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竜の御子達
終わりは始まり
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見渡す限りの黒の大地、「黒の荒野」を踏破した。いや、踏破する直前まで進んだのは、更に一晩を歩き通し、昇った日がそろそろ傾く頃だった。
ようするにほぼ丸二日掛けてこの不毛の大地を横断したことになる。
夜間に吹き荒ぶ方向も定まらない強風と、見えない場所を歩く不安、ただひたすらに堅く尖った大地。それと、乾いた風に煽られ続けたせいなのか、水分を切らした訳でもないのに酷く枯れた喉。
視界から黒い地面が途切れ、緑の一端が見えた時には、誰もがもはや倒れ込んでしまう程、疲れ切り、足も限界を越えていた。
こういう状況では、本来は一人元気なはずのサッズも、他人とは違う意味で限界を過ぎている。
『あ~、サッズ、おーい』
ぐったりと、本来の姿の時の名残なのか足を抱え込むように丸くなって横たわっているサッズに、ライカは遠慮がちに声を掛けた。
ライカ自身の足は皮が何度か破れた末に真っ赤になっており、なにやら痛々しい感じに腫れているが、ここで痛いと叫んで転げまわれるような性分でもなく、常に火で炙られているような痛みを頭の片隅に丸めて押し込め、今は他のこと、主にサッズの状態に意識を集中させている。
その代わりのようにサッズの挙動不審は先夜から更に酷くなり、とうとう意識が捉えられなくなったと思ったら、隊商全体の足が止まった途端に、丸まって地面に転がってしまった。
ライカとしては余裕の無い中でもその様子が心配で、ずっとこまめに呼びかけていたのだが、どうもその意識が一段深い所に落ちてしまったらしく、ずっと手応えが薄かった。
それでもここまで進む途中で歩みが乱れたということは無かったのだから、隊列に付いて歩くのは反射行動としてどうやら自らの体に仕込んでいたようだ。
『サッズ、大丈夫?』
さすがにこの状態はまずいと判断したライカは、腰帯に挟んだ物入れ袋から、数個入ってる小さな木の実の容器を取り出し、そこから飴を一個出して誕生日に祖父から貰ったナイフでそれを少し削る。
「『口を開けて』」
それは人の言葉ではない言葉。口笛に少し似ているが、普通の音のように唇を通した息で作った音ではなかった。
喉の更に奥、体の隅々が振動しているような感覚で『鳴る』声。
それは鳥の囀りにも似た、竜の言葉だ。
ふ、と、サッズの見開いたままの目に意識が浮かび、僅かに口が開く。
ライカはそこに削り落とした飴のカケラを突っ込んだ。
最初ぼんやりとした顔つきが、やがて明確に意識を浮かべて目を瞬かせる。
「『あ、懐かしい匂いだ』」
『大丈夫?』
クゥウウ? という、仔竜らしい懐かしい声に少しだけ和みながらも、ライカは少し強めに心声を送った。
『大丈夫だ、悪い。竜桂樹、じゃなくて肉桂だっけ?』
『そう、あれの飴を少し持って来ておいたんだ。とっておきだからあんまり沢山はダメだけど、もう少しいる?』
『幼体じゃあるまいし、のべつまくなしに乳を欲しがったりしないぞ』
『分かった。じゃ、また何かの時用にとっておくね』
『あ……』
あからさまに残念そうな顔をするサッズに、ライカは笑いかけながら、やっと心からホッとする。
天上種族と竜たちが呼ぶ、彼等竜を初めとする前代の生き物は肉体の損傷よりも精神的な衝撃に弱かった。
人間なら容易に耐えられるような精神的な小さな負担が、彼等には致命の一撃となる場合すらあるのだ。
「ごめんね、俺が自分の感覚を遮断出来れば良かったんだけど」
「ばぁか、こんな近くで輪の巡りを止められるもんか」
軽く応えて、しかし、サッズの顔はどこか憮然としていた。
