セクハラ上司を拒絶して辺境に左遷されたけど、白狼の守護神獣の愛が重すぎる

星乃あお

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セクハラ上司を拒絶して辺境に左遷されたけど、白狼の守護神獣の愛が重すぎる

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「……あ……やめ……っ、つか……肉体を、繋ぐって……さっさと、無理やりにでも……俺の中に、毒を叩き込めばいいじゃないか……ッ!」

 熱に浮かされた抗議の声は、熱く湿った舌先によって強引に塞がれた。

 「……んぐっ!? ……ぁ、ふ……っ!」

 逃げ場のない黒曜石こくようせき天蓋てんがいの下。視界を覆い尽くす白銀はくぎんの髪と、俺を押さえ込む圧倒的な質量。俺の最も敏感な場所ばかりを執拗に攻め立てる、獣の獰猛な愛撫。
  事務官じむかんとして死に物狂いで維持してきた理性は、下腹部から突き上がってくる暴力的な快楽の前で、無残に溶かされていく。

 耳元で、熱い吐息と共に、地響きのような低い声が囁いた。

 「……ハル。お前が『俺を使え』と言ったのだ。……今さら、逃げられると思うなよ。……お前が俺の地獄を半分背負うというのなら、俺のこの熱も、一滴残らずその身に刻み込んでやる」

 低く、けれど切実な響きを含んだ執着の宣言。
  喉元を這い上がる熱い舌先と、全身を貫く、狂おしいほどの魔力の奔流ほんりゅう
  全ては、その圧倒的な「熱」と「質量」の前ではあまりに無力だった。

(……っ、なんで、こんなことに……)



 俺はこの日、自分の尊厳と引き換えに、辺境へんきょうへ送られた。

 深い森。耳に届くのは、風に揺れるこずえの音と、鳥の鋭い鳴き声。

 ……あと、俺の激重な溜息だけだ。

 木々に飲み込まれるように建つ巨大な石造りの離宮――「やしろ」を見上げ、俺は天を仰いだ。

 辺境離宮、守護神獣管理局しゅごしんじゅうかんりきょく 守護神獣付御世話がかり

 それが、王都中央官庁のキャリア事務官じむかんだった俺に叩きつけられた新しい肩書かたがきだ。

 主な職務は、白銀の巨狼の化身――守護神獣しゅごしんじゅうの世話。
 および、魔力暴走でメンタルをやられた神獣様をお慰めし、平穏を取り戻させること。

 俺の両手には、支部の職員に「これで神獣様のご機嫌を取ってください」と持たされた、高級酒と食料。
 そして何故か、モップとバケツなどの掃除道具類。

(……俺は難関国家試験を突破した事務官であって、動物園の飼育員兼清掃員じゃないんだが?)

「……本当に、こんな地の果てまで左遷させんされるなんてな。笑えねぇ」

 独り言は、やり場のない虚しさとともに森の闇へと吸い込まれていった。

 死に物狂いで積み上げてきたキャリアも、充実した王都ライフも、すべては泡と消えた。

 連日の超激務。サービス残業という名の奉仕活動。
 吐き気がするほどブラックな職場環境と、上司のねっとりしたセクハラ。
 自分を殺して耐えてきた日々。

 それなのに、たった一度「正論」という名の右ストレートをぶちかましただけで、俺の居場所は一瞬で消し飛んだのだ。

 ◆

 三日前。深夜二時過ぎの王都中央官庁。

「相変わらず精が出るね、ハルくん」

 俺の背後に、不気味なほど無音で「その男」は現れた。事務次官じむじかん
 この官庁の裏のトップであり、人事という名の生殺与奪権せいさつよだつけんを握る男だ。

「……次官。お疲れ様です」

 機械的に立ち上がって頭を下げた瞬間、肩にねっとりとした感触が張り付いた。
 あまりの気持ち悪さに背中が猛烈な拒絶反応きょぜつはんのうを示す。

「いつ見ても綺麗な横顔だね、ハルくん。その漆黒の髪も、冷ややかな濃紺の瞳も……事務官にしておくのはもったいないくらいだよ。どうだい、私の特別室で、今後のキャリアについてじっくり二人きりで――」

