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1巻
1-3
「痛い」
「これが現実だって理解できたか?」
「これが夢じゃないっていうのはわかった」
「そうかよ。よかったな。それで?」
「それで?」
冷たい声で問われて、郁乃はカウンターから顔を上げた。冷めた顔をした男と目が合う。
「郁乃はこれの責任をどうやって取るつもりなんだ? 俺、さっき言ったよな? 結婚詐欺で訴えられたくなかったら、責任取れって。忘れたとは言わせない。さすがについさっきの出来事まで忘れるほど耄碌してないよな?」
冷たい眼差しとともに淡々と畳みかけられるが、郁乃に答える言葉はない。
「いや、だって……」
「だって、何だよ?」
「志貴君はさ……本当に私と結婚したいわけ?」
思い切って問いかけてみれば、不機嫌そうな顔で凄まれた。
慌てて郁乃は、両手を体の前で振って、自分の話を聞いてくれと懇願する。
「いや、自分で言うのもなんだけど、私こんなんだよ? 君みたいなイケメンと結婚とかありえなくない? さすがに現実が受け入れられないんだけど……」
「そんなの俺が知るかよ! 婚約者に綺麗さっぱり自分のことを忘れられてるとか、想定外すぎて俺の方が現実受け止めきれねーよ!!」
「ですよねー」
郁乃の反論にそれ以上の熱意を持って言い返されて、思わず同意してしまった。
自分の身に置き換えてみる。婚約者だと思っていた人間に、存在ごと忘れられていたら、そりゃびっくりだろう。
「責任は絶対に取ってもらう。じゃなきゃ結婚詐欺で訴える」
断固とした決意を滲ませて、志貴はそう言い切った。
「ううーでも、結婚とか、本当に無理!」
「何が無理なんだよ?」
「だって、普通に考えてよ? 私、君のこと何にも知らないんだけど? 君だって私のことたいして知らないでしょ? それで結婚とかありえなくない?」
志貴との間に何があったのかほとんど思い出せないが、多分、二人が過ごした時間はそれほど長くないはずだ。
それで結婚なんて出来るわけがない。結婚は勢いだとよく聞くが、それとこれとは違うだろうと郁乃は思った。
「わかった」
郁乃の主張に、志貴が頷く。やっと話が通じたとホッとした郁乃だが、安心するのはまだ早かったようだ。
「じゃあ、これから知り合えばいいんだろう。俺は、今日から一週間オフをもらってる。その間、郁乃の家に泊めてくれ。帰国したばかりで、まだホテルも決めてなかったからちょうどいいだろう」
「はぁ?」
突拍子もない志貴の提案に、郁乃は開いた口が塞がらなくなる。
「何を言ってるの!?」
「別に問題はないだろ」
「問題なら大ありでしょ!」
「どこに問題がある?」
「君と私は今日、会ったばっかりなんだよ! そんな人、一週間もうちに泊められるわけないでしょ!?」
「今さらだろ。一晩一緒に過ごして、俺たちは結婚を決めたんだ。これくらい大した問題じゃない」
「んなわけあるかー!!」
郁乃の絶叫に、志貴は顔を顰めて、わざとらしく耳を押さえた。
「そんな大声出さなくても聞こえる。郁乃みたいにぼけてない」
「私だってぼけてないわよ!!」
「どうだか? この婚姻届の存在自体忘れた奴の言葉は信用できない」
「う……」
それを言われると郁乃の反論の勢いが弱くなる。
「そ、それとこれとは別問題よ!」
「同じだろ。それに一緒にいたら、この婚姻届のことも思い出すんじゃないか? 話してる間に俺の名前のことは思い出したみたいだし?」
にやりと志貴が笑う。そうして婚姻届を手にして、見せつけるように郁乃の目の前でひらひらと振った。
「一石二鳥だろ? 俺は今日の宿を探す手間が省けて、郁乃は俺のことを思い出すかもしれない。ああ、じゃあ、そうだな。一週間、俺を泊めてくれたら何も思い出さなくても、結婚詐欺で訴えるのはやめてやる。どうする郁乃?」
無茶苦茶な提案で迫る男に、郁乃は絶句する。
――一石二鳥って何がだ! どうして、婚姻届があるからって一週間もこの子を家に泊めないといけないのよ! 訳わかんない!
