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第17話 名前
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震えるベルの小さな肩に魔王の指がゆっくりと触れる。指の先には鋭い爪がついているというのに、優しく思いやりのある動作だった。
「悔やむことはない。お前は何も知らなかったのだ。私たちも人間側に妖精がいるなどとは想定してなかった。こちらにも落ち度はある。人間が我らを倒せるはずがないと過信していたのだ」
ベルが顔から手を離し、涙に濡れた眼で魔王を見上げると、尖鋭な爪が器用に動いて涙を拭った。
「我らは上位の存在。使う魔法も創造神より賜ったもの。人間の魔法はそれを真似ただけ。獣に近いものたちは傷つけられようが、どうやっても元素に近い闇の者を倒せやしない。どんなに力の強いものでもな。あの勇者も人間にしては大きな力を持っていたが、所詮は人間。我らの敵ではない。我ら闇の者と肩を並べられるのは、光の者のみ。お前は勇者に力を貸してやっていたな。偶然だったのだろうが、あれは千年ぶりに効いたぞ」
魔王は少し表情を緩める。しかし、ベルにとっては笑いごとではない。どんな表情をしていいのか分からず、わずかに首を横に傾ける。
ライオネスの話によると、人間は、火・水・風・土の魔法を使うということだった。魔族——闇の者も光の者も、それに属さない特別な力になるのだろうか。
ベルの魔法は金色に輝いてボッカの風の魔力を向上させていた。あれが光の力だったのか。
対して魔王が使う魔法は暗闇に溶けてしまいそうな深い紫色をまとっている。妖精のベルは魔王の魔力が見えていた。ボッカたち人間が使う魔法では見なかった色だ。
「わたしは……あなたを……傷つけてしまった……」
声を詰まらせながら後悔の念を伝える。なぜ、今こうして生きているのかは分からないが、確かに命を取ったはず。世界を救うという信念のためとはいえ、取り返しのつかないことをした。
「確かにそうだ。だが、私を救ったのもお前なのだ」
魔王は手のひらを上にしてベルに向ける。獰猛に感じる血のように真っ赤な瞳の奧に情のこもった仄かな光が灯る。
「私の命は確かに尽きた。身体から魂が抜ける前にお前が呼び戻してくれたのだよ。光の術でしかできないことだ。覚えていないのか?」
「え……?」
ベルは魔王城での出来事を思い返した。ボッカに魔法をまとった剣で切り裂かれた魔王。魔王の死を気の毒に思い、祈りを捧げた。そのときに自身から魔力が溢れたようだったが、深く気にしてはいなかった。
「あ、あのとき……? でも、わたしは……魔法なんて……」
意識をしてやったことではなかった。「救った」と言われても、戸惑うしかない。恨まれても仕方がないことだというのに。
ベルは両手を身体の前で左右に振る。心からの否定の仕草。やがて行場をなくして力なく手を握る。
「礼を言いたかった。私のようなものを救ってくれたことのな」
魔王は地面に跪き、小さなベルと同じ目線になってから謝辞を述べた。角と爪が生えた攻撃的な魔族の見た目から発せられる、月明かりの淡く寄り添うような優しい声。視線は真っ直ぐに向けられている。
「あ……あの……」
跪かれたことなど初めてだ。前世でもない。ベルは返答に困り、口を何度か開閉する。どうしたらよいか分からず、小さな声で「ベル」と自身の名前を出していた。まだ挨拶をしていなかったからだろうか。前の世界では、初対面では名前を名乗るのが常識だ。
「わたしの名前はベル。生まれた花の名前なの」
魔王は指を唇に当て、間を置いてから、
「ベル——」
低く艶のある声で名前を口にした。
ベルの尖った耳が赤くなる。男性的な声の響きがくすぐったい。
「不思議な心地だ……」
魔王の顔には躊躇いのような感情が表れていた。
「あなたの名前は?」
数秒の間。虫が音を鳴らし、葉が揺れる。
「……黎明期第三十七の年、南に至る最も凍てつきし夕闇に産まれ落ちたる緋色の君」
「え?」
ベルはポカンと口を開けて魔王の顔を見つめる。予想していたものとまるで違っていて首を傾げる。魔王は真面目な顔をしている。
「驚いたか? 我ら……上位体に人間のような名はない。形式上、命名はするが、呼び合うものではない。名は気軽に呼んではならないのだ。生まれたときの状況を帳面に記すのみ。呼ぶときは、家名に立場をつける。跡継ぎや末弟など。私は、『荒野の偉大なる捻れ角の一族』の主と呼ばれる。家名は住処からつけられることが多い」
「な、長い……」