 こんなことは今まで何度もあった。
 いつもなら「角の立たない断り文句」を秒速で捻り出せていたはずだった。

 けれど、極限まで睡眠時間を削られたブラックな環境は、俺の「社会人としての建前」を綺麗さっぱり焼き尽くしていた。

 クソジジイの手が俺の尻に触れた瞬間、自分でも驚くほど、鋭い声が出た。

「……離せよ、クソジジイ」

「えっ……」

 一度決壊したダムは止まらない。
 呆然とする次官の手を叩き払い、一歩踏み込む。

「離せっつったんだよ! 権力を笠に着なきゃ若い男一人も抱けない無能が俺に触るな!」

 男は固まり、顔を真っ赤にして何かを喚き散らしながら逃走した。

 その三日後。爆速で届いた報復は、特命という名の片道切符。

 ――『辺境離宮、守護神獣管理局にて守護神獣付御世話掛を命ず』

 こうして俺は、地図の端へと放り出された。
 事実上の左遷である。

 齢26歳。出世コースからは完全に脱線したが、無職になるほど愚かでもない。幸い、辺境でも給料は変わらないしなんなら、辺境手当と宿舎も用意されていた。
 
(……今はこの辺境でしばらく身の振り方を考えよう)

 そう開き直って、俺はこの地の土を踏んだ。

 ◆

 神獣が住まう離宮の重厚な扉を開いた俺に、辺境支部の支部長が資料を差し出した。

「……ハルさん。この資料は超・秘匿事項ひとくじこうです」

 一読し、俺は絶句した。
 そこには驚愕の国家機密(という名の不祥事)が書かれていた。

 三百年の間、辺境で結界を維持し、魔物から国を護り続けている英雄・狼の守護神獣「白銀の君」。

 だがその実態は、「隷属の首輪」で繋がれ、休暇なし、交代なし、福利厚生ゼロ。
 三百年もぶっ通し労働を強いられている、超絶ブラック環境の囚人そのものだった。

 この離宮は英雄の住処などではなく、神獣を使い潰すための巨大な檻だったのである。

 その上、今は魔力暴走という命に関わる危機に晒されているという。

 支部長は「人選が難航した」だの「あなたしかいない」だの涙ながらに訴えてくる。

(……なるほどな。支部長は言葉を選んでいるが、要するにこういうことだ)

 国にとって厄介な神獣の「暴走」という爆弾の処理班に、俺が選ばれたわけだ。

 左遷どころじゃない。あのクソジジイ。

 だが、この「ブラックすぎる実態」を知った今、俺の中に別の感情が芽生えていた。

 必死に尽くした組織に裏切られ、理不尽に飛ばされた俺。
 救国の英雄と持ち上げられながら、三百年も有給すら取れずに搾取さくしゅされている神獣。

(……この神獣、俺と同じ、いやそれ以上に報われなさすぎるだろ……)

 ——笑えない。
 胃の底に、冷たいものが沈んだ。

「……分かりました。支部長」

 それは単なる仕事への同意じゃない。
 俺たちを使い捨てにする「クソみたいな組織」への、ささやかな反逆だ。

 絶望は、いつの間にかこの「仕事」をやり遂げてやるという覚悟にかわっていた。

「お慰めでも清掃でも、やってやりますよ。……あいにく俺は、王都のクソみたいな職場で、可愛げのないほど頑丈に鍛えられてきたんでね」

 ◆

 支部長と別れ、俺は離宮の最奥へと続く重厚な扉の前に立った。

 隙間から漏れ出すのは、肌が焼けるような強烈な魔力の「熱」。
 普通の人間なら、足が竦んで一歩も動けなくなるほどの威圧感だ。
 だが、俺は一度深く息を吸い込み――。

――重厚な扉を、力任せに押し開いた。

 部屋の中に踏み込んだ瞬間、むせ返るような白檀に似た冷たくも熱い、神聖な香り。
 バチバチと暴走する魔力の火花が視界をよぎった。

 薄暗い大部屋の奥、巨大な黒曜石の天蓋付きの寝台。
 そこに、白銀の長い髪を乱し、苦しげに肩を上下させている「男」がいた。

 ただ、人と違うのはその「男」の身体には、狼に似た耳と、ふさふさとした尾がついていることだ。

(……人型の時もあると資料には書いていたけど、これが守護神獣「白銀の君」か)

