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香乃がその噂を聞いたのは、気の置けない大学時代からの友人たちとの集まりだった。
『そういえば、東君って結婚するんでしょ? 香乃知ってる?』
友人が何気ない様子で放った言葉に、香乃は全身が強張ったのを自覚した。
――克尚が結婚?
そんな話は聞いてなかった。 ここ数カ月、電話やメールでの連絡は取ってはいても、顔を合わせていたなかった男の姿を思い出す。
『ううん。聞いてない』
『あーれ? 香乃が知らないってことはデマかな? ほら、うち、東君のところと取引あるじゃない? あそこの営業くんが教えてくれたんだけど、東君ってば、社長令嬢に認められて、入り婿になるらしいよ?』
『……そうなんだ。最近、克尚とは会ってないし、克尚の会社の営業ン子がそう言うなら本当なんじゃない?』
香乃は何でもない振りで肩を竦めてそう言えば、友人は納得した様子で頷いた。
『なのかな? 逆玉ってやつかー うらやましいー』
そう言って、ビールを煽る友人を横目に、香乃は自分の顔が強張りそうなるのを必死にこらえていた。
その後の記憶は、平静を保つのに精いっぱいで、香乃は自分がどんな顔で、どんな話をいたのか何も覚えていない。
友人は何も気づいてない様子だったし、きっと自分は平静な振りを貫き通したのだろうと思う。
――何も……何も聞いてない。どうして? 克尚は何も言ってくれないのだろう?
そう考え続けた。けれど、すぐにそんなことは当たり前のことだと思い直す。
自分たちはただの友人だ。キスはする。だけど、それ以上にお互いに踏み込むことはしない。
暗黙の了解が二人の間に横たわっている。
次に会った時、克尚はきっと何でもない顔で香乃に報告するのだろう。
「結婚が決まった」
そうあっさりと告げる男の顔まで思い浮かんで、香乃は笑い出す。
自分と克尚の間にはどうしても越えられない、曖昧で深いボーダーラインがある。
あの日――皆が酔い騒ぐ居酒屋の片隅で、初めて唇を重ねたあの日。
踏み越えられなかったボーダーライン。
この先もきっと自分たちは、この曖昧で深すぎるボーダーラインを超えることはないのだと香乃は実感する。
自分たちのタイミングはどこまでも重ならいのだと香乃は知った。
そんなタイミングで、克尚からの久しぶりの誘いがあった。
多分、結婚の報告なのだろうと思った。メールや電話での報告ではなく、わざわざ香乃を呼び出す克尚が、何を考えているのかは香乃にはわからない。
あの男を好きだと思うが、存外、香乃はあの男のことをよく知らない。
受け取ったメールを眺めて、香乃は密やかに決意をする。
もうこのどうしようもなく不毛でばかばかしい恋を終わらせることを――
その覚悟を持って香乃はこの場所にやって来た。
☆
「香乃?」
グラスを見下ろして、物思いに耽っていたと香乃は名前を呼ばれて、視線を克尚に戻す。
「何?」
キスとアルコールに滲んだ瞳に、穏やかに笑う男の微笑みが映る。
香乃が好きになった穏やかな笑みを浮かべる男の表情に見惚れる。
この微笑みもきっと今日が最後の見納めになると思えば名残惜しくて、香乃はひっそりと笑う。
「大丈夫か?」
そんな香乃を見つめ返していた克尚の眉間に皺が寄る。そうして、問われたことの意味が分からずに、香乃は首を傾げる。
「何が?」
「今日は黙って人の顔ばっかり見てるから、何かあったのかと思ったんだよ。それとも珍しく酔ったか?」
「そこまで酔ってないわよ。ただ、いい男だなーと思ってみてただけ」
克尚の言葉に香乃は苦笑を深めて、軽口を返す。
「忙しいのか? 仕事?」
いつにない、香乃の軽口に克尚が眉間の皺を深めてそんな心配をしてくる。
普段通りに振る舞っているつもりでも、今日の自分はやはり態度に何かを滲ませているのかと、自分の未練がましさに香乃はうんざりする。
さっさと決着をつけてしまいたいのに、克尚は自分の結婚について、何も言わない。
このまま何も言わないつもりなのかもしれないと、香乃はふと思った。
そうして、ある日、突然に送結婚の招待状が送られてくるのかもしれない。
営業なんて仕事をしている割に、克尚は口下手なところがある。
朴訥な性格で、自分のことをあまり進んで話したがらない。
二人でいても会話が弾んだ記憶は、あまりない。
ただ、たまに合って静かに一緒に酒を飲む。互いの近況と仕事の愚痴をぽつり、ぽつりと交わして、キスをして別れる。
そんな付き合いをもう10年以上続けている。
いい大人をして何をやっているのかと自分でも思うが、克尚と過ごす時間は穏やかで優しかった。
誰と――恋人といるよりも香乃はリラックスできる。それは多分、克尚も同じなのだろうと思ってきた。
でも、この先、克尚にとってそういう相手は結婚相手がなる。なるべきだと香乃は思う。
「仕事はいつも通りよ。忙しいと言えば忙しいけど、それはいつものことだもの」
「そうか」
「克尚は? 最近、仕事の方はどうなの?」
「俺もあまり変わらない」
「ふーん」
そう言う男はいつもと変わらない表情で、そこから読み取れるものは何もない。
あまりにいつもと変わらない男の様子に、香乃はなんだか苛立ちを覚える。
――結婚話はどうした?
