結婚詐欺じゃありません!

桜 朱理

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1巻

1-1





   1 結婚詐欺さぎ師じゃありません!


「結婚詐欺さぎで訴えられたくなかったら、責任を取ってもらおうか?」

 酒の席での失敗は色々あるけど、いくらなんでもこれはないだろう。
 今までの人生でお目にかかったこともないほど綺麗な顔をした男が、婚姻届を郁乃いくのの前に突きつける。
 見慣れた自分の文字で記入されたピンクの婚姻届。ご丁寧に郁乃の実印まで押されている。
 全く身に覚えのない婚姻届を目の前に、郁乃は結婚詐欺さぎで訴えられそうという訳のわからない人生のピンチにおちいっていた――


 ちらほらと桜の開花宣言が聞こえてきた三月。日没の時間も徐々に遅くなってきている夕方の六時半、残照ざんしょうを残して陽は完全にビル街の向こうに沈んでいた。
 閉店時間が迫り、中西なかにし郁乃は店頭に出している花を店の中にしまおうと外に出た。途端に春の暖かさをはらんだ風が頬を撫でていって、思わず顔がほころんだ。
 ――春が近いなー。
 かんの戻りで気温が下がることもあるが、春の足音がすぐそこまで聞こえてきているのを感じた。それだけで不思議と心が弾んでくる。
 鼻歌でも歌いたい気持ちで、郁乃は「よっこいしょ」と自分でもおばさんくさいと思うかけ声で、大きめの鉢植えを持ち上げた。
 花屋の仕事は見た目の華やかさに比べて、かなりの重労働だ。朝も早いし、水仕事のせいで手荒れもする。けれど高校生の頃から十年以上、『フラワー藤岡ふじおか』で働いている郁乃にとっては慣れた作業だった。

「よっと! これで終わりかな?」

 最後のバケツをフラワーキーパーの中に入れた郁乃は、さすがに重だるくなった腰を叩きながら、外に出て点検する。全部片付けたことを確認し、店内に戻ろうとしたとき――

「あ! いくちゃん! もう店じまい?」

 聞き馴染なじんだ声に呼び止められた。
 振り返れば、向かいの喫茶店『花水木の夢』のドアから、店主の向井佳代むかいかよが焦った様子で顔を出している。年齢不詳な和服美人である彼女は、この朝日あさひ商店街の不動のアイドルだ。
 彼女が花水木の夢のマスターと結婚したときは、商店街中の男がマスターを襲撃しようとしたという、嘘か本当かわからない伝説まで持っている。
 着物のえりからのぞく白いうなじは、女の郁乃ですらドキリとするほどにつやめいていた。

「佳代さん? どうしたの?」

 佳代の店には定期的に店内に飾る花を納めている。今朝届けた花に何か問題があったのかと首をかしげる郁乃に、店から出てきた佳代が肩をすくめた。

「いやー明日、お義父とうさんの月命日でお寺さんが来るの忘れてたのよー。仏前用のお花が欲しくて、間に合う?」
「あぁ、そういうこと。レジはまだ締めてないから大丈夫だよ」

 郁乃は笑顔で頷いて、店の中に取って返す。仏花用に束にしている菊を二つまとめてバケツから引き抜き、佳代を振り返る。

「佳代さん! これでいい?」
「あ、いい! いい! ありがとう! いくら?」
「二つ合わせて八百円」
「助かったわ! 今朝お義母かあさんに頼まれてたのをすっかり忘れてたのよ。さっき、お寺さんから電話がきて思い出したの。焦ったわー」

 佳代はホッとした様子で微笑むと着物のたもとから小銭入れを取り出し、中から千円札を差し出す。郁乃は、仏花を一旦作業台に置き、佳代からお金を受け取ってレジを打ち込んだ。