 その首元と手足には、国の紋章が刻まれた無機質な銀のかせが嵌められ、太い鎖が床に繋がれている。

 はだけた寝衣から覗く胸元は逞しく、その肌には魔力の暴走を抑えるためか、呪印じゅいんのような紋様が浮かび上がっている。

 巨大な白銀の狼を想像していた俺は、あまりの「人間らしさ」に驚いた。
 それゆえに、この男を三百年間も閉じ込めてきた国の残酷さが、生々しく胸を突く。
 まさに最悪のブラック監禁環境。

「……誰だ……」

 地響きのような、低く掠れた声。
 男がゆっくりと顔を上げた。乱れた銀髪の間から覗く、銀色の耳が不機嫌そうに低く伏せられ、寝台に横たわる大きな尾が、苛立ちを示すようにバサリとシーツを叩いた。

 乱れた銀髪の隙間から覗く、鋭い黄金の瞳。

 暗闇の中で猛獣のように光るその瞳には、すべてを焼き尽くすような破壊の衝動と、それを必死に抑え込もうとする絶望的なまでの自制心が同居していた。

 普通の人間なら、この美しさと威圧感に気圧されて逃げ出すだろう。

 だが、俺は事務官としてのプロ根性を呼び覚まし、一歩前へ踏み出した。
 黄金の瞳が俺を捉え、空気がビリビリと震える。

(……思ったより辛そうだな。おまけに鎖付きか。動物愛護団体が見たら発狂するぞ、これ)

 俺は眉を寄せ、荷物を置いてネクタイを整えた。
 寝台の数歩手前で、教科書通りの美しい一礼をキメる。

「本日付で守護神獣様の御世話係を拝命いたしました、ハル・アキヨシです」

「中央官庁から派遣されました。神獣様の身の回りのお世話と、魔力暴走でお疲れになっている心をお慰めせよと仰せつかっております。以後、お見知りおきを」

 それを聞くと神獣は鼻で笑い、嘲るように目を細めた。

「新しい世話係か。お慰めだと? ……この呪いも、俺の飢えも、人の身でどうにかできると思っているのか」

「はい。事前に資料は確認しました。過酷な魔力暴走についても存じております」

(……現状を考えたら人間不信にもなるよな。クソみたいな国に使い潰されて、もう誰も信じられねーよな、わかるよ)

「何か必要なことがあれば、お命じください。何でもいたしますので」

 俺は神獣の煽るような言葉にも動じず、わざと淡々と告げた。
 その不遜な態度に、むしろ同情すら抱いていた。

 その言葉を聞いた神獣が喉の奥で低く笑った。
 その笑いは、自嘲のようでもあり、獰猛な肉食獣が牙を剥く直前のようでもあった。

「……何でもする、か。……なら、もっと近くへ来い。その堅苦しい装いでは、満足な『世話』もできまい」

 神獣は寝台に身を投げ出したまま、俺の身体を品定めするように、足元から首筋までゆっくりと視線を這わせた。
 その黄金の瞳の奥に宿る熱に、俺の肌がピリリと粟立つ。

(……まあ、こんな地にネクタイを締めた事務屋が来れば、誰だって『現場を分かっていない素人』だと思うよな)

 俺は、無意識に身構えていた肩の力を抜き、わざとらしく溜息をついてみせた。

「そうですね。確かにこれは、現場仕事には不向きですね」

 俺は迷いなく、事務官の制服のジャケットを脱ぎ捨て、近くの椅子に掛けた。
 続けて、喉元を締め付けるネクタイを緩め、シャツの第1ボタンを外す。

 神獣の視線が、俺の動きを執拗に追いかけている。
 その瞳には、獲物を狙う猛獣特有の獰猛な輝きが混じっていた。

(……なんだよ。俺が着飾っただけの官僚だとでも思っているのか? 舐めるなよ。王都の修羅場で、泥をすする準備ならとっくにできてるんだ)