そう突っ込みを入れたくなる。
香乃はつまみナッツを口の中に放り込んで、自分の中に生まれたムカつきをかみ砕いて、ため息として吐きだした。
わかってる。これは香乃の八つ当たりだ。
うっそりと香乃は笑った。
この煮え切らなさが、自分たちらしいと言えば、あまりに自分たちらしくて、香乃はもう笑うしかなかった。
「香乃?」
隣に座る男が、脈絡もなく笑い出した香乃を不思議そうなに見ている。
何も言わずに唇を重ねてくるずるい男。
――好きで、大好きで、でも、大嫌い。もう2度と会わないよ。
「克尚みたいなずるい男なんて大嫌いよ」
ぽつりと呟いて、香乃は勢いをつけてスツールから立ち上がる。
そうして、戸惑う男のネクタイを掴んで引き寄せる。驚きに目を瞠る男に映る自分は、ひどく楽し気な顔をしていた。
「結婚おめでとう」
男の唇に祝福を告げて、香乃は初めて克尚に自分からキスをした――
『そういえば、東君って結婚するんでしょ? 香乃知ってる?』
友人が何気ない様子で放った言葉に、香乃は全身が強張ったのを自覚した。
――克尚が結婚?
そんな話は聞いてなかった。 ここ数カ月、電話やメールでの連絡は取ってはいても、顔を合わせていたなかった男の姿を思い出す。
『ううん。聞いてない』
『あーれ? 香乃が知らないってことはデマかな? ほら、うち、東君のところと取引あるじゃない? あそこの営業くんが教えてくれたんだけど、東君ってば、社長令嬢に認められて、入り婿になるらしいよ?』
『……そうなんだ。最近、克尚とは会ってないし、克尚の会社の営業ン子がそう言うなら本当なんじゃない?』
香乃は何でもない振りで肩を竦めてそう言えば、友人は納得した様子で頷いた。
『なのかな? 逆玉ってやつかー うらやましいー』
そう言って、ビールを煽る友人を横目に、香乃は自分の顔が強張りそうなるのを必死にこらえていた。
その後の記憶は、平静を保つのに精いっぱいで、香乃は自分がどんな顔で、どんな話をいたのか何も覚えていない。
友人は何も気づいてない様子だったし、きっと自分は平静な振りを貫き通したのだろうと思う。
――何も……何も聞いてない。どうして? 克尚は何も言ってくれないのだろう?
