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最終夜
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*****
「イヤッ……!」
ひよりは立ち上がらずに地面を転がる。この行動が功を奏し、金属棒が空振って地面を叩く。カツンという甲高い音がする。
通り魔は体勢を崩し、片膝を突く。血走った目でひよりを睨みつけ、「この女ッ!」と叫んで立ち上がろうとし――。
『こっちだ……』
突如として聞こえた低い声に男の身体が跳ねる。他に人がいたのか? 辺りを確認したはずだった。予想外の目撃者の存在に焦る男は声が聞こえる方を向く。
視線の先には、雨上がりの濡れた道路にできた大きな水溜まり。真上にある街灯が煌々と照らし、水面にはっきりと景色を映し出していた。手前にあるのは男自身の顔ではなく、見知らぬ不健康そうな人物の姿。
「は……?」
男は混乱する。鏡面に映るのは目の前にあるものではなかったのか。思わず水溜まりをさらに覗き込んだ。瞳の中に水溜まりが映る。
『ああ、よかった……。こっちを見てくれて』
水溜まりに映る男が喋る。両手を前へ伸ばし、水溜まりから浮き上がり、姿を現す。「像」だったものが立体になる。まるで競り上がる噴水のよう。その姿を通り魔の瞳ははっきりと捉えていた。
『鏡の世界へようこそ』
水溜まりと瞳、図らずもこの二つは合せ鏡になっていた。
ひよりの通勤鞄が地面に落ち、中身を地面にばら蒔いたとき、各務が潜む卓上ミラーも外へ投げ出された。そして、鏡面が水溜まりを映し、各務が水溜まりへ移動する。通り魔はそれを見たのだ。さらに各務は通り魔の瞳へ吸い込まれ——。
各務と入れ替わるようにして通り魔の意識は身体から弾き出されて水溜まりに吸い込まれる。人知の及ばない力の前では抗えない。
『いやだぁあああッ!』
通り魔が全身で叫んだ声は周囲にはまるで聞こえなかった。そこにあるのは、静かな夜と何の変哲もない水溜まり。翌日にはすっかり乾いて何も失くなっていた。
5
平日の夜、ひよりはラフな部屋着姿でパソコンに向かっていた。紅茶を口にしつつ、画像ソフトと奮闘する。
通り魔に襲われてから一ヶ月が経った。あれからすぐに会社を退社し、デザイナーの個人事業を立ち上げた。
親友に誘われた仕事は業務提携という形を取って協力している。優先的に依頼を受ける代わりに、仕事内容は作品実績集として利用することになった。お陰で新規の仕事が順調に入ってきている。親友の店ではロゴや商品画像の構図からサイトのデザインまで多岐に渡り手を加えさせてもらった。皮肉なことに前職場で様々な仕事をやっていたことが大いに役立った。できることが多い方がフリーとして売りになる。早くに一定の収入が見込めるようになったのは有り難いことだ。何より会社勤めの頃に困らせられていたストレスから解放された。
ひよりが身体を反らして伸びをすると、玄関のチャイムが鳴った。「またか」とじっとりとした目つきをしてから腰を浮かす。玄関の開けた先には茶髪の目鼻立ちの通ったスーツ姿の男が立っていた。一ヶ月前にひよりを道端で襲った男だ。
「また来たの?」
腰に手を当てて呆れた顔をするひよりに向かい、「ひよりさーん」と口を開けた男の表情は締まりがなく、整った顔立ちには不似合いだ。
「ココ、完全男性禁制ではないけど、あまり出入りすると怒られるんだよね」
溜息一つ吐き、目元が緩んでいる男に口を曲げる。
「分かってるの? カガミくん」
「こういう顔なんですってば」
カガミと呼ばれた男はへらへらとした顔つきで後ろ頭を掻く。
各務は合せ鏡を作り出し、通り魔と交代した。各務の意識は通り魔の身体に。通り魔の意識は恐らく水溜まりの中だ。咄嗟の行動だったので、各務自身も何が起こったのかは正しく理解していない。水溜まりが消えたところで通り魔の中身がどうなったか知る由もない。
着ぐるみに入るように通り魔の身体に移った各務は、鏡に姿を映しても移動することはなくなった。身体に意識が定着したのかもしれない。現状については分からないことだらけだが、かつてのように合せ鏡の間で投身するような実験などしたくはない。成り行きに任せて通り魔の男として生活し始めた。