ライカからしてみれば、サッズは痛みという彼等にとって不自然な感覚にずっと触れながらも、それを感情で振り払おうとせずに耐え続けたのだから、その精神力を自慢してもいいぐらいだと思うのだが、やはりサッズの矜持からすれば自分が情けないという思いになってしまうのだろう。
それをあえて慰めたりはしないのが、ライカの家族としての在り方だった。
「この難所もやっと終わるみたいだよ。それにしても、ここの風が夜になるとあんなに荒れるのはどうしてなんだろう?」
ライカは先に見える黒い地面の終わりを示すと、それまでの気分を変える為にも質問をしてみる。
サッズはそれに対して指を下に向けて地面を示した。
「ここ、触ってみるとちょっとあったかいだろ?」
ライカは言われた通り地面を触り、その温度を確かめる。
「あ、ほんとだ」
「太陽の熱を吸い易いってのもあるんだろうけど、どうやら地下に熱があるらしくてここらの地面は温度が高めだ。一方で高い所の大気は太陽が沈むとたちまち熱を下げる。それに比べて地面の近くの大気は地面の熱を受けてあったかいままになる。ここでまず上と下の温度差が広がる。熱い大気ってのは冷たい大気より軽いから地面近くの暖かいものは上に上がる。そうすると下から上に一気に大気が動いて、同時に上から押し出された大気は他に行き場が無いから下に降りる。それで風が起こるって感じだろうな。しかもこの地面の熱は一定じゃない。あちこちで温度が違ってるんだ。それであんなめちゃくちゃな風が吹きまくるって訳だな」
「へー、面白いね。サッズが意外と物知りだってことのほうが実は驚きだけど」
「あんなぁ、大気を扱うのは俺の血統の存在根幹にあたる部分だから。記憶の継承無しでも無意識の知識として持ってんだよ」
ライカの滅多にない手放し(?)の賞賛に、サッズは少し自慢げだ。
ライカは微笑みながら、「自分で学んだ訳でもない血統の知識を自慢するのはどうかと思う」という言葉が形になる前に飲み込むと、そのまま機嫌の良いサッズの顔を眺めていたのである。
「黒の荒野」の端が見えてホッとする大部分とは別に、隊商を預かる者たちは、森を進んでいた時以上の緊張感に包まれていた。
なぜなら、この黒の荒野を越えて土の大地に入るその周辺には、今でもほぼ必ず野盗が出るのである。
ここを越えた人間は例外なく疲れ切っている。そこを狙われるのだ。
「とりあえず進路の警戒に出てくれるかな? 用心棒のお二人」
隊商の長ショソルは、常日頃の大声を抑えてひそりと声を落とす。
その声に応えるように、いかにも今しがたまで馬車の中で惰眠を貪っていましたと全力で主張するような態度で、特徴のありすぎる二人の男が馬車から軽く返事を返し、飛び降りる。
「ようやく狩りか? 獲物は何匹だぁ? てごたえはちゃんとあるような連中なんだろうな、へっ」
痩身長躯の男が酷薄そうな笑みでそう言うと、対照的にがっちりとしたその分厚い身体の重量だけで人を圧死させられそうな巨漢が無言で体を揺すって見せた。
早くしろという事らしい。
荷を引かせなかったニ頭の馬が、それぞれの背に死の使いのような男達を乗せて駆け出したのはそれからすぐのことだった。
その背を、忌々しいのか頼もしいのか自身でも判断のつかない気分で見送ると、隊商長は疲労の極みにある自分の隊商の仲間の元へと向かう。
「よし! このくそ忌々しい地面もあとちょっとだ! 最後の力を出すために、疲れた体に渇を入れるぞ!」
いつもの割れ鐘のような怒鳴り声が、疲れて座り込んだ者達の頭上に降り注ぐ。
だがいつもならまばらにはある返事が今回は全く上がらなかった。
隊商長にしてもそこは予定の内なのだろう、気にする風もなく更に言葉を続ける。
「なんと、豪勢に肉と酒の振る舞いだ! どうだ、驚いたろう?」