そう考え続けた。けれど、すぐにそんなことは当たり前のことだと思い直す。
自分たちはただの友人だ。キスはする。だけど、それ以上にお互いに踏み込むことはしない。
暗黙の了解が二人の間に横たわっている。
次に会った時、克尚はきっと何でもない顔で香乃に報告するのだろう。
「結婚が決まった」
そうあっさりと告げる男の顔まで思い浮かんで、香乃は笑い出す。
自分と克尚の間にはどうしても越えられない、曖昧で深いボーダーラインがある。
あの日――皆が酔い騒ぐ居酒屋の片隅で、初めて唇を重ねたあの日。
踏み越えられなかったボーダーライン。
この先もきっと自分たちは、この曖昧で深すぎるボーダーラインを超えることはないのだと香乃は実感する。
自分たちのタイミングはどこまでも重ならいのだと香乃は知った。
そんなタイミングで、克尚からの久しぶりの誘いがあった。
多分、結婚の報告なのだろうと思った。メールや電話での報告ではなく、わざわざ香乃を呼び出す克尚が、何を考えているのかは香乃にはわからない。
あの男を好きだと思うが、存外、香乃はあの男のことをよく知らない。
受け取ったメールを眺めて、香乃は密やかに決意をする。
もうこのどうしようもなく不毛でばかばかしい恋を終わらせることを――
その覚悟を持って香乃はこの場所にやって来た。
☆
「香乃?」
グラスを見下ろして、物思いに耽っていたと香乃は名前を呼ばれて、視線を克尚に戻す。
「何?」
キスとアルコールに滲んだ瞳に、穏やかに笑う男の微笑みが映る。
香乃が好きになった穏やかな笑みを浮かべる男の表情に見惚れる。
この微笑みもきっと今日が最後の見納めになると思えば名残惜しくて、香乃はひっそりと笑う。
「大丈夫か?」
そんな香乃を見つめ返していた克尚の眉間に皺が寄る。そうして、問われたことの意味が分からずに、香乃は首を傾げる。
「何が?」
「今日は黙って人の顔ばっかり見てるから、何かあったのかと思ったんだよ。それとも珍しく酔ったか?」
「そこまで酔ってないわよ。ただ、いい男だなーと思ってみてただけ」
克尚の言葉に香乃は苦笑を深めて、軽口を返す。
「忙しいのか? 仕事?」
いつにない、香乃の軽口に克尚が眉間の皺を深めてそんな心配をしてくる。
普段通りに振る舞っているつもりでも、今日の自分はやはり態度に何かを滲ませているのかと、自分の未練がましさに香乃はうんざりする。
さっさと決着をつけてしまいたいのに、克尚は自分の結婚について、何も言わない。
このまま何も言わないつもりなのかもしれないと、香乃はふと思った。
そうして、ある日、突然に送結婚の招待状が送られてくるのかもしれない。
営業なんて仕事をしている割に、克尚は口下手なところがある。
朴訥な性格で、自分のことをあまり進んで話したがらない。
二人でいても会話が弾んだ記憶は、あまりない。
ただ、たまに合って静かに一緒に酒を飲む。互いの近況と仕事の愚痴をぽつり、ぽつりと交わして、キスをして別れる。
そんな付き合いをもう10年以上続けている。
いい大人をして何をやっているのかと自分でも思うが、克尚と過ごす時間は穏やかで優しかった。
誰と――恋人といるよりも香乃はリラックスできる。それは多分、克尚も同じなのだろうと思ってきた。
でも、この先、克尚にとってそういう相手は結婚相手がなる。なるべきだと香乃は思う。
「仕事はいつも通りよ。忙しいと言えば忙しいけど、それはいつものことだもの」
「そうか」
「克尚は? 最近、仕事の方はどうなの?」
「俺もあまり変わらない」
「ふーん」
そう言う男はいつもと変わらない表情で、そこから読み取れるものは何もない。
あまりにいつもと変わらない男の様子に、香乃はなんだか苛立ちを覚える。
――結婚話はどうした?
そう突っ込みを入れたくなる。
香乃はつまみナッツを口の中に放り込んで、自分の中に生まれたムカつきをかみ砕いて、ため息として吐きだした。
わかってる。これは香乃の八つ当たりだ。
うっそりと香乃は笑った。
この煮え切らなさが、自分たちらしいと言えば、あまりに自分たちらしくて、香乃はもう笑うしかなかった。
「香乃?」
隣に座る男が、脈絡もなく笑い出した香乃を不思議そうなに見ている。
何も言わずに唇を重ねてくるずるい男。
――好きで、大好きで、でも、大嫌い。もう2度と会わないよ。
「克尚みたいなずるい男なんて大嫌いよ」
ぽつりと呟いて、香乃は勢いをつけてスツールから立ち上がる。
そうして、戸惑う男のネクタイを掴んで引き寄せる。驚きに目を瞠る男に映る自分は、ひどく楽し気な顔をしていた。
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