「まずはその枷の清掃と、寝具の整理から始めさせていただきます。……失礼」

 袖を捲り上げ、一歩踏み込んだ、次の瞬間だった。

「――っ!?」

 視界が激しく、火花を散らすように回転した。
 手首を強い力で掴まれ、抗う間もなく寝台へと引きずり込まれたのだ。

 背中に柔らかなシーツの感触を覚えたときには、俺の視界は銀色の髪に覆い尽くされていた。

 俺の両手首を寝台に縫い付け、逃げ場を奪うように四つん這いになって覆い被さっているのは、先ほどまで気だるげに横たわっていたはずの神獣だ。

 見上げた先にある黄金の瞳は、熱に浮かされたような暗い光を宿している。伏せられていた耳がぴんと立ち、獲物を逃さないと言わんばかりに鋭くこちらへ向けられた。

背後では、太い尾が激しく左右に揺れ、俺の逃げ場を塞ぐように足元に絡みついてくる。熱に浮かされたような暗い光を宿して、俺の喉元をじっと凝視していた。

「……な、にを?」

 掠れた声は、彼の吐き出す熱気に容易く飲み込まれた。
 返事はなかった。

 代わりに、熱く湿った舌先が、俺の喉仏をゆっくりと、粘りつくように這い上がった。

 耳元で漏れる、地響きに似た獣の低い呼吸が、俺の鼓膜を甘く震わせる。

「っ、あ……っ」

 背筋を、熱い火花でなぞられたような衝撃が駆け抜けた。
 ぞわり、と。

 恐怖とも、あるいは、もっと別の……根源的な何かに触れられたような戦慄が走り、意志に反して身体が震える。

 脳が「逃げろ」と叫んでいるのに、溶けるような熱が浸透し、指先の力が抜けていく。

(ったく、あのクソジジイといい、この神獣様といい……どいつもこいつらも!!!)

 俺は情けなく喘ぎそうになる唇を必死に噛み締めた。

 俺は悲鳴を上げる代わりに、涙を浮かべそうになる目を限界まで見開き、目の前にある黄金の瞳を濃紺の瞳で真っ向から睨みつけた。

「……おい。挨拶もなしにいきなり組み伏せるのが、辺境の神獣様の礼儀か? 重いんだよ」

 喉元に牙を突きつけられ、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れている。

 怒鳴り散らす大臣の前に放り出された時に比べれば、牙の一本や二本、どうってことはない――意地だけでそう自分に言い聞かせ、麻痺した理性で恐怖をねじ伏せた。

「……ほう。この状況で俺を睨むか、人間」

 神獣が驚いたように目を丸くし、それから喉を鳴らすように笑った。

 喉元に突きつけられた牙の冷たさに、背筋に冷たい汗が伝わる。
 正直、怖い。逃げ出したい。
 だが、ここで目を逸らしたら、俺は一生こいつらの言いなりだ。

「……俺は神獣様の性欲処理係(はけぐち)はけぐちに任命されたわけじゃない。俺はあんたの身の回りの世話を命じられて来た」

 俺は腕を振り払おうと力を込める。
 けれど、悔しいことにびくとも動かない。

「それとも神獣様は力ずくで世話係をねじ伏せないとコミュニケーションも取れないわけ?」

 俺の皮肉混じりの抵抗に、神獣はいぶかしげに目を細めた。

「お前……もしかして、何も聞かされずにここへ来たのか? お前の役目は……身の回りの世話だと、本気で思っているのか」

(どういう意味だ?)

 押し殺したような神獣の問いに、俺は困惑混じりに答えた。

「そうだよ。……俺が命じられたのは神獣様の身の回りの世話と、魔力暴走により深く傷ついた心をお慰めし、平穏を取り戻すことだ。……それ以外に何があるってんだよ」

 俺が苛立ちを隠さずに言い放つ。
 神獣様を縛る鎖がジャラリじゃらりと虚しく鳴った。

 彼は俺の手首を掴んでいた力をわずかに緩め、今度は憐れみとも、皮肉とも取れる歪な笑みを浮かべた。

「……ハッ、ハハハ! 心の平穏、だと? 王都の連中も相変わらず、薄汚い言葉を並べるのが上手い。……いいか、人間。その『お慰め』とやらの正体は、文字通り、お前の身を差し出すことだ」