言いたいことはたくさんあった。たくさんありすぎて、何から突っ込めばいいのかわからない。
「反論がないってことは、決まりだな」
「なんでそうなるのよ!」
「何の反論もなく、十秒も黙り込んでいたんだから合意ってことで俺は受け取った。悪いか?」
「そんな十秒ルール聞いてない!」
「俺が今決めた」
「何様よ!! 君は!!」
「志貴様。何なら郁乃もそう呼んでくれていい。志貴君とか気持ち悪い」
しれっとした顔でそう返されて、郁乃はわなわなと体を震わせた。
志貴はそんな郁乃に構うことなく自分の料理を食べ始める。
「それ美味しそうだな。一個くれ」
郁乃の小鉢に入っていたたこを、素早い動きで攫っていった。
「あ! ちょっと私のたこ!!」
「美味しいな。これ」
たこを口に入れた途端、それまで澄ましていた志貴の顔が一気に綻んだ。
目を輝かせてたこを味わう姿は年相応に見える。
問題は何も解決していないのに、子どもみたいな顔を見せられて何だか毒気を抜かれてしまった。
怒りの矛先を失い、そんな場合ではないのに、思わず気の抜けた笑いが漏れる。
「あ! 女将さん! 俺にもこれ一つ! すごい美味しい!!」
今までのやり取りを忘れたように、志貴が希子を呼び寄せた。
キラキラの笑顔で注文する志貴に、それまで二人のやり取りをはらはらしながら見守っていた希子の顔にも笑みが浮かんだ。
「そうかい? ありがとうね! お父さん、たこと大根の煮物一つね! はい! 郁乃ちゃんにはアスパラの肉巻きと出汁まきたまご、お待たせ!」
目の前に並べられた料理に、郁乃の目も輝く。長皿の上に、黄金色に輝く出汁まきたまごが六等分に切り分けられている。横には大根おろしが綺麗な三角形になって盛られていた。
たまごを四個も使っている大吉の出汁巻きたまごは、昔から郁乃の大好物だった。子どもの頃は運動会や何かのお祝い事のときに特別に作ってもらっていたほどだ。
「あ、それも美味しそう……」
出汁まきたまごを見た志貴の呟きに、郁乃は希子から受け取った皿を彼から遠ざける。
「これは絶対、あげないわよ?」
郁乃は志貴を横目に睨みつけて、きっぱりと宣言する。
大人げないのはわかっているが、これだけは何があっても譲れない。
「心狭いな、郁乃」
「何と言われても、大吉の出汁まきたまごは私の大好物なんだから、絶対にだめ!」
「ふーん、そんなにうまいの?」
「めちゃめちゃ美味しい!」
端的に告げた郁乃に、志貴はますます興味を引かれたような顔をした。
「女将さん!」
「お兄さんも出汁まき追加する?」
志貴の呼びかけに、希子は察しよく注文を聞く。
「お願いします」
「ちょっと時間かかるよ? いいかい?」
「大丈夫です」
「アスパラの肉巻きは? それに、今日はたこのいいのが入ったから、たこの唐揚げ、炊き込みご飯もおすすめよ?」
「あ、じゃあ、それも一緒にお願いします! ご飯は今はいいです」
「希子さん! 私もたこの唐揚げ欲しい!」
郁乃もつい追加で注文を頼む。
「ふふふ。たこの唐揚げ二人前ね? 郁乃ちゃん、お酒すっかり冷めちゃったけど、どうする?」
「ん。このままでいい」
「じゃあ、ちょっと待っててね。お兄さんも」
「はーい!」
仲良く揃った二人の返事に、希子が驚いたように目を開いてから笑みを深めた。
郁乃は早速、出来たての出汁まきたまごを一切れ取って、思い切りかぶりつく。
湯気が立つほど熱々なたまご焼きは、ふわふわな食感と一緒に口の中で蕩けていった。
たまごの優しい味と、出汁と調味料が絶妙に合わさって、口の中に広がる。
「ん――」
唇からは自然と感嘆の吐息が零れて、郁乃は体を震わせて幸せを噛みしめた。
――あぁ、もう本当に幸せ! 何でこんなに美味しいの!!