「佳代さん、はい。お釣り! 今、花を包むからちょっと待ってて」

 郁乃は佳代に百円玉二枚とレシートを渡すと、花きりばさみを手にする。

「わかった。ありがとう」

 菊が長持ちするように水切りして、新聞紙でくるんでいれば、「あ、そういえば!」と佳代が何かを思い出したように目を輝かせた。

「ねえ! 聞いて! 郁ちゃん!」

 嬉々ききとして身を乗り出してきた佳代に、郁乃はまたかと身構える。

「なんですか?」

 その表情だけで先の言葉は簡単に想像がついたが、一応質問してみる。

「さっきうちの店に、ものすごいイケメンが来たのよ! 一時間くらい前なんだけど、郁ちゃんも見た? あれはのぼるさんと肩を並べるくらいのイケメンだったわ!! ニット帽を深く被ってサングラスしてたから、ちゃんと顔を見られなかったけど、あれは絶対にイケメン!!」

 それでどうしてそんなに自信満々に判断できるのか、郁乃にはわからない。
 けれど、ことイケメンに関する佳代の察知力は並外れているから、きっと本当に男前だったのだろう。
 ――本当、佳代さん、好きだよねー。

「八頭身で手足がすらって長くて、スタイル抜群だった! 背中の筋肉が綺麗で、あれはしっかり体幹とかきたえてると思うの!」

 キラキラと目を輝かせ、滔々とうとうとイケメンについて語る佳代に郁乃は生ぬるい眼差まなざしを向ける。
 自分の旦那様の登が世界で一番カッコいいと言ってはばからない佳代だが、その反面、趣味はイケメン観賞だと公言している。郁乃の母が生きていた頃は、これまたイケメン好きな母と二人できゃーきゃー騒いでいたものだ。
 佳代は郁乃の亡くなった母・早苗さなえの高校の先輩だ。年齢的には五十代半ばを過ぎているはずなのに、見た目だけで言えば三十代半ばにしか見えない。今年二十八歳の郁乃と姉妹に間違われることもあるくらいだ。
 常々、いい男を眺めて心をときめかせるのが若さの秘訣と言っているだけのことはある。
 しかし、正直郁乃はその手のことにほとんど興味がない。だから、佳代がイケメンを見つけたと騒ぐたび、またかと相槌あいづちが適当になってしまうのは仕方ないことだった。

「郁ちゃん! 聞いてる!?」
「ハイハイ。聞いてます! 一時間前でしょ? 里谷さとやのおばちゃんのとこにお花届けに行ってたから見てないわー」
「もう! 絶対に聞いてなかったでしょ!」

 適当に聞き流していたのがバレたのか、佳代が作業台にバンッと手を突いた。

「どうしてそんなに枯れちゃってるのよ! 郁ちゃんまだ二十八歳でしょ! これから花も実もなる年頃なのに、つぼみのまま枯れる気!?」

 ――そんなこと言われてもな……
 佳代ににらみつけられて、郁乃は首をすくめる。

「枯れているつもりはないけど、興味がないんだもん。佳代さんだって知ってるでしょ?」

 そろりと言い訳ともつかない反論をこころみる。けれど、それがよくなかったのだろう。佳代の目がくわっと大きく見開かれた。

「いつまでそんなことを言っているのよ! 私は郁ちゃんの将来が心配なのよ! このままじゃ、あなた、恋愛も結婚もしないおひとりさまで干物まっしぐらになりそうなんだもの! 絶対に子どもを産め! とまでは言わないけど、生涯をともに出来る人くらい見つけなさい!! 私は死んだ早苗にあなたの幸せを見届けるって誓ったのよ!!」
「干物って……」

