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多分、最初に出会ったタイミングが最悪だった――
barのカウンター。数カ月ぶりに合った学生時代の友人と他愛もない会話を続けて、ふと会話が途切れた。
落ちた沈黙に、この瞬間を天使が通ったと言う表現をするのはどこの国のことだったかなと、埒もないことを考えた。視線が絡んで、隣に座っていた男の眼差しにほのかな揺らぎを見つけた。
――あぁ、また……
何気ない様子で顔を近づけてくる男に、自然と瞼を伏せた。
唇に吐息が触れて、口の中に舌が差し込まれる。男が直前まで飲んでいたブランデーの濃くて甘い味が口の中に広がった。
くらりと眩暈を覚えて、瞼を強く閉じる。
一瞬の隙をつくように触れ合わせていた唇が離れていく。
唇の中、名残のように男の飲んでいたブランデーの味が残された。
この男との何百回目かのキスーー多分、最後になるだろうキス。
井下 香乃は閉じていた瞼を開。口づけの余韻に視界が滲んでいた。
ろうそくを模した照明に淡く照らされたバーのカウンターの片隅。誰に見られているともわからないこんな場所で、人の唇を奪った男は何事もなかったようにブランデーのグラスに口を付ける。
あの唇が、今、香乃に触れていた。
この男とのキスはいつも酒の味がする。
ブランデー、日本酒、ワイン……etc 酒を酌み交わすたび触れ合わせてきた唇の数だけ、香乃は男が飲んでいる酒の味を知った。
ブランデーを飲み込む男の滑らかに動く喉に、香乃の背筋が淡い疼きを覚える。
そんな自分を認めたくなくて、香乃は自分のグラスに視線を落として、ひっそりとため息をつく。
高校からの友人--東 克尚。彼とは恋人でもなんでもない。でもキスはする。
その意味を隣の男に問うてみたい気がしたが、それも無意味だと香乃は知っている。
キスまで……キスまでは許される。
そんな無意味で馬鹿なルールを設けたのは自分だ。
誰に許されたいのか、誰に言い訳してるのか。
もうとうの昔に意味を失くしてしまったルールに縛られているのは自分だけなのだとわかってる。
多分、出会ったタイミングが最悪過ぎた――
初めて知り合ったとき、彼は友人の恋人だった。
もう顔も忘れてしまった友人の隣で穏やかに微笑んでいた男に、香乃はひとめぼれした。
だからと言って、彼とどうにかなりたいと思ったわけじゃない。
克尚と友人の仲はとてもよかったし、彼らの間に自分が割り込む隙もその勇気もないこともわかっていた。
ただ、眺めていた。幸せそうに微笑み合う二人を。
それだけで、香乃の初恋は満足だったのだ。
彼が、克尚が幸せそうに笑っているのを、眺めるのが香乃は好きだった。
恋人の友人--曖昧で微妙な距離感で、克尚と香乃の高校時代は過ぎて行った。
克尚と香乃はたまたま同じ大学に進学、克尚の恋人だった友人は別の大学に進学した。
知り合いの少ない都会の大学に進学した二人は、必然的に一緒にいることが増えた。サークルも同じだった。
だからと言って、二人の距離感は何もかわらなかった。
相変わらず恋人の友人。克尚と香乃の距離感は縮まることはなかった。
香乃は克尚を友人から奪うつもりはなかったし、その頃には香乃にも社会人の恋人がいた。
友人から克尚を奪うには、あの頃の香乃は潔癖すぎた。
キスをするようになったのはいつからだろう?