昔、大吉に頼み込んで、この出汁まきたまごを習ったことがある。だが、何度作ってもこの味にはならなかった。いまだに練習はしてるけど、どれだけ作っても大吉の味を再現できる気がしない。
「……なぁ」
「何?」
志貴の呼びかけに、郁乃はたまご焼きを飲み込んで横を向く。とても羨ましそうな顔をした志貴の目線が、郁乃の皿に注がれていた。
嫌な予感に郁乃の目が据わる。次の瞬間、志貴がぱんっと目の前で手を合わせた。
「頼む!」
突然の志貴の行動に、郁乃はびっくりする。
「な、何?」
「そのたまご焼き、やっぱり一切れくれないか?」
「はぁ? 絶対やだ!」
「俺が注文した分から、絶対に一切れ返すから!」
その条件に、郁乃は束の間迷って眉間に皺を寄せた。
「……絶対に、あとで返してよ?」
「約束する!」
「約束忘れないでよ」
郁乃はしぶしぶと皿を志貴の方へと動かす。
「やった! ありがとう!」
パッと顔を上げた志貴は、郁乃の気が変わらないうちにとばかりに、出汁まきたまごにかぶりついた。
途端に、志貴の表情が劇的に変わった。驚きに目を瞠って固まった彼は、すぐに味わうようにたまご焼きを咀嚼する。
その幸せそうな顔から、志貴が今何を思っているのか、郁乃には手に取るようにわかった。
口の中のたまご焼きを飲み込んだ志貴が、郁乃を見た。
「これ! これすごい美味しいな!! なんだこれ!!」
感動をうまく言葉に出来ないのか、志貴はもどかしそうに何度も「美味しい」と繰り返してくる。
その子どものような表情に、郁乃は自分の手柄でもないのに、「そうでしょう! ここの出汁まきたまごは絶品なのよ! もう世界一美味しいんだから!」と自慢してしまう。
志貴は無言で何度も頷いて、郁乃の言葉に同意した。
「さっきから思ってたけど、ここの料理ってどれも美味しいな。郁乃が自慢していたのがよくわかる。どれ食べても本当にうまい!」
興奮した様子でそう語る志貴に、郁乃も嬉しくなってくる。
「ここは料理だけじゃないのよ? お酒も大将が自分の料理に合うようにって、えりすぐったものばっかりだから、どれも最高に美味しいのよ! どんな嫌なことがあっても、ここに来たら明日も頑張ろうって、元気になれるんだから!」
つい調子に乗ってそう言えば、何故か志貴にくすりと笑われた。
その懐かしそうな眼差しに、郁乃は落ち着かなくなる。
そんな郁乃を見て、志貴は小さく息を吐き出し苦笑した。
「初めて会ったとき、そうやってここの自慢してたんだよ。今と全く同じ言葉で……。だから、俺は真っ先にここに来た。郁乃が自慢するくらい美味しい居酒屋に興味があったから。なのに、肝心の本人は俺に会ったことを綺麗さっぱり忘れてたんだけど……」
最後にちくりと放たれた嫌味に、郁乃は「うっ……」と喉を詰まらせる。
――私、本当にこの子とどんな出会いをしたんだろう? 少なくとも大吉のことを自慢するくらいには、色々と話をしたんだよね……
ここにきて、ようやく郁乃は志貴との初めての出会いが気になり出した。
大切な宝物を眺めるような志貴の表情に、心が疼く。
どんな経緯で自分たちは出会ったのか。そして、どんな会話をして、婚姻届を書くことになったのか。
不意に知りたくなった。
自分たちはどこかで出会っている。そのことを、もう疑うつもりはなかった。
「ねぇ、私たちが初めて会ったとき、一体どんな話をしたの?」
自然と零れ落ちた質問に、志貴の表情が抜け落ちる。
束の間の沈黙に、郁乃は落ち着かなくなった。
「……教えない。郁乃が覚えてないなら話しても意味がない」
再び硬くなった志貴の態度に、郁乃はどうしたらいいのかわからなくなる。
「仲良く出汁まき食べてたから、仲直りしたのかと思ってたのに、また喧嘩を始めたの?」
希子が盆に注文の品を持って現れた。
「はい。たこのから揚げ二人前と、お兄さんにはアスパラの肉巻きと、たこと大根の煮物ね」
呆れたように二人を交互に見やった希子が、カウンターに注文した品を並べ始める。
「ここで喧嘩するのはやめてね? せっかくうちのお父さんが腕を振るって作ってるご飯は、美味しく食べて頂戴!」