 ――そんな大げさな……そこまでひどくないと思うんだけどなあー。
 郁乃は佳代に気付かれないように、ため息をつく。
 佳代の心配がまと外れなものではないという自覚は、一応ある。
 中西郁乃。今年二十八歳。年齢と同じだけ彼氏いない歴を更新中。だけど、恋愛もイケメンも興味は一切なし。ついでに言えば、ファッションやお洒落しゃれについても同様だ。
 肩先の長さの髪は、シュシュで適当に一つにまとめている。夏に日焼け止めを塗る以外は、ほぼノーメイク。仕事柄、服は動きやすいジーンズとシャツばかり。清潔感は保っているが、お洒落しゃれや可愛らしさとは無縁の格好だ。
 今の楽しみといえば、仕事帰りに居酒屋で夕食を兼ねての一杯だというのだから、女らしさの欠片かけらもないなと自分でも思う。
 佳代が郁乃を見て、干物と称するのも仕方ない状況だった。
 けれど、こうなったのには郁乃なりに言い分というか、言い訳はある。
 郁乃は四人姉弟きょうだいの長女として生まれた。下には二歳下の二卵性双生児の長男、次男、七歳下の三男がいる。商社マンだった父は、海外出張も多く忙しい人ではあったが、専業主婦の母を溺愛していた。
 家の中はいつも笑い声がえず、とてもにぎやかだった。
 そんな生活が一変したのは、郁乃が中学三年生のときだ。
 母が交通事故で亡くなった――
 最愛の人の死に、父は一時的に入院するほどの強いショックを受けた。退院後、父は、母のいない家に帰って来なかった。母の喪失から逃げるように、父は勝手に海外への単身赴任を決めてしまい、中西家には子どもたちだけが残された。
 郁乃は不在の父に代わって、やんちゃ盛りの弟三人の面倒を見なければならなくなった。
 母の死をきっかけに、三人の弟たちも変わってしまった。それぞれの理由で、非常に手がかかったのだ。
 長男・はじめは喧嘩三昧ざんまいの不良。次男・つむぐは優等生の引きこもり。三男・結人ゆいとは天才肌で、興味のあることに猪突猛進ちょとつもうしん、唐突に行方ゆくえ不明になる。次々に問題を引き起こす弟たちの世話に追われるうちに、郁乃の青春はあっという間に過ぎていった。
 その弟たちも、ここ三年の間に結婚や就職、進学でみんな家を出ていった。
 弟たちが自分の足で人生を歩き始めた途端、郁乃は安堵すると同時に気が抜けてしまった。
 友人や周りの人たちが、一人になった郁乃を心配してくれているのは知っている。

『せめて恋人を作れ! 合コンしよう!』
『見合いをしない?』

 折に触れては郁乃にそう声をかけてくる。
 しかし、やっと弟たちから手が離れたばかりなのだ。郁乃にしてみれば、ようやく得た一人の時間だった。
 周囲の助言も心配もわかるが、出来れば今は放っておいてほしいと思っている。
 最低限、自分のことだけをすればよく、好きなときに酒を飲める今の状況を干物と言うなら、それでもいいと郁乃は思う。

「今日という今日は郁ちゃんの将来について、じっくり、ゆっくりと話をしましょう!」

 イケメンの話から、何故か郁乃の将来の話にすり替わっている。こぶしを握って意気込む佳代に、今日はどうやってなだめようかと郁乃が思っていると、「ただいま」と店長の藤岡泰介たいすけが店に帰って来た。
 熊のように大柄で、強面こわもての店長の登場に、郁乃はホッとする。
 藤岡は、雇い主兼年上の幼馴染おさななじみだ。八歳年上で、中西家の事情もよく知っている。肇が一番荒れていた時期には、体を張っていさめてくれもした。郁乃にとって、頼りになる兄貴分だった。
 一八〇センチ以上の長身で、学生時代にラグビーできたえたがっしりとした体型。三白眼のせいで、初対面の人には目つきの悪い強面こわもてと思われがちだが、その性格はとても温厚だ。
 大学卒業後は地元で三代続いた花屋を継いだ。そのいかつい見た目に反して、繊細せんさいで美しいフラワーアレンジメントを作り出す彼には、大手ホテルのロビーの装花やテレビ局のスタジオ装飾などの依頼も多い。本人は職人気質で、メディアなどで大きく取り上げられることを嫌がっているが、いくつかの有名なコンテストで優勝や入賞の経歴を持つ、新進気鋭のフラワーコーディネーターだった。