「どういうことだよ」

「いいか、お前が聞かされた『お慰め』の正体は、そんな清々しいもんじゃない」

「……え?」

「……俺の中に溜まった、毒にも等しい魔力を、お前の体内へ直接流し込んで『中和』することだ。肉体(からだ)からだを繋いでな。人間の体内は俺の毒を中和できるからな」

 ――肉体を、繋ぐ。

 あまりに直接的なその言葉に、俺の思考が真っ白にフリーズした。

「肉体を繋いで、魔力を……中和……?」

 その言葉が耳から入り、脳に届くまでに数秒の時間を要した。
 あまりに直截的で、汚らわしい真実。

 ――『辺境の獣にたっぷり可愛がってもらえばいい』

 その瞬間、そう言って俺を辺境へ送り出すときに、あの事務次官が浮かべたねっとりとした下卑げびた笑みが鮮明に脳裏をよぎった。

 ああ、そういうことか。

 俺がプライドを賭けて守り通したかった身体を、あいつは「守護神獣をお慰めする」という綺麗事の裏で、獣の生贄として差し出したのだ。

 事務官としての誇りも、一個人の尊厳も、すべてを無残に蹂躙するために。

(あっんの、クソジジイ!!!!!!! 絶対殺す!!!!)

 俺が怒りに震えていると、不意に、俺の身体を支配していた重みが消えた。

 神獣が俺の上から退き、寝台の縁に座り直して俺に背を向けたのだ。

「……去れ。今すぐにだ。……何も知らされずに連れてこられたお前を無理やり犯す趣味はない。中央のヤツめ、俺の尊厳をどこまで踏みにじれば気が済む……っ」

 はだけた背中には、暴走する魔力が紫色の火花のように弾け、呪印が赤黒く脈打っていた。
 苦痛に表情を歪めている姿に俺は戸惑った。

「でも……あんた、俺が帰ったらどうするんだ? 魔力暴走が抑えられないじゃないか」

「死ぬわけではない。……ただ、少し、気が狂うほどの熱を味わうだけだ……ッ」

「……気が狂うほどの、熱……?」

 その言葉の響きに、背筋が凍るような思いがした。

 神獣の背中からは、陽炎かげろうのような熱気が立ち上り、空気が歪んで見える。
 平気なようには見えなかった。

 俺は思わず、その震える肩に手を伸ばした。
 けれど。

「触るなッ!」

 振り払われた腕が空を切り、神獣の鋭い威嚇の声が室内に響き渡った。

 黄金の瞳が獣の如く細められ、剥き出しの牙が俺を拒絶するように向けられる。

「さっさと消えろ。今お前に触れれば俺の理性が持たなくなる。……今すぐこの場から去れッ!」

 怒号に近い声。
 俺はあまりの威圧感に、言葉を失って呆然と立ち尽くした。

 そうしていると、神獣は荒い呼吸を繰り返しながら、自身の右腕を強引に引き寄せそのまま深く、深く――その牙を自らの肉に突き立てたのだ。

「っ……ぐ, あ……ッ!!」

 肉を断つ嫌な音が聞こえ、神獣様の腕からポタポタと鮮血がシーツへ零れ落ちる。

「……おいっ! 何やってんだよ!」

「こうして別の痛みに意識を向ければ、熱は……幾分か中和される。……お前が、気にすることではない……ッ」

 冷汗を流し、激痛に顔を歪めながら、彼は必死に魔力の衝動を抑え込もうとしている。
 その姿はあまりにも痛々しく、そして誰よりも誇り高かった。

 その瞬間、俺の中で何かが、音を立ててぶち切れた。

「――ふざけんなよ!!」

 自分でも驚くほどの怒声。
 俺は逃げるどころか、神獣の胸ぐらを掴み上げ、自分を傷つけるその腕を強引に引き剥がした。

「……貴様、何を……っ」

「黙れ! 聞けよ! ……自分を傷つけて耐えるなんて、そんなの、おかしいだろっ!!!」

 俺は神獣を真っ向から睨み据え、喉の奥に溜まっていた「泥」をすべて吐き出すように叫んだ。

「あのクソ上司も、この国も、どいつもこいつらも狂ってる……! 誰かがボロボロになって犠牲になれば万々歳か? ……俺も, あんたも、結局あいつらにとっちゃ『便利な道具』でしかないんだよ! 死ぬほどムカつくだけだ!」