「めっ!」と茶目っ気たっぷりに腕を組んだ希子に、郁乃の肩から力が抜ける。
それは志貴も同じだったのか、「すみません」と素直に謝っていた。
「ごめんなさい」
つられて郁乃も謝ると、希子がくすりと柔らかに微笑んだ。
「二人とも仲良くこれでも食べて? サービスしておくから。お兄さんの出汁まきはもうちょっと待っててね」
そう言って、希子が二人の真ん中にもう一皿料理を置いた。
ほこほこと湯気をたてているそれは、大吉の中でも人気の牛すじの煮込みだ。
味噌で煮込んだ牛すじとこんにゃくの上に、たっぷりのネギと七味が振りかけられている。味噌のいい匂いが食欲を刺激した。
「おお、これもうまそう!」
志貴が嬉々とした様子で箸を伸ばす。
「ありがとう! 希子さん! 嬉しい!」
郁乃も志貴に負けずに自分の皿に牛すじとこんにゃくを取る。
「美味しい! ここの料理、本当にどれもうまいです!」
さっそく味見した志貴が希子に向かってそう言えば、希子がくすぐったそうに微笑んだ。
「牛すじはうちの自慢の料理の一つだからね! 楽しんでくれて嬉しいわ。ご飯を食べてる間くらい、仲良くね? その方が美味しいわよ」
希子に念を押されて郁乃と志貴は顔を見合わせる。
「なぁ」
「何?」
「とりあえず飯の間は、休戦しないか?」
「うん」
志貴の提案に郁乃も同意する。せっかくの料理を前に、争っているのは馬鹿らしい。
それに考えてみれば、こんな風にわいわいと誰かと言い合って食事をするのは、久しぶりだった。大吉でご飯を食べていれば、常連客や希子たちと話くらいする。だが基本的に郁乃は、カウンターで一人の食事と酒を楽しんでいることが多い。
弟たちも最近忙しいのか、家に顔を出すことはあっても、ご飯を一緒に食べることは減っていた。
だから、志貴とこうしてあれが美味しい、これがうまいって言い合いながらご飯を食べるのは、何だか楽しかった。
「志貴君は日本酒はいける口?」
「それなりにいける方だと思う」
唐突な郁乃の問いに、束の間考える素振りを見せた志貴が答えた。
「そっか。よかった」
志貴の返事に郁乃は笑って、希子に声をかける。
「希子さん、お猪口もう一個ちょうだい!」
「はいはい。どうぞ。おかわりもあるわよ」
郁乃の注文をわかっていたように、希子がすぐに新しいお猪口と銚子を差し出してきた。
「さすが希子さん! ありがとう」
希子から酒を受け取った郁乃は、新しくもらった酒杯に志貴の分の酒を注ぎ、彼に渡す。
ついでにまだ中身の残っていた自分の酒を飲み干して、手酌で新たに酒を注いだ。
「とりあえず、一時休戦ってことで……」
そう言って、お猪口を掲げると、志貴がにやりと笑って自分のお猪口を掲げてくる。
「一時休戦に!」
志貴の言葉に郁乃もにやりとする。二人は互いの酒杯を軽くぶつけて乾杯すると、一気に酒を飲み干した。
喉越しのよい酒が、食道を滑り落ちていく。馴染んだ酒の味にホッと吐息が零れ落ちた。すぐ横で同じような吐息が聞こえて郁乃は隣を見る。
「……この酒、いい味だな」
郁乃が勧めた酒を口にした志貴は飲み干した酒杯を眺めて、ぽつりと呟いた。
自分の好きな酒を褒められて、郁乃は嬉しくなる。
「でしょー? 私のお気に入りなの。これ北海道のお酒でね。大将がわざわざ取り寄せてるのよ?」
宝物を自慢するような郁乃に、志貴の目が柔らかに細められた。
「郁乃はこの酒が好きなんだ?」
「うん」
「そっか。もう一杯くれる?」
志貴の頼みを、郁乃は「もちろん!」と笑顔で快諾する。
互いのお猪口に酒を注ぎ合う。
そうして二人は、大吉の料理に舌鼓を打ちながら、好きな酒の話や料理の話で盛り上がった。
☆
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。郁乃と志貴は酒と料理の好みが近いのか話が弾んだ。
「郁乃ちゃん。もうすぐ二十三時なんだけど、最後に何か頼むものある?」
「え? もうそんな時間?」
希子に声をかけられて、郁乃は慌てて時間を確認する。
希子の言う通り、時刻は大吉のラストオーダーの二十三時を迎えようとしていた。