たい兄! おかえりなさい!」
「おう! 郁乃! 店番、すまなかったな! レジを締めたら上がっていいぞ!」

 郁乃の呼びかけに、藤岡が目元をゆるめる。途端にそのいかつい顔が優しくなった。だが、佳代を見た途端、その表情がわずかに曇った。

「佳代さん? 今朝の花に何か問題でもあったのか?」

 藤岡の問いかけに、佳代は「違う! 違う!」と顔の前で手を振った。

「泰介君! おかえり! お義父とうさんの月命日のお花を買い忘れていたのよ」

 郁乃が、手にした菊と佳代の顔を見比べて、藤岡が納得したように頷いた。

「はい! 佳代さん! お待たせしました!」

 藤岡の登場で話題がれたことをこれ幸いと、郁乃は佳代の手に菊を押し付ける。

「あ、郁ちゃん! 話はまだ終わってないわよ!」
「その話は今度、改めて聞くよ! うちも店じまいだし、佳代さんのところもでしょう? 登さんが待ってるよ!」

 作業台から離れた郁乃は佳代の背中を押して、店の外にうながす。
 郁乃の言葉に閉店時間を思い出した佳代が、「もう!」と唇をとがらせる。

「今日のところは帰るけど、次こそ絶対にちゃんと話を聞いてよ!!」
「はい、はーい! わかったから! 佳代さんの気持ちはありがたいと思ってるよ!」

 ぷりぷりと怒った様子で、彼女は向かいの自分の店に戻っていった。
 その姿を見て、やれやれと安堵の息を吐く。花屋の店内に戻ると、二人のやり取りを見守っていた藤岡が苦笑していた。

「お前も苦労するな、郁乃」

 藤岡の言葉に、郁乃は軽く肩をすくめてみせた。
 中途半端になっていた閉店準備を続けるためにレジに歩み寄ると、藤岡の大きな手が伸びてくる。ぽんぽんといたわるように優しく頭に手を置かれて、郁乃の体からふっと力が抜けるのを感じた。
 それで、自分が佳代とのやり取りに、案外ストレスを感じていたことに気付かされる。
 別に恋愛をしないと決めているわけではないし、結婚したくないとも思ってない。
 でも、今はまだ、もう少しだけ自由でいたいのだ。
 ――それはわがままなことなのかな?
 考えが顔に出ていたのか、藤岡が郁乃の前髪をやや乱暴な仕草で乱す。

「佳代さんもお前のことが心配で仕方ないんだよ。あんまり邪険にしてやるな」

 幼馴染おさななじみの諭すような声音こわねに、郁乃は思わず視線を落とした。

「わかってる」

 こぼれた呟きは、どこかねているように響いて、郁乃は落ち込みそうになる。

「それならいい。レジを締めたら今日はもう上がっていいぞ。明日はいつも通りに頼む」
「はい」

 藤岡がもう一度、郁乃の前髪を乱して、事務所に入っていった。
 藤岡の大きな背中を見送りながら、郁乃は乱れた前髪を直す。
 最近、周りが色々とお見合いや合コンを勧めてくるせいか、神経が過敏になっているらしい。
 ――干物は干物で今の生活に満足しているんだけどなー。
 郁乃は一つ大きなため息を吐く。
 ――よし! 今日は帰りに、大吉だいきち出汁だしまきたまごでも食べよう!
 ここ数年、すっかり行きつけになっている居酒屋の大好きなメニューを思い浮かべて、郁乃は気持ちを切り替える。
 それが自分の人生を一変させることになるとは、このときの郁乃はまだ知らなかった――


「じゃあ、泰兄! 上がるねー!」

 帰り支度を済ませた郁乃は、事務所で帳簿を付けている藤岡に声をかけた。
 パソコンに向かっていた藤岡が、郁乃を振り返る。

「ああ、お疲れ。気を付けて帰れよ」
「うん」
「大吉に寄って行くのか? あんまり飲み過ぎるなよ?」

 過保護な幼馴染おさななじみの言葉に、郁乃は首をすくめる。すっかりこのあとの行動を見透みすかされている。

「はーい。気を付ける。じゃあ、お先に!」

 手をひらひらと振る郁乃に、藤岡が呆れたように笑った。
 郁乃の心がもうすでに、今晩の夕食メニューに飛んでいることに気付いているのだろう。


 空に星がまたたいているのを見て、郁乃は大きく息を吸い込む。春の暖かい空気が肺を満たした。心がうきうきと弾みだす。
 仕事終わりに好きな酒と美味おいしいご飯を食べることの至福。
 自分でも単純だと思うが、今日は何を食べようかと考えるだけで、疲れた心や体が軽くなった気がした。

「お、郁ちゃん! 上がりか? これから大吉か? 俺もあとで顔出すってマスターに言っておいてくれ!」
「わかった!」
「郁乃ちゃん! お疲れー。あんまり遅くまで飲んじゃだめよ!」
「はーい! 気を付ける!」

