結婚詐欺じゃありません!

桜 朱理

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1巻

1-2

 ――え? どこかで会ったことある? って、そんなことあるわけないじゃない! こんなイケメン、いくら私でもさすがに忘れるはずない!
 自分で自分に突っ込みを入れる。だが――

「郁乃」

 男は、はっきりと郁乃の名前を呼んだ。
 驚きに郁乃は目をみはった。
 そのまま男は自分の酒と料理を手に持って立ち上がると、カウンターにやって来た。
 いていた郁乃の隣の席に皿を置いて座る。郁乃は男のその一連の行動を、ぽかんとして眺めていることしか出来なかった。
 間近で見ても、男の美しさは変わらなかった。女の郁乃から見ても、うらやましくなるほどきめのこまかい肌。驚くくらい長い睫毛まつげが、冷たく見える美貌に甘さを添えていた。
 郁乃と向かい合う形でカウンターに座った男は、はにかむように微笑んで、「久しぶり」と声をかけてきた。
 低くなめらかな声は耳に心地よく、いい男は声まで素敵なんだなと思った。

「今日、久しぶりに日本に帰国したんだけど、まさかこんなにすぐ郁乃と会えるなんて思わなかった」

 一瞬、新手のナンパかとも思ったが、人違いでもなんでもなく、確信を持って話しかけてくる男に郁乃は混乱する。
 ――待って! 本当にちょっと待って! いつ、どこで会った!? 全く覚えてないんだけど!!
 自分のポンコツすぎる脳みそに、内心でだらだらと冷や汗をかく。

「郁乃? どうかした?」

 無言で固まる郁乃を男が心配そうにのぞき込んでくる。近くなった距離に、鼓動が跳ねた。

「えーと。あの……」
「何?」

 とりあえず口を開いてみるものの、何をどう問えばいいのかわからない。
 ――私たちどういう知り合いですか?
 親しみを込めて微笑んでくれる男に、そんなことを聞く勇気はない。

「おお? 何だ? その別嬪べっぴんな兄ちゃんは郁乃の知り合いだったのか?」

 二人の様子を見守っていた顔見知りの一人が声をかけてきた。

「郁乃も隅に置けないねー。花屋とこんな色男の二人を手玉にとろうっていうのか?」

 一人が声をかけてきたのをきっかけに、周囲の顔馴染なじみたちが次々と揶揄からかってきたので郁乃の焦りはつのる。

「おい! 誰か今すぐフラワー藤岡まで走って、泰介呼んで来い! 郁乃が浮気しているって教えてやれ!」
「おお! そうだな! おい誰か!!」
「ちょっと! やめてよ! この人とは今日初めて会ったの!! そして、泰兄とはそんな関係じゃないっつーの!! 何回言えばわかるのよ!!」

 やいのやいのと飛び始めた野次やじに、郁乃は立ち上がって、周囲にいるおっさんたちを大きな声でたしなめた。
 ここの常連たちは、暴走して何をするかわかったもんじゃない。本当に藤岡を呼びに走り出しそうだ。
 彼らは、勝手に郁乃と藤岡をくっつける会を結成していた。いくら二人がその気はないと言っても聞こうとしない。
 佳代とは別の意味で厄介な連中に、郁乃は頭をかかえたくなる。

「初めて会った?」

 郁乃と常連客たちがポンポンと言い合いをしている横で、男がぼそりと呟いた。
 その声に、郁乃はハッとして振り返る。
 いつの間にか、男の表情から笑みが消えていた。真顔になった男は、器用に右の眉だけを上げて郁乃を見ている。
 顔が端整なだけに、表情が消えるとそれだけで迫力があった。
 周囲の温度が二、三度下がったような気がする。それまで騒がしかった客たちも、男のまとう冷たい空気に気付いて、口を閉じた。