その言葉に、にやりとしたその顔を呆けたように眺めていた半死人のような男達が、やがて驚きから覚めて歓声を上げたのは言うまでも無かった。
ようするにほぼ丸二日掛けてこの不毛の大地を横断したことになる。
夜間に吹き荒ぶ方向も定まらない強風と、見えない場所を歩く不安、ただひたすらに堅く尖った大地。それと、乾いた風に煽られ続けたせいなのか、水分を切らした訳でもないのに酷く枯れた喉。
視界から黒い地面が途切れ、緑の一端が見えた時には、誰もがもはや倒れ込んでしまう程、疲れ切り、足も限界を越えていた。
こういう状況では、本来は一人元気なはずのサッズも、他人とは違う意味で限界を過ぎている。
『あ~、サッズ、おーい』
ぐったりと、本来の姿の時の名残なのか足を抱え込むように丸くなって横たわっているサッズに、ライカは遠慮がちに声を掛けた。
ライカ自身の足は皮が何度か破れた末に真っ赤になっており、なにやら痛々しい感じに腫れているが、ここで痛いと叫んで転げまわれるような性分でもなく、常に火で炙られているような痛みを頭の片隅に丸めて押し込め、今は他のこと、主にサッズの状態に意識を集中させている。
その代わりのようにサッズの挙動不審は先夜から更に酷くなり、とうとう意識が捉えられなくなったと思ったら、隊商全体の足が止まった途端に、丸まって地面に転がってしまった。
ライカとしては余裕の無い中でもその様子が心配で、ずっとこまめに呼びかけていたのだが、どうもその意識が一段深い所に落ちてしまったらしく、ずっと手応えが薄かった。
それでもここまで進む途中で歩みが乱れたということは無かったのだから、隊列に付いて歩くのは反射行動としてどうやら自らの体に仕込んでいたようだ。
『サッズ、大丈夫?』
さすがにこの状態はまずいと判断したライカは、腰帯に挟んだ物入れ袋から、数個入ってる小さな木の実の容器を取り出し、そこから飴を一個出して誕生日に祖父から貰ったナイフでそれを少し削る。
「『口を開けて』」
それは人の言葉ではない言葉。口笛に少し似ているが、普通の音のように唇を通した息で作った音ではなかった。
喉の更に奥、体の隅々が振動しているような感覚で『鳴る』声。
それは鳥の囀りにも似た、竜の言葉だ。
ふ、と、サッズの見開いたままの目に意識が浮かび、僅かに口が開く。
ライカはそこに削り落とした飴のカケラを突っ込んだ。
最初ぼんやりとした顔つきが、やがて明確に意識を浮かべて目を瞬かせる。
「『あ、懐かしい匂いだ』」
『大丈夫?』
クゥウウ? という、仔竜らしい懐かしい声に少しだけ和みながらも、ライカは少し強めに心声を送った。
『大丈夫だ、悪い。竜桂樹、じゃなくて肉桂だっけ?』
『そう、あれの飴を少し持って来ておいたんだ。とっておきだからあんまり沢山はダメだけど、もう少しいる?』
『幼体じゃあるまいし、のべつまくなしに乳を欲しがったりしないぞ』
『分かった。じゃ、また何かの時用にとっておくね』
『あ……』
あからさまに残念そうな顔をするサッズに、ライカは笑いかけながら、やっと心からホッとする。
天上種族と竜たちが呼ぶ、彼等竜を初めとする前代の生き物は肉体の損傷よりも精神的な衝撃に弱かった。
人間なら容易に耐えられるような精神的な小さな負担が、彼等には致命の一撃となる場合すらあるのだ。
「ごめんね、俺が自分の感覚を遮断出来れば良かったんだけど」
「ばぁか、こんな近くで輪の巡りを止められるもんか」
軽く応えて、しかし、サッズの顔はどこか憮然としていた。
ライカからしてみれば、サッズは痛みという彼等にとって不自然な感覚にずっと触れながらも、それを感情で振り払おうとせずに耐え続けたのだから、その精神力を自慢してもいいぐらいだと思うのだが、やはりサッズの矜持からすれば自分が情けないという思いになってしまうのだろう。