 郁乃たちが暮らす町は、百メートルも歩けば知り合いが声をかけてくるような下町だ。
 商店街の端にある居酒屋『大吉』に向かう間に、次々と顔見知りの店主や従業員たちが声をかけてきた。それらに笑顔で返事をする。
 幼い頃からこの商店街に出入りしているせいか、皆が家族のように郁乃のことを見守ってくれていた。
 いいことも悪いことも、三日もすれば近所の皆が知っている。そんな下町ならではの交流を、鬱陶うっとうしくも愛おしく思いながら郁乃は育った。
 独り暮らしといっても、郁乃の生活はなかなかににぎやかで、寂しいと思う暇もないというのが実状だった。
 近所の顔見知りに声をかけられながら道を進むこと五分。郁乃は目的地に辿たどり着く。
 居酒屋『大吉』。
 暖簾のれんあか提灯ちょうちんがぶら下がる古めかしい店構えは、常連以外はお断りといった雰囲気をかもし出しているが、郁乃は躊躇ためらいなく暖簾のれんをくぐる。
 がらりと引き戸を開ければ、「らっしゃい!」と威勢のいい声に出迎えられた。
 店の中に一歩足を踏み入れた郁乃は、何となく違和感を覚える。
 ――ん? 何か変?
 カウンター十席、小上がりに四席のさして広くない店内は、常連客でほぼ埋まっている。いつも通りの光景のはずなのに、浮ついているというか、落ち着きがないというか、店の空気が違うように感じた。
 顔見知りの常連たちが郁乃に気付いて、顔や手を上げて合図をくれる。だが、その顔には何故か戸惑いが浮かんでいた。そうして彼らは、居心地が悪そうにある一点を目で示す。
 ――ん? 何?
 郁乃がその視線の先を追おうとした瞬間、「郁乃! いつまでそんな所にぼさっと立ってるんだ! 邪魔だからさっさと中に入れ!」と大将に怒られた。
 カウンターの内側で料理をしている大将の大吉は、今年喜寿きじゅを迎えたはずだが、いつ来ても矍鑠かくしゃくとしている。
 郁乃は慌てていていたカウンターの片隅に座る。

「郁乃ちゃん。いらっしゃい。今日は何にする?」

 すぐに女将おかみ希子きこさんが、ニコニコと笑いながら温かいおしぼりを開いて差し出してくれた。
 綺麗な銀髪を上品に結い上げ、縦縞の着物に割烹着かっぽうぎ姿の希子は、佳代の母親だけあって、年齢を感じさせない美しさがあった。
 郁乃はおしぼりを受け取って、手をきながら今日のメニューに目を走らせる。

「うーんと、今日は出汁だしまきたまごと、たこと大根の煮物、アスパラの肉巻き、お新香三種盛! あとお酒はいつもので!」

 メニューを眺めて、今日の夕飯と、好きな日本酒を注文する。

「はいよ。出汁だしまきはちょっと時間かかるよ?」
「うん。わかってる」
「お酒は熱燗あつかん? 冷? どうするの?」
「ぬるかんにできる?」
「できるよ。とりあえず、これでも食べてちょっと待っててちょうだい」

 ニッコリと微笑んだ希子が、先付けの小鉢と割りばしを渡してくれた。
 先付けは希子ご自慢の揚げ出し豆腐だった。素揚げした茄子なすと豆腐に、熱々のかつお出汁だしがかけられている。小ねぎが散らされた小鉢は、とてもいい匂いがして、食欲をそそった。
 揚げ出し豆腐にはしを入れると、さくりと音がした。口に入れると薄い皮にあつあつの出汁だしが染みていて、豆腐はほろりと柔らかに溶けた。