身体に残っている記憶を浚い、男になり済ます。男は裕福な家庭の生まれ、一流商社に役職者として勤めている。恵まれに恵まれた環境に各務は複雑な顔をしつつも、生真面目に毎日出社した。記憶を頼りにするだけでは心許ない。社内をよく観察し、取り扱い商品について退社後にこつこつと学び、徐々に会社に馴染んでいった。
部下に面倒な仕事を押しつけ、のらりくらりと社会人生活を送っていた男の変化に周囲は違和感を抱かなかったらしい。元社畜の勤勉さが発揮され、積極的に業務をこなしていくようになってからは、取り巻きだった一部の女性社員以外からは好評価を得た。
他人からすぐに信用を得られる恵まれた外見と地位に、仕事がし易いと各務は感動し、さらに熱心に仕事に取り組んでいるところだ。
こうして人間としての生活を取り戻しつつある各務はひよりの元へ足繁く通う。世代格差により今の時代にまだまだ慣れておらず、他人に成り済ます生活への疲れもあり、事情を知るひよりの元だと安心するらしい。
「もー。そのうち大家さんに怒られるー」
ひよりは各務にコーヒーを渡して口を尖らせる。対する各務は気にする様子もなく呑気なもの。
「だから、ルームシェアしましょうよー」
覚えたての言葉を楽しげに口にする。通り魔本人だった頃と比べ、険が取れて人懐っこい大型犬なような雰囲気すらある。
通り魔は金銭的余裕があるからか、タワーマンションの高層階に住んでいた。通帳で家賃を知った庶民の各務は青くなり、すぐに解約して格安のマンスリーマンションに移り住んだらしい。浮いた金と貯金を合わせて通り魔が襲った被害者に匿名で見舞金を送った。本人に謝らせることはもうできないから、できる限り形にした。今は環境が整った定住先を探しているらしいが——。
「もっと広くて設備が充実したところに住めますよ」
「うっ! それは魅力的な話だけど……」
「ですよねー!」
鏡男はもういない。人間としての新しい人生を得た。水溜まりごと消えた通り魔はどこへ行ってしまったのか。水と共に蒸発してしまったのか。それとも、どこかに移っていったのだろうか。誰も知るものはいない。
「イヤッ……!」
ひよりは立ち上がらずに地面を転がる。この行動が功を奏し、金属棒が空振って地面を叩く。カツンという甲高い音がする。
通り魔は体勢を崩し、片膝を突く。血走った目でひよりを睨みつけ、「この女ッ!」と叫んで立ち上がろうとし――。
『こっちだ……』
突如として聞こえた低い声に男の身体が跳ねる。他に人がいたのか? 辺りを確認したはずだった。予想外の目撃者の存在に焦る男は声が聞こえる方を向く。
視線の先には、雨上がりの濡れた道路にできた大きな水溜まり。真上にある街灯が煌々と照らし、水面にはっきりと景色を映し出していた。手前にあるのは男自身の顔ではなく、見知らぬ不健康そうな人物の姿。
「は……?」
男は混乱する。鏡面に映るのは目の前にあるものではなかったのか。思わず水溜まりをさらに覗き込んだ。瞳の中に水溜まりが映る。
『ああ、よかった……。こっちを見てくれて』
水溜まりに映る男が喋る。両手を前へ伸ばし、水溜まりから浮き上がり、姿を現す。「像」だったものが立体になる。まるで競り上がる噴水のよう。その姿を通り魔の瞳ははっきりと捉えていた。
『鏡の世界へようこそ』
水溜まりと瞳、図らずもこの二つは合せ鏡になっていた。
ひよりの通勤鞄が地面に落ち、中身を地面にばら蒔いたとき、各務が潜む卓上ミラーも外へ投げ出された。そして、鏡面が水溜まりを映し、各務が水溜まりへ移動する。通り魔はそれを見たのだ。さらに各務は通り魔の瞳へ吸い込まれ——。
各務と入れ替わるようにして通り魔の意識は身体から弾き出されて水溜まりに吸い込まれる。人知の及ばない力の前では抗えない。
『いやだぁあああッ!』
通り魔が全身で叫んだ声は周囲にはまるで聞こえなかった。そこにあるのは、静かな夜と何の変哲もない水溜まり。翌日にはすっかり乾いて何も失くなっていた。
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平日の夜、ひよりはラフな部屋着姿でパソコンに向かっていた。紅茶を口にしつつ、画像ソフトと奮闘する。