「覚えてないんだ? 俺のこと?」

 声は穏やかなのに、剣呑けんのん眼差まなざしで問われて、郁乃は覚悟を決める。

「ごめんなさい。失礼だけど、私たちどこかで会ったことあるのかな? 君のこと思い出せないの」
「ふーん。そうか。覚えてないんだ。俺のこと」

 郁乃の答えを確認した男はにこりと微笑んだ。その笑みは最初に郁乃へ話しかけてきたときとは全く違う、ひどく冷たいものだった。
 男は、郁乃をはやし立てていた常連たちに視線を向けた。

「ねえ? さっきから名前が出てくる藤岡って誰? 教えてくれない?」

 にっこりと威圧感のある微笑みを向けられて、常連たちは全員ごくりと息を呑み込んだ。
 蛇ににらまれたかえるのように固まり、互いに顔色をうかがう。
 しかし、いつまでも黙っていることも出来ず、一人が意を決した様子で口を開いた。

「藤岡っていうのは郁乃の幼馴染おさななじみで、この商店街で花屋をやってる男だ。郁乃の雇い主でもある」
「ありがとう。もう一つ質問なんだけど、その藤岡っていう人、カッコいい?」
「いや、兄ちゃんに比べたら普通だ。むしろあいつは熊だな。昔ラグビーの選手だったから、体はがっちりしているし、髭面ひげづらだし。ただ、性格はものすごくいい」

 男は常連の答えに面白くなさそうに相槌あいづちを打つと、ちらりと郁乃に視線を向けた。

「ふーん。そう。で、その人は郁乃の恋人なの?」
「郁乃は否定するけどな! 俺たち皆は、郁乃と藤岡の坊がくっつけばいいと思ってるんだよ! 幼馴染おさななじみで気心も知れてる。花屋を一緒にやってる姿はどう見ても熟年夫婦だしな!」
「そうそう! 時々、目だけで会話してるし、ツーカーの仲だ!」

 常連たちが再び勢いづく。しかし、同時に隣に座る男の空気がどんどん冷えていくのを郁乃は肌で感じていた。思わず自分の腕を擦る。

「ふーん。そういう相手がいながら、郁乃は俺をもてあそんだんだ」
「はぁ? もてあそんだ!?」

 男の突拍子とっぴょうしもない言葉に郁乃は驚愕きょうがくする。それは郁乃だけではなかった。周りも唖然とする。

「へ? 郁乃がもてあそんだ?」
「この別嬪べっぴんな兄ちゃんを?」
「ちょっと待って!! もてあそんだって何よそれ? 私が君を? 一体何の冗談よ?」

 焦った郁乃は男に抗議する。
 ――いくらなんでもそれはない! 逆はあり得るかもしれないが!!

「冗談なんかじゃない」

 しかし、男は淡々とした様子で、郁乃の言葉を切って捨てた。

「そんなの誤解よ!!」
「何が誤解? だって、郁乃は俺のことを覚えてないんだろう? 何がどう誤解なのか説明できるの?」
「そ、そうだけど! でも!!」

 改めて確認されてしまえば、記憶がない郁乃には不利だった。反論する勢いがそがれる。口ごもる郁乃に、男の瞳がすがめられた。

「郁乃は俺の純情をもてあそんで、ヤリ捨てたんだろう?」
「ヤ、ヤリ捨てって……っ」

 告げられた言葉に、頭が真っ白になる。口をパクパクと動かして、郁乃は声を失った。

「郁乃お前……」
「こんな別嬪べっぴんな兄さんをもてあそんだのか?」
「やるなー」

 二人のやり取りを固唾かたずを呑んで見守っていた周囲の常連たちの、郁乃を見る目が変わっている。

「だから違うって!!」
「何が? どう違うわけ? 郁乃は俺の言葉が嘘とは証明できないんだろう?」
「そうだけどっ」

 焦って否定する郁乃を眺めて、にやりと笑った男が、カウンターに片肘をつく。その様子に、郁乃は寒気を感じた。
 ――何かすごい嫌な予感がする!!