 俺は一歩踏み込んで、さらに神獣の首元を掴んだ。
 純粋な怒りで指が震える。

「あんたを独りで苦しませたりしない。これは、……俺の意思だ。……俺を使え。俺の中に、その毒を全部叩き込め。あんたが壊れる前に、俺があんたの『地獄』を半分背負ってやる」

 黄金の瞳が驚愕に見開かれ、同時に、威嚇するように逆立っていた銀色の毛並みが、一瞬でふわりと解けた。

 あれほど激しくシーツを叩いていた尾の動きがピタリと止まり、信じられないものを見たかのように、ゆらりと頼りなく揺れる。

「……お前、何を言っている。死ぬかもしれないぞ。俺はお前を喰らい尽くして、骨まで焼き尽くすかもしれん」

「死なないよ。俺を舐めんな。王都の地獄で、鍛えられてきたんだ。……さあ、どうする? このまま独りで腕を噛み続けてるか、それとも、俺を抱いて、あいつらが望んだ以上の『最高の地獄』を一緒に味わうか。……選べよ、神獣様!」

 俺は不敵に口角を上げた。
 黄金の瞳を真っ向から見据え、その首筋に腕を回して力強く引き寄せる。

 そして柔らかく微笑んだ。

「……く――ッ!」

 次の瞬間、地響きのような唸り声と共に、俺は再び寝台へと押し倒された。
 飢えた獣のような、それでいて泣き出しそうなほど切実な力で、俺の身体を強く押さえつけた。

 重なり合った体温と、喉を鳴らす猛獣の呼気。

「……三百年だ。これまで俺の前に差し出された連中は、皆、震えて泣くか、絶望して心を殺すかのどちらかだったというのに……後悔するなよ、ハル。……骨の髄まで、俺が食らい尽くしてやる」