「大丈夫、今日はもうお腹いっぱい! お会計お願い!」
花屋の朝は早い。明日は仕入れのない木曜日ではあるが、あまり夜更かしも出来ない。
急いで帰り支度を始めた郁乃を横目に、希子が志貴にも声をかける。
「お兄さんはどうするの?」
「郁乃が帰るなら俺も帰ります。お会計をお願いします」
「はいよ。たくさん食べてくれてありがとうね。うちの味を気に入ってくれたなら嬉しいわ」
財布を取り出した志貴をニコニコと眺めて、希子はそう言った。
「とっても美味しかったです! またぜひ来たいです!」
志貴も笑顔で返事をした。二人ともそれぞれに会計を済ませて席を立つ。
「郁乃ちゃん! 気を付けて帰るのよ! お兄さんもまた来てね!」
希子の声に見送られて、二人は店の外に出た。
アルコールで火照った頬に、春先の少し冷たい風が吹き付けてきた。
気持ちよさに、郁乃の唇から自然と吐息が零れて落ちた。
「う――ん! 美味しかった!」
両手を上げて、郁乃は思い切り伸びをする。そうして、隣に立つ男を見上げた。
「今日は楽しかったよ! ありがとう! 君はこれからどうするの?」
「郁乃を送ってくよ。もう遅いから」
志貴の言葉に郁乃は驚愕する。
「は? いいよ別に! うち、ここから歩いて十分もかかんないもん!」
「女が一人、こんな時間に歩くとか危ないだろ」
志貴に何を言っているんだこの女は、という顔で見下ろされて、郁乃は戸惑う。
こんな風に普通の女子のように扱われることは滅多にないせいで、ときめきよりも先に困惑してしまう。
「郁乃の家はどこ?」
志貴が不機嫌そうに眉を寄せて質問してきた。
引く気配を全く見せない志貴に、郁乃はおずおずと駅とは反対に向かう道を指さす。
「とりあえず、この道、真っ直ぐ」
「わかった。じゃあ、行くぞ」
そう言うなり、志貴が大股で歩き出した。
「え! ちょっと! 待って! 志貴君!」
郁乃は慌てて志貴のあとを追いかける。
「本当に大丈夫だよ? すぐ近くだし!」
「その油断が危ないんだよ! 俺が送るって言ってるんだから、郁乃は大人しく送られてればいいんだよ!」
ここまできっぱりと言われてしまうと、断るのも悪い気がしてしまう。
郁乃は大人しく志貴の横に並んだ。郁乃を横目に見下ろした志貴が満足したように、小さく「うん」と頷いた。
とても綺麗な顔をしているのに、その唇から出てくる言葉は乱暴で、突拍子もないことばかり。でも、はにかんだ笑顔やこうした何気ない行動は優しくてちょっと可愛い。
知り合って間もないのに、一緒に過ごす時間は不思議と居心地がよくて、まるでずっと昔から知っていた人のようにも思える。
弟たちや藤岡といるときの安心感ともまた違う。ほのかに混じるくすぐったさが、郁乃の心に小さな波紋を作る。
「まだ真っ直ぐでいいのか?」
商店街の出口に近付いて、志貴が再び道を確認してきた。
「うん。ここから五分くらいは真っ直ぐ」
「わかった」
頷いた志貴がふと足を止めた。郁乃が志貴を見上げると、ちょっと考えるような仕草で、首を傾げた。
「どうしたの?」
「俺、歩くの速い?」
唐突な問いに郁乃は、きょとんと瞳を瞠る。
「いや、肩で息してるから。歩くの速いのかと思って」
言われて、郁乃は質問の意味を理解する。
確かに、志貴は背が高く足も長いせいか、歩く速度が速い。志貴が普通に歩くと、ちびな郁乃では小走りじゃないと横に並んで歩けなかった。
「ちょっと、速いかも?」
「言えよ! そういうことはもっと早く!」
顔を顰めた志貴は、郁乃に先へ行くように促す。そうして郁乃の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。
「これくらいなら大丈夫か? 速くないか?」
「うん。ありがとう」
不器用ながら郁乃を気遣ってくる志貴の優しさに、心の奥が温かいもので満たされる。
郁乃はそっと下を向いて、零れそうになる笑みを堪えた。
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