通り魔に襲われてから一ヶ月が経った。あれからすぐに会社を退社し、デザイナーの個人事業を立ち上げた。
親友に誘われた仕事は業務提携という形を取って協力している。優先的に依頼を受ける代わりに、仕事内容は作品実績集として利用することになった。お陰で新規の仕事が順調に入ってきている。親友の店ではロゴや商品画像の構図からサイトのデザインまで多岐に渡り手を加えさせてもらった。皮肉なことに前職場で様々な仕事をやっていたことが大いに役立った。できることが多い方がフリーとして売りになる。早くに一定の収入が見込めるようになったのは有り難いことだ。何より会社勤めの頃に困らせられていたストレスから解放された。
ひよりが身体を反らして伸びをすると、玄関のチャイムが鳴った。「またか」とじっとりとした目つきをしてから腰を浮かす。玄関の開けた先には茶髪の目鼻立ちの通ったスーツ姿の男が立っていた。一ヶ月前にひよりを道端で襲った男だ。
「また来たの?」
腰に手を当てて呆れた顔をするひよりに向かい、「ひよりさーん」と口を開けた男の表情は締まりがなく、整った顔立ちには不似合いだ。
「ココ、完全男性禁制ではないけど、あまり出入りすると怒られるんだよね」
溜息一つ吐き、目元が緩んでいる男に口を曲げる。
「分かってるの? カガミくん」
「こういう顔なんですってば」
カガミと呼ばれた男はへらへらとした顔つきで後ろ頭を掻く。
各務は合せ鏡を作り出し、通り魔と交代した。各務の意識は通り魔の身体に。通り魔の意識は恐らく水溜まりの中だ。咄嗟の行動だったので、各務自身も何が起こったのかは正しく理解していない。水溜まりが消えたところで通り魔の中身がどうなったか知る由もない。
着ぐるみに入るように通り魔の身体に移った各務は、鏡に姿を映しても移動することはなくなった。身体に意識が定着したのかもしれない。現状については分からないことだらけだが、かつてのように合せ鏡の間で投身するような実験などしたくはない。成り行きに任せて通り魔の男として生活し始めた。
身体に残っている記憶を浚い、男になり済ます。男は裕福な家庭の生まれ、一流商社に役職者として勤めている。恵まれに恵まれた環境に各務は複雑な顔をしつつも、生真面目に毎日出社した。記憶を頼りにするだけでは心許ない。社内をよく観察し、取り扱い商品について退社後にこつこつと学び、徐々に会社に馴染んでいった。
部下に面倒な仕事を押しつけ、のらりくらりと社会人生活を送っていた男の変化に周囲は違和感を抱かなかったらしい。元社畜の勤勉さが発揮され、積極的に業務をこなしていくようになってからは、取り巻きだった一部の女性社員以外からは好評価を得た。
他人からすぐに信用を得られる恵まれた外見と地位に、仕事がし易いと各務は感動し、さらに熱心に仕事に取り組んでいるところだ。
こうして人間としての生活を取り戻しつつある各務はひよりの元へ足繁く通う。世代格差により今の時代にまだまだ慣れておらず、他人に成り済ます生活への疲れもあり、事情を知るひよりの元だと安心するらしい。
「もー。そのうち大家さんに怒られるー」
ひよりは各務にコーヒーを渡して口を尖らせる。対する各務は気にする様子もなく呑気なもの。
「だから、ルームシェアしましょうよー」
覚えたての言葉を楽しげに口にする。通り魔本人だった頃と比べ、険が取れて人懐っこい大型犬なような雰囲気すらある。
通り魔は金銭的余裕があるからか、タワーマンションの高層階に住んでいた。通帳で家賃を知った庶民の各務は青くなり、すぐに解約して格安のマンスリーマンションに移り住んだらしい。浮いた金と貯金を合わせて通り魔が襲った被害者に匿名で見舞金を送った。本人に謝らせることはもうできないから、できる限り形にした。今は環境が整った定住先を探しているらしいが——。
「もっと広くて設備が充実したところに住めますよ」
「うっ! それは魅力的な話だけど……」
「ですよねー!」
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