「だろうな。だが、妖精も同じようなもののはずだぞ」
まるで落語の寿限無に出てくるような名前だ。とても覚えられない。しかし、名前だから間違っては失礼だ。根が真面目なベルは難しい顔をして、「りょうめい……? ゆうやみ……?」とぶつぶつと呟く。
魔王は取り立てて気にする様子もなく、
「好きに呼べばいい。もう魔王ではないので魔王以外でな」
あっけらかんと言った。
「じゃあ……」
両手の指を絡ませ、ベルは考える。覚えきれないほど長い名前から記憶に残った箇所を思い浮かべ、一つ一つ吟味する。その中の一つに引かれるものがあった。ベルの口から自然とその言葉が紡がれる。
「ひいろ……」
自分の口から飛び出した言葉が耳に届き、音が馴染む。
「ヒイロ」
思いついた言葉をもう一度口に出す。今度はしっかりと「あだ名」という形となった。
魔王——ヒイロは「ふむ……」と考えるような仕草をする。
「あ……いや、今のはただ言ってみただけで……!」
慌てて首を横に振るベル。魔族の王だった人物に気安かったかもしれない。
その様子が面白いのか、魔王は顔を綻ばせ、
「我らでは思いつかない語感のあだ名だ。面白いな」
ベルに向かって頷く。こみ上げてくる笑いを押さえているようだ。頬が微かに震えている。
落ち着いた雰囲気から浮世離れをして見える容姿が、ベルには初めて若い青年のように見えた。
「ここは街に近すぎる。妖精の身体には堪えるだろう。我らの住処へと案内しよう。敵情視察に出向いてベルに会えたのは僥倖だった。貴重な光の者の命だ」
ヒイロは右手を挙げると、虚空から民家ほどの大きさがある怪鳥が現れた。翼を広げると十メートルは軽々と超えそうだ。それを優雅に上下させ、辺りに強風を起こしていた。ヘリコプターが着陸したときがこんな感じかもしれない。
「さあ」
ヒイロがベルに手を差し出す。
「でも……」
ベルの頭に浮かぶのは、ボッカだ。何も言わずに出てきてしまった。クレアとも会話の途中だった。躊躇うも身体の内側からチクチクと針に刺されるような痛みが街に留まることを否定する。人間の街にいても苦しむだけ。根本的に違う生き物だということが身に染みて分かった。魚が陸に上がるようなものだ。
それに記憶に残っているボッカと姫の見つめ合う光景が、ベルを苦しめていた。頭を強く振り、迷いを一時的に追い払う。
「分かった……。でも、これからのことは、自分で考えたい」
「それでいい。まずは休め」
ベルはヒイロの手に乗った。
「悔やむことはない。お前は何も知らなかったのだ。私たちも人間側に妖精がいるなどとは想定してなかった。こちらにも落ち度はある。人間が我らを倒せるはずがないと過信していたのだ」
ベルが顔から手を離し、涙に濡れた眼で魔王を見上げると、尖鋭な爪が器用に動いて涙を拭った。
「我らは上位の存在。使う魔法も創造神より賜ったもの。人間の魔法はそれを真似ただけ。獣に近いものたちは傷つけられようが、どうやっても元素に近い闇の者を倒せやしない。どんなに力の強いものでもな。あの勇者も人間にしては大きな力を持っていたが、所詮は人間。我らの敵ではない。我ら闇の者と肩を並べられるのは、光の者のみ。お前は勇者に力を貸してやっていたな。偶然だったのだろうが、あれは千年ぶりに効いたぞ」
魔王は少し表情を緩める。しかし、ベルにとっては笑いごとではない。どんな表情をしていいのか分からず、わずかに首を横に傾ける。
ライオネスの話によると、人間は、火・水・風・土の魔法を使うということだった。魔族——闇の者も光の者も、それに属さない特別な力になるのだろうか。
ベルの魔法は金色に輝いてボッカの風の魔力を向上させていた。あれが光の力だったのか。
対して魔王が使う魔法は暗闇に溶けてしまいそうな深い紫色をまとっている。妖精のベルは魔王の魔力が見えていた。ボッカたち人間が使う魔法では見なかった色だ。
「わたしは……あなたを……傷つけてしまった……」
声を詰まらせながら後悔の念を伝える。なぜ、今こうして生きているのかは分からないが、確かに命を取ったはず。世界を救うという信念のためとはいえ、取り返しのつかないことをした。
「確かにそうだ。だが、私を救ったのもお前なのだ」
魔王は手のひらを上にしてベルに向ける。獰猛に感じる血のように真っ赤な瞳の奧に情のこもった仄かな光が灯る。
「私の命は確かに尽きた。身体から魂が抜ける前にお前が呼び戻してくれたのだよ。光の術でしかできないことだ。覚えていないのか?」
「え……?」
ベルは魔王城での出来事を思い返した。ボッカに魔法をまとった剣で切り裂かれた魔王。魔王の死を気の毒に思い、祈りを捧げた。そのときに自身から魔力が溢れたようだったが、深く気にしてはいなかった。