多分、大学3年のサークルの飲み会だったと思うが、もう記憶が曖昧すぎて覚えてもいない。
互いに酔っていた。浮かれていた。
気づけば目の前に、克尚がいた。その真っ黒な瞳と目が合った瞬間に、動いていた。
どちらが先に動いたのかわからない。それが必然とも思えるタイミングで、香乃と克尚は自然と唇を重ねていた。
今時、子どもでもしないような触れるだけのキス。
すぐに離れて、互いに何もなかった振りをした。
濡れた男の唇から香ったアルコールの匂いは、15年経った今でもはっきりと覚えている。
そのせいか克尚とのキスは、いつも酒の記憶と重なって香乃の中に刻まれた。
何故、キスをしたのか。あの時に問うていたのなら何かが変わっていたのかもしれない。
でも、香乃も克尚も互いに何も言わなかった。
多分、あれが香乃が克尚を手にいられる最初で最後の機会だったのだろうと今なら思う。
けれど、香乃は克尚との距離を縮められなかった。
克尚は相変わらず香乃の友人と付き合っていたし、香乃にも恋人がいた。
互いに裏切れないと思う人間が別にいた。
その後も克尚とかの関係は何一つ変わらなかった。たまにキスをする以外は――
酒の席――戯れのように、子どものいたずらのように、二人は唇を重ねた。
誰も見てない隙を見つけ出すのが克尚は、うまかった。そして、香乃は克尚の唇を拒まなかった。
キスまでは許される気がしていた。これは単なる親愛のキス。
そう自分に言い聞かせてた。若かったと思う。若くて潔癖で、どうしようもなくずるかった。
今の人間関係を破壊する勇気を香乃は持てなかった。
香乃の友人が他に好きな人が出来たと克尚の元を去っていっても、互いに社会人になっても克尚と香乃の距離は変わらないまま、気付けば出会いから15年が経っていた。
最初の出会いのタイミングが悪かったせいなのか――
掛け違えたボタンのように、二人のタイミングが重なることはなった。
香乃がフリーの時には克尚に恋人がいたし、逆に克尚がフリーの時は香乃に恋人がいた。
いつも二人の間には曖昧な、それでいた明確なボーダーラインがあった。それは決して踏み越えられない深い溝。
互いにその溝を見ない振りで、背中合わせに違う方向を見てきた。
でも、この不毛で、曖昧で微妙な関係も、きっと今日で終わる。
もうすぐ克尚は結婚らしい。香乃が全く知らない相手と――
barのカウンター。数カ月ぶりに合った学生時代の友人と他愛もない会話を続けて、ふと会話が途切れた。
落ちた沈黙に、この瞬間を天使が通ったと言う表現をするのはどこの国のことだったかなと、埒もないことを考えた。視線が絡んで、隣に座っていた男の眼差しにほのかな揺らぎを見つけた。
――あぁ、また……
何気ない様子で顔を近づけてくる男に、自然と瞼を伏せた。
唇に吐息が触れて、口の中に舌が差し込まれる。男が直前まで飲んでいたブランデーの濃くて甘い味が口の中に広がった。
くらりと眩暈を覚えて、瞼を強く閉じる。
一瞬の隙をつくように触れ合わせていた唇が離れていく。
唇の中、名残のように男の飲んでいたブランデーの味が残された。
この男との何百回目かのキスーー多分、最後になるだろうキス。
井下 香乃は閉じていた瞼を開。口づけの余韻に視界が滲んでいた。
ろうそくを模した照明に淡く照らされたバーのカウンターの片隅。誰に見られているともわからないこんな場所で、人の唇を奪った男は何事もなかったようにブランデーのグラスに口を付ける。
あの唇が、今、香乃に触れていた。
この男とのキスはいつも酒の味がする。
ブランデー、日本酒、ワイン……etc 酒を酌み交わすたび触れ合わせてきた唇の数だけ、香乃は男が飲んでいる酒の味を知った。
ブランデーを飲み込む男の滑らかに動く喉に、香乃の背筋が淡い疼きを覚える。
そんな自分を認めたくなくて、香乃は自分のグラスに視線を落として、ひっそりとため息をつく。
高校からの友人--東 克尚。彼とは恋人でもなんでもない。でもキスはする。
