落火流水

桜 朱理

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第一章 水の商人

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 先ほどまでの勢いはどこへやら。アレイルは間近にいなければ聞き取れないほどにぼそぼそとした声で話し出した。
 その内容にエミリアの眉間に皺が寄る。驚きに忘れかけていた警戒心が湧き上がってくる。
「尊き水のお方様たちの秘密は他言無用なのは理解しております。だから、どうか殺さないでください!!」
 必死に頭を下げるアレイルに、エミリアの中に迷いが生まれた。
 水霊との交流は水龍族にとっては外部に漏らせない秘密ではある。アレイルの発言からもそれを理解していることはわかった。彼自身、先祖返りの力のせいか、水霊の声が聞こえると言う。請願の儀式もなくそれが出来るアレイル自身、その力を知られればまずいことになるのだろう。
 エミリアとて、無駄な殺生をする気はなかった。面倒なことになるのはわかりきっている。だが、もしここでエミリアがアレイルを殺しても、きっと飛蘭が不法侵入者として処理してくれることもわかっていた。
『エミリア』
 迷うエミリアの背を押すように、先ほど姿を隠した水霊とは別の子がふよふよと現れた。
『大丈夫だよ。アレイルは誰にも言わないよ』
 彼を守るように浮かぶ水霊の姿に、エミリアは不審げな眼差しを向ける。
「本当に? あなたたちはそれでいいの?」
『うん。アレイルは嘘つきだけど、このことについては多分、大丈夫だよ?』
「僕……嘘つきですか? そして、多分なんですか?」
 水霊の声が聞こえているのか、その評価にアレイルがしょんぼりと肩を落とした。
 色々と気になる発言はあるものの水霊自身が、アレイルの存在を許容し守護している気配に、エミリアは自分の中の迷いを飲み込んだ。
「わかった」
『ありがとう。エミリア。またねー』
 殺気を消したエミリアに水霊がホッとしたように楽し気な笑い声だけ残して消えた。
「立って……」
 手を差し出して、立つように促せば、恐る恐るエミリアの手を取って、アレイルが立ち上がった。土下座していたせいでわからなかったが、アレイルは思ったよりも背が高かった。エミリアよりも頭一つ分。飛蘭と並ぶほどの身長だろうか。
「ありがとうございます」
「あの子に頼まれたから仕方ないわ」
「本当にありがとうございます!」
 肩を竦めて答えれば、アレイルはホッとしたように笑った。人懐っこい笑顔に、エミリアは今度こそ本当に体の緊張を解く。
 ――あの子が現れなかったとしても、きっと私はこの人を殺せなかっただろうな。
 細い繋がりとはいえ、久しぶりに感じた同胞の気配が、懐かしかった。
 皇太子宮から出ること出来ないエミリアは、この帝国に連れて来られているはずの他の一族のものたちに会うことが叶わなかった。
 エミリアにとってはこの国にいるはずの同胞は人質だ。自分の不用意な行動で、彼らに不利益がもたらされることをエミリアはずっと恐れている。
 だからか、かすかとはいえアレイルから感じる水龍族の気配に、慕わしくて仕方なかった。
 自分が同胞の気配にひどく飢えていることを、エミリアは実感する。
「ここは皇太子宮の最深部です。こんなところにいるのを見つかったらいくら迷子と言っても、言い訳にならないと思います。早く戻った方がいい」
 警告と共に、エミリアは回廊の方を指さす。
「あの回廊に戻って、右に真っすぐ進んでください。ピンクのロザリアナの花が咲いている中庭まで戻ったら、左に行ってください。中央回廊に戻れるはずです。そこまで行けば、使用人が誰かしらいるはずです」
「あ、あの! 待ってください! 図々しいお願いだと言うのはわかっているのですが、出来れば一緒に行っていただくことはできませんか?」
 へにゃりと眉を下げた顔でアレイルがエミリアに懇願してくる。
 先ほどの貴族令嬢の態度を思い出せば、その願いを聞くのは躊躇われる。飛蘭が戦場から帰還した今、宮の表側は来客が多くなっていることだろう。
 そんな中にのこのこと出ていけば、どんな騒ぎになるかなんて考えるまでもない。
 またあの侮蔑と嫉妬の眼差しにさらされるのかと思えば、気も重くなる。
「悪いですが、案内は出来ません」
 きっぱりと断ったエミリアに、アレイルが泣きそうな顔になる。
「どうしてもですか?」
「はい」
「本当に、本当に?」
 執拗に確認してくるアレイルに、エミリアは困惑する。
「いや、あの、僕、ものすごい方向音痴なんですよ。いつも相方にも呆れられるんですけど、一人だと絶対に目的地に辿り着けなくて……こんな広い宮の中に一人で放り出されたらきっと迷子で死んじゃいます!」
 ――そんな馬鹿な……
 何とも情けないことを叫ぶアレイルに、エミリアは呆気にとられる。
 しかし、アレイルの瞳は真剣だった。ここでエミリアに見捨てられたら死ぬという気迫がそこにあった。
 実際にアレイルは案内人がいたにも関わらずはぐれた挙句、ここまで迷い込んでいる。
 このまま一人で戻らせたら、また迷子になりかねない。そうして、今度は本当におかしな区域に入り込んで、警護の人間に見つかれば、ただですまないだろう。
 そんなことになれば、エミリアも後味が悪い。
 自分の不快さと彼の命を天秤にかけるとしたら、取るのは後者に決まっている。
 今すぐ捨てられそうな子犬のような眼差しを向けられて、エミリアは天を仰いだ。
 真っ青な空に覚悟を決める。
「わかりました。中央回廊までご案内します」
「ありがとうございます!」
 エミリアの言葉に、アレイルの顔がぱっと輝かせると、エミリアの両手を掴んだ。
「あなたは命の恩人です!」
 そんな大げさなと思うが、正面のアレイルの顔は先ほどまでのしょげた顔とは打って変わって満面の笑みを浮かべている。
 エミリアよりも遥かに年上に見える男の無邪気すぎる様子は、なんだか憎めなかった。
 これも彼の人徳のなせるわざなのだろう。エミリアの唇に苦笑が浮かぶ。
 彼には人が放っておけなくさせる何かがあった。ここで出会ってしまったのが運のつきだと諦める。
 エミリアが回廊に戻ろうと促そうとした時、「何をしている!」と聞き馴染んだ鋭い声が聞こえて来た。
 二人ははっと回廊の方へ振り返る。
 裏庭への入り口に、軍の正装を纏った飛蘭が険しい顔をして立っていた。
 ひどく不機嫌そうな眼差しが、エミリアの手を握るアレイルの両手に向けられていた。
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