「俺は証明できるよ? 郁乃が俺をもてあそんだ証拠もあるしね?」
「しょ、証拠って何よ?」

 自信満々な男の態度に、郁乃はひるむ。背中を冷たい汗が滑り落ちた。

「んー? 見せてもいいけど? 郁乃はどうするの?」
「どうするって?」
「俺が郁乃にもてあそばれたって証明できた場合、ちゃんと責任取ってくれるの?」

 あでやかな流し目に、郁乃はごくりと息を呑む。胸が妙に騒いで仕方ない。

「責任って……」

 先ほどから男の雰囲気に圧倒されて、郁乃は男の言葉をオウム返しのように繰り返してしまう。

「そう。ちゃんと責任取ってくれよな? 俺はそれだけのことを郁乃にされたんだから」

 ゆったりとした動きで、男はジーンズのポケットから財布を取り出した。それを開いて中から折りたたんだ紙を引っ張り出す。
 長いこと財布に入っていたのか、その紙は随分くたびれてよれよれになっていた。
 男は宝物を扱うような手つきで、そっとその紙を開く。郁乃は、固唾かたずを呑んで男の動向をうかがった。
 それは周囲も同様で、気付けば騒がしかった店内がしーんと静まり返っている。いつもは忙しく料理をしている大吉までその手を止め、女将おかみの希子もそれをたしなめなかった。
 開いた紙を見て、男の目元が柔らかくゆるんだ。なつかしそうに、愛おしいものを見るみたいに表情がやわらぐ。
 ――あれ?
 そんな男の表情を眺める郁乃の記憶に、何かがかすめた。

『そんな素敵な夢があるなら追いかければいいじゃない。君なら掴めそうだよ。誰が反対しても私は応援する! 保証が欲しいっていうなら、その紙にサインしてあげる』

 多分、どこかの店。淡い色をした間接照明に照らされていた場所。とてもいい気分で酔っ払った自分は、そこで誰かをはげました気がした。
 この記憶が何なのか。郁乃にはわからなかった。
 夢と言われれば夢のような気もする、あやふやで曖昧あいまいな記憶。
 ――何? 何だっけ? これ?
 掴めそうで、掴めない。もどかしさに郁乃の眉間にしわが寄った。
 もう少しでその記憶を掴めそうだと郁乃が思ったとき、静かに男が立ち上がった。
 男は背だけでいえば一八〇センチ以上ある藤岡よりも高いかもしれない。隣に立つ男を見上げながら郁乃はそんな場違いなことを考えていた。

「これが、俺が郁乃にもてあそばれた証拠だよ!」

 一言一言歯切れよくそう言うと、男は勢いよく郁乃の眼前に証拠だという紙を突き付ける。

「ふぇ……?」

 焦点が合わないほど近くに押し付けられたものに、郁乃の唇から間抜けな声がこぼれた。
 視界がふさがれてはっきりと見えない。首をらせると、なんとなくピンクの枠線が引かれた書類だというのが見て取れた。
 ――……ん?
 郁乃は眼前の書類に、じっと目をらした。
 紙の正体がわかった瞬間、郁乃は驚愕きょうがくする。

「……はぁあ? 婚姻届!? ってこれ何!?」

 絶叫した郁乃の言葉に、周囲がどよめいた。
 凶器にもなるという噂の、某結婚情報雑誌の人気付録であるピンクの婚姻届。そこには、見慣れた自分の字で署名がされていた。ご丁寧に実印も押されている。
 ――何これ? 何これ――!!
 郁乃の反応に満足したのか、男は勝ち誇ったように胸を張る。
 郁乃は訳のわからない不安と恐怖にパニックにおちいった。

「これが何かわかったか?」

 郁乃は頷くことしかできなかった。
 何故こんなものが男の手にあるのかさっぱりわからない。
 郁乃には全く身に覚えがなかった。
 頭の中が真っ白で、思考が空転する。もう何が何だかわからなかった。
 ――待って。本当に待って!! これどういうこと? 何で私、婚姻届なんかにサインしてるの!?
 混乱する郁乃を見下ろして、男はすっと息を吸い込んだ。
 そうして、店中に響き渡る声で宣言した。