「ん――」

 ――美味おいしい!!
 思わず顔がほころんだ。満面の笑みを浮かべて、揚げ出し豆腐を食べる郁乃を見やって、希子と大吉も表情をやわらげる。

「はい。お待たせ。たこと大根の煮物に、お新香の三種盛ね。ぬるかん一丁!」
「わー! 今日も美味おいしそう!!」

 手渡された料理を見下ろして、郁乃の唇から歓声が上がる。
 あめ色に輝く大根と赤く色づくたこは、ショウガのいい匂いと相まって、見ているだけで唾液が出てきた。
 白菜とキュウリと茄子なすのお新香三種盛はつやつやとして、輪切りにされた唐辛子が色味を添えている。それに合わせて大好きな日本酒がやって来たのだ。
 ――ああ、もう本当に幸せ!!
 仕事終わりのこの時間が、郁乃にとって至福だった。
 美味おいしい料理と酒があれば、大概のことはどうでもよくなる。

「郁乃ちゃんは本当に美味おいしそうに食べてくれるから、作りがいがあるわー」

 にこにことまるで孫でも見るような眼差まなざしで、希子は郁乃を見守る。
 目の前の料理に夢中な郁乃は、店に入ったときに感じた違和感について綺麗さっぱり忘れていた。

「大吉でご飯食べているときが、一日の中で一番幸せ!」
「郁乃ちゃんにそう言ってもらえているうちは、頑張らないとね」

 お猪口ちょこに日本酒をぎながら、希子が嬉し気に笑う。

女将おかみさん! 追加お願い!」

 背後の小上がりの席の客から希子にお呼びがかかる。

「はーい! 今行きますよ! じゃあ、郁乃ちゃん、追加があれば声をかけてちょうだい」
「うん。わかった」

 希子が離れて一人になった郁乃は、「いただきます!」と改めて手を合わせて、たこと大根の煮物にはしを伸ばす。
 たこははしで裂けるほど柔らかかった。口に入れた瞬間、砂糖と醤油、ショウガのピリッとした甘じょっぱい風味が広がる。
 あまりの美味おいしさに感嘆の吐息しか出てこなかった。
 お猪口ちょこに手を伸ばすと、温められた吟醸酒の甘い香りがほのかに香る。
 一口含むと、さっぱりとした吟醸酒ならではの酸味が口の中に広がり、そのあとに癖のない甘味が残る。派手さはないが、優しい味に疲れた体と心がいやされた。
 もう郁乃の頬はだらしないほどにゆるみっぱなしになる。
 ほくほくの大根、酒、たこと順番に口に運んでいた郁乃は、ふとはしを止めた。
 ――ん? 何か視線を感じる。
 大好きな料理と酒を堪能たんのうしていた郁乃は、背後から自分に強烈な視線が向けられているのに気付いた。
 顔見知りの常連客だろうかと、深く考えず後ろを振り返る。
 視線の主は、店の一番奥の小上がりの席に座っていた。
 自分を凝視する男と目が合った瞬間、郁乃は呆気に取られて、手にしていたはしを取り落としそうになる。それくらい、男は大吉の中で異彩を放っていた。
 長い手足に、完璧な八頭身。座っていても男のスタイルがとても良いことがわかる。
 Tシャツにジーンズというラフな格好なのに、男の場違いなまでの美貌が、この下町の居酒屋で浮き上がって見えた。
 何故今まで、自分はこの強烈な男に気付かなかったのか、不思議で仕方ない。
 年の頃は二十代の半ば。左右対称の絶妙なバランスで配置された顔立ち。多分、異国の血が入っているのだろう。日本人にしては白い肌に、すっと通った鼻筋。軽くウェーブのかかった栗色の髪を、無造作に後ろへ撫でつけている。
 前髪の下からのぞく切れ長の瞳は、綺麗なはしばみ色だった。それは生命力にあふれた輝きを放って、男を魅力的な存在にしていた。
 その目が、何故かひたと自分にえられているのを見て、柄にもなくどきりとする。
 からんだ視線が外せない。まるで男の眼差まなざしに呪縛されたように、郁乃は動けなかった。
 今さら顔をそむけるのも不自然すぎて、どうすればいいのかわからない。
 けれど、次の瞬間、男の表情がふわりとほころんだ。
 それまで、人を寄せ付けないような冷たさをただよわせていたのに、表情がやわらいだ途端に、雰囲気が一変する。
 目じりに笑いじわが出来て、人なつっこい柔らかさが生まれた。
 途端に郁乃の緊張が解けた。無意識に詰めていた息をそっと吐き出す。
 そのとき、何故か郁乃は、男の笑顔に既視感を覚えて戸惑う。


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