その意味を隣の男に問うてみたい気がしたが、それも無意味だと香乃は知っている。
キスまで……キスまでは許される。
そんな無意味で馬鹿なルールを設けたのは自分だ。
誰に許されたいのか、誰に言い訳してるのか。
もうとうの昔に意味を失くしてしまったルールに縛られているのは自分だけなのだとわかってる。
多分、出会ったタイミングが最悪過ぎた――
初めて知り合ったとき、彼は友人の恋人だった。
もう顔も忘れてしまった友人の隣で穏やかに微笑んでいた男に、香乃はひとめぼれした。
だからと言って、彼とどうにかなりたいと思ったわけじゃない。
克尚と友人の仲はとてもよかったし、彼らの間に自分が割り込む隙もその勇気もないこともわかっていた。
ただ、眺めていた。幸せそうに微笑み合う二人を。
それだけで、香乃の初恋は満足だったのだ。
彼が、克尚が幸せそうに笑っているのを、眺めるのが香乃は好きだった。
恋人の友人--曖昧で微妙な距離感で、克尚と香乃の高校時代は過ぎて行った。
克尚と香乃はたまたま同じ大学に進学、克尚の恋人だった友人は別の大学に進学した。
知り合いの少ない都会の大学に進学した二人は、必然的に一緒にいることが増えた。サークルも同じだった。
だからと言って、二人の距離感は何もかわらなかった。
相変わらず恋人の友人。克尚と香乃の距離感は縮まることはなかった。
香乃は克尚を友人から奪うつもりはなかったし、その頃には香乃にも社会人の恋人がいた。
友人から克尚を奪うには、あの頃の香乃は潔癖すぎた。
キスをするようになったのはいつからだろう?
多分、大学3年のサークルの飲み会だったと思うが、もう記憶が曖昧すぎて覚えてもいない。
互いに酔っていた。浮かれていた。
気づけば目の前に、克尚がいた。その真っ黒な瞳と目が合った瞬間に、動いていた。
どちらが先に動いたのかわからない。それが必然とも思えるタイミングで、香乃と克尚は自然と唇を重ねていた。
今時、子どもでもしないような触れるだけのキス。
すぐに離れて、互いに何もなかった振りをした。
濡れた男の唇から香ったアルコールの匂いは、15年経った今でもはっきりと覚えている。
そのせいか克尚とのキスは、いつも酒の記憶と重なって香乃の中に刻まれた。
何故、キスをしたのか。あの時に問うていたのなら何かが変わっていたのかもしれない。
でも、香乃も克尚も互いに何も言わなかった。
多分、あれが香乃が克尚を手にいられる最初で最後の機会だったのだろうと今なら思う。
けれど、香乃は克尚との距離を縮められなかった。
克尚は相変わらず香乃の友人と付き合っていたし、香乃にも恋人がいた。
互いに裏切れないと思う人間が別にいた。
その後も克尚とかの関係は何一つ変わらなかった。たまにキスをする以外は――
酒の席――戯れのように、子どものいたずらのように、二人は唇を重ねた。
誰も見てない隙を見つけ出すのが克尚は、うまかった。そして、香乃は克尚の唇を拒まなかった。
キスまでは許される気がしていた。これは単なる親愛のキス。
そう自分に言い聞かせてた。若かったと思う。若くて潔癖で、どうしようもなくずるかった。
今の人間関係を破壊する勇気を香乃は持てなかった。
香乃の友人が他に好きな人が出来たと克尚の元を去っていっても、互いに社会人になっても克尚と香乃の距離は変わらないまま、気付けば出会いから15年が経っていた。
最初の出会いのタイミングが悪かったせいなのか――
掛け違えたボタンのように、二人のタイミングが重なることはなった。
香乃がフリーの時には克尚に恋人がいたし、逆に克尚がフリーの時は香乃に恋人がいた。
いつも二人の間には曖昧な、それでいた明確なボーダーラインがあった。それは決して踏み越えられない深い溝。
互いにその溝を見ない振りで、背中合わせに違う方向を見てきた。
でも、この不毛で、曖昧で微妙な関係も、きっと今日で終わる。
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