「結婚詐欺さぎで訴えられたくなかったら、責任を取ってもらおうか?」

 再びずいっと男が郁乃に婚姻届を突き付けて、迫ってくる。
 ――こんなの責任なんて取れるわけないじゃない!!
 全く身に覚えのない婚姻届を目の前に、結婚詐欺さぎで訴えられそうという訳のわからない人生のピンチに、郁乃は頭をかかえたくなった。



   2 どうしてこうなった?


 ――と、とりあえず落ち着こう。
 郁乃は深く息を吸って、吐き出した。相変わらず頭の中は真っ白。この異常事態にどう対応するべきかさっぱりわからない。わからないが、このままではまずいことだけは理解していた。

「あぁー、こりゃ間違いなく郁乃の字だな」

 そう言ったのは先ほど、男ににらまれてびくびくしていた常連のうちの一人だった。郁乃が子どもの頃から大学を卒業するまで通っていた、書道教室の先生だ。
 いつの間にかみんな郁乃の真後ろに立って、問題の婚姻届をじっくりと見ている。

「この実印は大吉の大将に頼まれて、俺が郁乃の成人の祝いに彫ってやったやつだな」

 角のハンコ屋の店長が老眼鏡をずり下げながら確認する。
 ――うん。やっぱりそうだよね……
 この印鑑は、店長が郁乃のために腕によりをかけて手彫りしてくれた一品だ。たとえ苗字が変わっても使えるようにと、名前で彫ってくれたものだった。
 店長は一度自分で彫った印鑑を忘れないという特技を持っている。
 郁乃とハンコ屋の店長がこの実印を見間違えるはずはなかったし、貰ってから一度もなくしたこともない。
 そう考えるとこの婚姻届は、まず間違いなく郁乃が書いたものということになる。
 ――本当に何なのこれ? 夢ならさっさと覚めて!!
 そう思うが、どうやらこれは夢でも何でもないらしい。
 もう一度、婚姻届に視線を走らせる。妻となる人の欄には郁乃の名前、生年月日、住所、本籍、両親の名前まで丁寧に書き込まれていた。
 ――眩暈めまいがしてきた。

「郁乃、お前……やるなー。こんな別嬪べっぴんな兄ちゃんもてあそんだ挙句、ポイ捨てか!」

 婚姻届をのぞいていたうちの一人が感心したように呟いた。振り返れば、フラワー藤岡の三軒隣の魚屋の店主だった。
 この発言をきっかけに、周囲も好き勝手にさえずり始める。

「郁乃にそんな芸当が出来るなんて意外だなー」
「人は見かけによらないってか」
「郁乃があの兄ちゃんをポイ捨て……」
「だから、ポイ捨てなんてしてない!!」

 人聞きの悪い言葉に咄嗟とっさに叫び返す。

「ふーん。そう。ならもちろん責任取ってくれるんだよな?」

 郁乃の言葉に、目の前の美貌の男が器用に片眉を上げてみせる。その瞳に面白がるような光がまたたいた。

「う……それは!」

 男の言葉に郁乃はたじろぐ。
 ――この場合、責任を取るっていうのは、やっぱり結婚するの? 私が、この目の前の自分よりも明らかに美人な男と?