それをあえて慰めたりはしないのが、ライカの家族としての在り方だった。
「この難所もやっと終わるみたいだよ。それにしても、ここの風が夜になるとあんなに荒れるのはどうしてなんだろう?」
ライカは先に見える黒い地面の終わりを示すと、それまでの気分を変える為にも質問をしてみる。
サッズはそれに対して指を下に向けて地面を示した。
「ここ、触ってみるとちょっとあったかいだろ?」
ライカは言われた通り地面を触り、その温度を確かめる。
「あ、ほんとだ」
「太陽の熱を吸い易いってのもあるんだろうけど、どうやら地下に熱があるらしくてここらの地面は温度が高めだ。一方で高い所の大気は太陽が沈むとたちまち熱を下げる。それに比べて地面の近くの大気は地面の熱を受けてあったかいままになる。ここでまず上と下の温度差が広がる。熱い大気ってのは冷たい大気より軽いから地面近くの暖かいものは上に上がる。そうすると下から上に一気に大気が動いて、同時に上から押し出された大気は他に行き場が無いから下に降りる。それで風が起こるって感じだろうな。しかもこの地面の熱は一定じゃない。あちこちで温度が違ってるんだ。それであんなめちゃくちゃな風が吹きまくるって訳だな」
「へー、面白いね。サッズが意外と物知りだってことのほうが実は驚きだけど」
「あんなぁ、大気を扱うのは俺の血統の存在根幹にあたる部分だから。記憶の継承無しでも無意識の知識として持ってんだよ」
ライカの滅多にない手放し(?)の賞賛に、サッズは少し自慢げだ。
ライカは微笑みながら、「自分で学んだ訳でもない血統の知識を自慢するのはどうかと思う」という言葉が形になる前に飲み込むと、そのまま機嫌の良いサッズの顔を眺めていたのである。
「黒の荒野」の端が見えてホッとする大部分とは別に、隊商を預かる者たちは、森を進んでいた時以上の緊張感に包まれていた。
なぜなら、この黒の荒野を越えて土の大地に入るその周辺には、今でもほぼ必ず野盗が出るのである。
ここを越えた人間は例外なく疲れ切っている。そこを狙われるのだ。
「とりあえず進路の警戒に出てくれるかな? 用心棒のお二人」
隊商の長ショソルは、常日頃の大声を抑えてひそりと声を落とす。
その声に応えるように、いかにも今しがたまで馬車の中で惰眠を貪っていましたと全力で主張するような態度で、特徴のありすぎる二人の男が馬車から軽く返事を返し、飛び降りる。
「ようやく狩りか? 獲物は何匹だぁ? てごたえはちゃんとあるような連中なんだろうな、へっ」
痩身長躯の男が酷薄そうな笑みでそう言うと、対照的にがっちりとしたその分厚い身体の重量だけで人を圧死させられそうな巨漢が無言で体を揺すって見せた。
早くしろという事らしい。
荷を引かせなかったニ頭の馬が、それぞれの背に死の使いのような男達を乗せて駆け出したのはそれからすぐのことだった。
その背を、忌々しいのか頼もしいのか自身でも判断のつかない気分で見送ると、隊商長は疲労の極みにある自分の隊商の仲間の元へと向かう。
「よし! このくそ忌々しい地面もあとちょっとだ! 最後の力を出すために、疲れた体に渇を入れるぞ!」
いつもの割れ鐘のような怒鳴り声が、疲れて座り込んだ者達の頭上に降り注ぐ。
だがいつもならまばらにはある返事が今回は全く上がらなかった。
隊商長にしてもそこは予定の内なのだろう、気にする風もなく更に言葉を続ける。
「なんと、豪勢に肉と酒の振る舞いだ! どうだ、驚いたろう?」
その言葉に、にやりとしたその顔を呆けたように眺めていた半死人のような男達が、やがて驚きから覚めて歓声を上げたのは言うまでも無かった。
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