「あ、あのとき……? でも、わたしは……魔法なんて……」
意識をしてやったことではなかった。「救った」と言われても、戸惑うしかない。恨まれても仕方がないことだというのに。
ベルは両手を身体の前で左右に振る。心からの否定の仕草。やがて行場をなくして力なく手を握る。
「礼を言いたかった。私のようなものを救ってくれたことのな」
魔王は地面に跪き、小さなベルと同じ目線になってから謝辞を述べた。角と爪が生えた攻撃的な魔族の見た目から発せられる、月明かりの淡く寄り添うような優しい声。視線は真っ直ぐに向けられている。
「あ……あの……」
跪かれたことなど初めてだ。前世でもない。ベルは返答に困り、口を何度か開閉する。どうしたらよいか分からず、小さな声で「ベル」と自身の名前を出していた。まだ挨拶をしていなかったからだろうか。前の世界では、初対面では名前を名乗るのが常識だ。
「わたしの名前はベル。生まれた花の名前なの」
魔王は指を唇に当て、間を置いてから、
「ベル——」
低く艶のある声で名前を口にした。
ベルの尖った耳が赤くなる。男性的な声の響きがくすぐったい。
「不思議な心地だ……」
魔王の顔には躊躇いのような感情が表れていた。
「あなたの名前は?」
数秒の間。虫が音を鳴らし、葉が揺れる。
「……黎明期第三十七の年、南に至る最も凍てつきし夕闇に産まれ落ちたる緋色の君」
「え?」
ベルはポカンと口を開けて魔王の顔を見つめる。予想していたものとまるで違っていて首を傾げる。魔王は真面目な顔をしている。
「驚いたか? 我ら……上位体に人間のような名はない。形式上、命名はするが、呼び合うものではない。名は気軽に呼んではならないのだ。生まれたときの状況を帳面に記すのみ。呼ぶときは、家名に立場をつける。跡継ぎや末弟など。私は、『荒野の偉大なる捻れ角の一族』の主と呼ばれる。家名は住処からつけられることが多い」
「な、長い……」
「だろうな。だが、妖精も同じようなもののはずだぞ」
まるで落語の寿限無に出てくるような名前だ。とても覚えられない。しかし、名前だから間違っては失礼だ。根が真面目なベルは難しい顔をして、「りょうめい……? ゆうやみ……?」とぶつぶつと呟く。
魔王は取り立てて気にする様子もなく、
「好きに呼べばいい。もう魔王ではないので魔王以外でな」
あっけらかんと言った。
「じゃあ……」
両手の指を絡ませ、ベルは考える。覚えきれないほど長い名前から記憶に残った箇所を思い浮かべ、一つ一つ吟味する。その中の一つに引かれるものがあった。ベルの口から自然とその言葉が紡がれる。
「ひいろ……」
自分の口から飛び出した言葉が耳に届き、音が馴染む。
「ヒイロ」
思いついた言葉をもう一度口に出す。今度はしっかりと「あだ名」という形となった。
魔王——ヒイロは「ふむ……」と考えるような仕草をする。
「あ……いや、今のはただ言ってみただけで……!」
慌てて首を横に振るベル。魔族の王だった人物に気安かったかもしれない。
その様子が面白いのか、魔王は顔を綻ばせ、
「我らでは思いつかない語感のあだ名だ。面白いな」
ベルに向かって頷く。こみ上げてくる笑いを押さえているようだ。頬が微かに震えている。
落ち着いた雰囲気から浮世離れをして見える容姿が、ベルには初めて若い青年のように見えた。
「ここは街に近すぎる。妖精の身体には堪えるだろう。我らの住処へと案内しよう。敵情視察に出向いてベルに会えたのは僥倖だった。貴重な光の者の命だ」
ヒイロは右手を挙げると、虚空から民家ほどの大きさがある怪鳥が現れた。翼を広げると十メートルは軽々と超えそうだ。それを優雅に上下させ、辺りに強風を起こしていた。ヘリコプターが着陸したときがこんな感じかもしれない。
「さあ」
ヒイロがベルに手を差し出す。
「でも……」
ベルの頭に浮かぶのは、ボッカだ。何も言わずに出てきてしまった。クレアとも会話の途中だった。躊躇うも身体の内側からチクチクと針に刺されるような痛みが街に留まることを否定する。人間の街にいても苦しむだけ。根本的に違う生き物だということが身に染みて分かった。魚が陸に上がるようなものだ。
それに記憶に残っているボッカと姫の見つめ合う光景が、ベルを苦しめていた。頭を強く振り、迷いを一時的に追い払う。
「分かった……。でも、これからのことは、自分で考えたい」
「それでいい。まずは休め」
ベルはヒイロの手に乗った。
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