曖昧なボーダー 背中合わせのkiss

桜 朱理

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 触れるだけのキスで香乃は唇を離す。

  吐息の重なる距離。克尚と香乃の視線が絡む。

  どちらも何も言わなかった。言えなかったと言うのが正しいのかもしれない。

  克尚が口を開いて、閉じる。言葉を探すような間の後、克尚が大きなため息をついた。

  香乃は何もなかったように正面を向く。

 「知っていたのか? 結婚のこと……」

  諦めふくんだような克尚の言葉に香乃は肩を竦めて、帰り支度を始める。

 「女の情報網を舐めないで?」

  荷物と伝票を手にスチールを降りる。

 「香乃?」

  克尚が驚いたように香乃の名前を呼ぶ。その声が好きだったと思う。自分を呼ぶ声に恋情が含まれていて欲しいといつも願っていた。

  この10年ずっと―――

 でももうそれも終わり。今日、自分はこの恋を終わらせる。

 「帰る。今日の飲み代は結婚祝いって言うことで奢ってあげる」
 「香乃? 待てよ!?」

  香乃が会計をしている間、克尚も焦ったように帰り支度をして後を追ってくる。

  店の外に出るとアルコールに火照った身体に夜風が気持ちよかった。
  自然とため息が零れて落ちる。香乃は大きく伸びをした。

 「香乃、俺……」

  躊躇うように男が声をかけてくるのを肩越しに振り返って香乃は苦笑する。

  ――ずるいなぁ……

 そう思う。でも、ずるさで言えば香乃も同じだ。

 「いいよ。別に……無理に話さなくても。聞きたくないし?」

  艶やかに微笑んで見せる。それは香乃の意地だ。
  ネオンに照らされた香乃の儚くも綺麗な微笑みに、克尚が息を飲む。
  そうしてそろそろ息を吐きだした。

 「俺は香乃とは恋愛したくなかった。」
 「うん。知ってる」

  はっきりと言葉にされて、鼻の奥がつんと痛む。泣きたくなるが、泣くつもりはない。

  --やっとこれで本当に終われる。

  そんな安堵が香乃の心を満たしていた。

  でも、互いの想いは恋だった。その確信が香乃の心を痛みに与える。

  克尚の手が伸びて来て香乃を抱きしめる。そっと壊れ物のガラス細工に触れるみたいに恐々とした仕草に香乃は苦く笑う。香乃からは抱きしめかえさない。香乃は両手をだらりと下げたまま克尚の好きにさせていた。

  愛した男の腕の中はひどく居心地が悪かった。

 「大事だったんだ。香乃との時間が……」
 「うん……」
 「失くしたくなかった」
 「そう」

  それは香乃も同じ。多分、互いに互いが大事過ぎた。


 「悪いけど、結婚式には出ないよ」
 「それは困ったな。香乃が出てくれないとみんなに何をいわれるのかわからない」
 「私に友人代表で挨拶なんてさせたら結婚式を修羅場に変えるよ?」
 「怖いな」

  克尚が苦笑して香乃をその腕の中から解放する。今度は香乃がホッとため息を吐いて、深く息を吸い込んで気持ちを落ち着ける。

 「まぁ私が結婚式に出なくても大丈夫よ。私、来月からシカゴに行くから」

  務めて軽い口調でそう言った香乃に、克尚が驚きにその瞳を瞠った。

 「香乃?」
 「多分、最低5年は帰って来ない。栄転よ? うらやましいでしょ?」
 「……もう俺と会う気はないのか?」

  ここに来てまで最後のずるさを見せる男を眺めて香乃は笑う。艶やかに笑って見せる。笑うのは香乃の意地だ。

 「克尚って時々、ひどくお子様ねー」
 「香乃?」
 「5年後、帰国するときは私、多分日本支社長になってるわ。その時は祝杯にみんなで付き合って」

  もう2度と二人で会わないと宣言をする。

  香乃の意図をしっかりと受け取った男が諦めたようにため息を吐いた。
  苦く笑った男の唇が近づいてくるのに、香乃は黙って瞼を閉じる。



  最後のキスは涙の味がした―――


「じゃあね。お幸せに……」
 「あぁ、香乃も元気で」

  唇が離れて、心の距離も離れる。

  二人は何事もなかったように手を振り合って別れる。


  ――振り向かない。絶対に。


  出会ったタイミングが最悪過ぎた。
  彼と私はいつもすれ違う。背中合わせのタイミングでkissをする。
  曖昧で、深いボーダーラインは越えられなかった。

  香乃との時間を失いたくなくて、他の女と結婚すると言う男のずるさを忘れることはきっとない――

 流れそうな涙を唇を噛みしめて堪えると香乃は歩き出す。
  自分の背中を眺める男の存在に気づかないまま、香乃は前を睨み付けて歩く。



  

  5年後―――帰国した香乃を独身を通した克尚が出迎える未来を香乃は知らない―――
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