「ありえないわー無理! 本当に無理!! 絶対に無理!!」

 思わず本音がこぼれ落ちた。

「どういう意味だよ?」

 郁乃の言葉に男の表情が険しくなる。

「今、自分でも認めただろう? この婚姻届は、郁乃本人が書いたものだって」
「うっ……」
「なのに、ありえないなんてよく言えるな? それともやっぱり俺のことは遊びで、もてあそんだ挙句ヤリ捨てか?」

 大天使もかくやという品のある美貌の唇から、次々と飛び出すどぎつい言葉に、郁乃は顔をしかめる。

「ちょっと! もう少し言葉を選びなさいよ。人聞きが悪い!」

 言い返した郁乃を眺めて、男が面白がるように笑った。そして、ずいっとその美貌を寄せてくる。

「俺は本当のことを言ってるだけだが?」
「そんなこと言ったって!! 私は君のことを覚えてないし、こんな婚姻届も知らないわよ!」
「だから? 責任は取らないとでも言うつもりか?」
「そ、そんなこと言ってないけど!」
「じゃあどうするんだよ?」
「うっ……」

 堂々めぐりのやり取りに頭が痛くなってくる。男の手に郁乃が署名した婚姻届があるだけに、非常に不利な状況だった。
 ――あぁ、もう本当にどうすればいいのよこれ?

「郁乃ちゃん? 大丈夫? 泰ちゃん呼ぼうか?」

 頭をかかえる郁乃に、希子が心配そうに声をかけてくる。カウンターの方を見やれば、希子が店の電話に手をかけていた。それを見て、郁乃は少しだけ冷静さを取り戻す。
 ――こんなことに泰兄を巻き込めないわ。

「大丈夫。希子さん。泰兄には電話しないで」
「そう?」

 気遣う希子に、郁乃は無理やり笑ってみせた。

「郁乃」

 それまで黙ってことの推移を見守っていた大吉が、不意に低い声で郁乃の名前を呼んだ。

「はい!」

 大吉にぎろりとにらまれて、郁乃の背筋が反射的に伸びる。

「いつまでうだうだやってる? お前のせいで、さっきから誰も俺の料理に手を付けてない。せっかくの料理が冷めちまってる。いい加減腹を決めろや!」
「ちょっと、お父さん!」
「お前がこの兄ちゃんを叩き出せっていうなら手を貸してやる。うちの可愛い常連客をたぶらかそうとしてる奴なんざ、この包丁で三枚に下ろしてやるから安心しろ! わかったらどうしたいのか、ちゃんと考えろ! お前らもいつまでも騒いでないで、俺の料理を食え!」

 この店の絶対権力者である大吉の言葉に、それまで騒々しかった客たちが静かになった。
 束の間、店の中がシーンとなる中、希子が「あらあら、まぁまぁ」と目元をやわらげる。

「だそうよ。郁乃ちゃん。まずは、ちょっと落ち着いたらいいわ。あなたがどんな答えを出しても、この頑固おやじはあなたの味方みたいよ?」

 優しく微笑みかける希子に、郁乃の肩から力が抜けた。それを確認した希子は、男に視線を向ける。

「何があったかは知らないけど、お兄さんもあんまり郁乃ちゃんをいじめないであげてくれるかしら? 好きな子に意地悪したくなる気持ちはわかるけど、やりすぎるとうちの旦那に三枚に下ろされちゃうわよ?」
「……みたいですね」

 茶目っ気たっぷりにそう言った希子に、男はちらりと大吉の方に視線を向けて肩をすくめた。
 大吉は無言で包丁をいでいた。

「ふふふ。うちの人、郁乃ちゃんが可愛くて仕方ないのよ。さぁさぁ! 皆もいい加減、自分の席に戻ってちょうだい。じゃないとまたうちの人の雷が落ちますよ?」

 希子の呼びかけに常連たちも顔を見合わせて、自分の席に戻っていった。大吉の逆鱗げきりんに触れれば、常連だろうが、やくざだろうが、包丁片手に外に叩き出される。その恐ろしさを皆理解していた。

