……その……
どうか命だけは助けてください」
 頭の上で両手を合わせて、再びがばりとアレイルが頭を下げた。
「聞こえてるのに、見えてない?」
 アレイルの謎かけのような言葉に、エミリアの眉間に皺が寄る。エミリアの反駁に男が再び恐々とした様子で目線だけをエミリアに向けてくる。
「あのお気づきとは思うんですけど、僕の先祖にはあなた様と同じ尊き水のお方の血が流れてます。それで……あの、先祖返りって言いますか、目がこんなせいもあるのか、水霊様の声は聞こえるんです……」
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