「とりあえず座らない?」

 いつまでも立っていたら、また大吉に怒られる。郁乃はおずおずと目の前のイケメンに声をかけてみた。

「ああ」

 存外素直に男は同意して、郁乃の隣の席に座った。
 ――ちょっと意外。

「郁乃は座らないのか?」
「あ、いや、うん。座る」

 慌てて郁乃も椅子を引いて、席に着いた。

「えっと、あの、ごめんなさい」

 何を話せばいいのかわらず、とりあえず郁乃は彼に謝った。

「それは何の謝罪?」
「君を覚えてないことに対する謝罪?」
「ふーん」

 男は郁乃から視線をらし、カウンターに放置したままだったグラスを手にした。
 今までの騒動ですっかり泡が消えて、ぬるくなったビールを一気にあおる。
 トンッと軽い音を立ててグラスが置かれ、男の深いため息が聞こえた。
 その間、郁乃はただ黙って、男の行動を見ていた。
 ――う……どうしよう?
 気まずさに落ち着かなくなった郁乃は、椅子に座り直す。それを横目に見ていた男が口を開いた。

「本当に何も覚えてないんだ俺のこと?」

 ここで誤魔化しても仕方ないと、郁乃は正直に頷く。

「うん。ごめんなさい。君のことは……」
「君じゃない」
「え?」

 ぶっきらぼうに言葉をさえぎられて、郁乃は戸惑う。

「俺の名前は志貴しきだ。千田せんだ志貴。ここにそう書いてあるだろ」

 男――志貴は、婚姻届の夫になる人の欄を人差し指でとんとんと叩いた。郁乃の視線が、二人の丁度ちょうど真ん中に置かれた婚姻届に向けられる。
 彼の生年月日を見る限り、志貴は郁乃よりも三歳ほど年下らしい。
 外見だけ見たら同年か年上かと思っていただけに、年下だったことが少し意外だった。
 改めて婚姻届に書き込まれた『千田志貴』という名を見て、郁乃の記憶がかすかにうずいた。
 ――あれ? 私、この名前知ってる。どこかで見たことある……? どこで見たんだっけ?

とうとこころざしかー、いい名前だね。その名前のまま自分のこころざしを貫けばいいじゃない』

 遠い記憶の彼方かなたで、郁乃は確かに誰かにそう言った。
 ――あれ? やっぱり私、この子と会ったことある?

「んん?」
「どうかしたの?」

 思い出せずに顔をしかめてうなる郁乃に、志貴が不審そうに声をかけてきた。
 もう少しで思い出せそうだった記憶が、また遠ざかっていく。

「いや、私、君の名前を知ってるみたい?」

 首をかしげてそう言えば、志貴が呆れたように鼻を鳴らした。

「そりゃ知ってるだろ。これを書いたのは郁乃だし、俺たちは一応、婚約者だ」

 志貴に言い切られて、郁乃の眉が情けない形に寄る。
 ――そうなんだけど、そうじゃなくて……
 悩む郁乃に、志貴がこれ見よがしにため息を吐き出した。

「何か思い出したのか?」
「う……いや、何かかすった気がしたの。もしかして、私、とうとこころざしっていい名前だねって言った?」

 郁乃の言葉に、志貴の瞳がきらりと光った。眼差まなざしに期待が宿って、郁乃は自分の記憶が間違ってないことを知る。
 ――てことは、間違いなくこれを書いたのは私か?

「嘘でしょー」

 カウンターに両肘をついて、頭をかかえた。
 ――私は、一体何を考えてこんなものにサインをしたんだ!? 馬鹿なの!? 馬鹿だよね?
 過去の自分を問い詰めたい気分におちいったが、そんなことできるわけもない。

「こんなことで俺が嘘ついて、何か得になるか?」

 呆れながら問われて郁乃は考え込む。
 ――確かに、志貴君が私をだまして得することなんてなさそうだよね。こんなイケメンなら女子が放っておかないだろうし。一応うちには財産って呼べるものもあるけど、あれ私関係ないし。家は、お父さんの名義だしなー。なのに、私と結婚したいって奇特すぎるよねー。
 自慢じゃないが、郁乃は周囲も太鼓判たいこばんを押す干物女だ。こんなイケメンに求婚されるようなものは何も持ってない。
 考えれば考えるほど、この事態が現実に思えず、郁乃は自分の頬をつねってみた。


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