 直後、焼けるような衝撃が走った。
 神獣が俺の首筋に、容赦なくその鋭い牙を立てたのだ。

「っ、あ……ッ!!」

 皮膚を貫き、肉に食い込む痛みに視界が火花を散らす。
 だがそれは、単なる暴力ではない。

 俺の血を啜り、自分の所有物だと刻みつけるような、野蛮で神聖な「いん」だった。

 逃げ場のない黒曜石の天蓋の下。
 事務官としての日常はここで終わり、俺たちの、狂ったほど熱い夜が始まる。

 ◆

 首筋を貫いた牙から、どろりと熱い「何か」が流れ込んでくる。
 それは神獣の魔力であり、彼が三百年もの間、この孤独な檻の中で溜め込んできた毒そのものみたいだった。

「っ、く……あぁっ……!」

 心臓が早鐘はやがねを打ち、全身の血液が沸騰したかのように熱くなる。

 事務官として死に物狂いで鍛えてきたはずの理性は、その圧倒的な「熱」の前ではあまりに無力だ。

 彼が牙を引き抜くと、そこからは鮮血とともに紫色の魔力の火花が溢れ出し、俺の肌を焼くように伝う。

「……お前の身体が、俺を受け入れようとしている。……いい匂いだ、ハル」

 大きな掌が頬を包み込む。
 見上げた黄金の瞳には、飢えた獣のそれとは違う、泣き出しそうなほど切実な色が混じっていた。

 深く、深く舌を絡められ、肺の中の空気が白檀の香りに塗りつぶされていく。

 指先一つ触れられるたび、俺の背中が弓なりに跳ねた。
 魔力に侵食された神経が異常に過敏になり、シャツ越しに撫でられるだけで脳裏に火花が散る。

「……待てっ……なんだ、これ。身体が……勝手に……っ」

「……俺の魔力が、お前を『器』へと作り変えているんだ。……怖がるな。俺を見ろ」

「……ぁ……っ」

 神獣の掌が、シャツのボタンを次々と弾き飛ばし、陶器でも愛でるような手つきで俺の胸元を這い上がってくる。

 魔力に侵食された先端を指先でじっくりと、執拗に弄ばれるたび、脳髄に突き刺さるような快楽が走った。

「これは中和作業だ」と自分に言い聞かせようとしたが、彼の熱い舌が鎖骨から胸へと下りてくるたびに、そんな薄っぺらなプライドは脆く崩れ去っていく。

 さらに、大きな手がスーツのパンツへと伸びた。
 ベルトが外される重々しい音が、静まり返った部屋に響く。

「……ま、待てっ、そこは……っ!」

 神獣の熱い掌が、硬く昂ぶった俺の「それ」を直接包み込んだ。
 神獣の掌から溢れ出す魔力が、俺の熱を吸い上げ、代わりに痺れるような刺激を流し込んでくる。

「っ、あ……く……」

 必死に声を押し殺したけれど、全身を貫く、狂おしいほどの熱。

「……あ……やめ……っ、つか……肉体を、繋ぐって……さっさと、無理やりにでも……俺の中に、毒を叩き込めばいいじゃないか……ッ!」

 猛毒を一方的に注ぎ込まれ、蹂躙されるだけだと思い込んでいた俺は、神獣の手のひらの中で翻弄されていることが死ぬほど気恥ずかしかった。

(つーか、なんで俺がこんな風に一方的にかき乱される必要あるんだよ……! こんなのおかしいだろ……ッ!)

「……ふふ, 面白いな。ハル, さっきまでの威勢はどうした?」

 神獣は喉を鳴らして笑うと、俺の耳たぶを唇で軽く食んだ。

「痛い方が良かったのか? それとも、俺の指先がそんなに心地いいか。……正直に言ってみろ。ほら、耳まで火がつきそうだぞ」

 意地悪く囁かれる掠れた声が、脳の芯を揺らす。
 俺は羞恥でどうにかなりそうで、涙の浮かんだ瞳を必死に逸らした。

(……ッ, こいつ, 本当に性格が悪い……っ!)

 完全に楽しんでいる様子の神獣を睨みつける。
 神獣は目を細めて笑うと、俺の唇を優しく塞いだ。

「……随分と可愛いらしいことだ」

 その余裕が、俺のプライドに火をつけた。
 このまま一方的に弄ばれてたまるか。

 俺は隙を突き、自身の膝を跳ね上げ、俺を圧し伏せている彼の股間の膨らみをぐいと押し上げた。

「……っ……ハ……ッ」

 神獣が短く息を詰めた。
 膝越しに、彼のモノが鉄のように硬く拍動はくどうしているのが伝わってくる。

(……なんだよ, こいつだって, 余裕ぶってるくせに……)

 少し満足してゆっくりと顔を上げた先にあった黄金の瞳には、もはや余裕は消え失せ、ドロリとした剥き出しの熱が宿っていた。

 あ……ヤバい、と本能的に察する。

「……ほう。そんなに早く、俺に繋がれたいのか。お前から誘ってくるとはな、ハル」

「ちがっ、これは仕返しで……っ、あぁっ!」

 言い訳を遮るように両手首を押さえ込まれ、黒曜石の寝台へと完全にうつ伏せにさせられる。

 乱暴に開かれた足の間。
 そこに、神獣の熱い舌先が、俺の最奥へと割り込んできた。

「……っ、い………っ! そこ, は……ッ!!」

 容赦なく暴かれ、俺は裏返った声を上げた。
 お構いなしに、舌で十分に濡らされたそこへ、神獣の長い指が無遠慮に、けれど確かな熱を持って滑り込んできた。

「っ……は、ぁ……っ!!」

 未知の部位を内側から強引に押し広げられる激しい痺れ。
 怖い。本能的な恐怖に俺は無意識にギュッとシーツを掴み、全身に力を入れた。

 不意に、神獣が動きを止め、俺の顔を覗き込んできた。
 先ほどまでの荒々しさは消え、細心の注意を払う手つきで首筋に顔を埋める。

 震えるうなじに、祈りにも似た柔らかな口づけが落とされた。

「……ハル。力を抜け、大丈夫だ。……俺を、もっと信じて身を委ねろ」

(……な, んだよ, それ……っ)

 ずるい。
 そんな風に優しくされたら、拒めるはずがなかった。

「……っ、ふ……あ……」

 頑なだった俺の身体が、彼の体温に溶かされるように確実に緩んでいった。
 力が抜けると同時に、彼の指が驚くほど滑らかに侵入してくる。

 今度は拒絶の痛みはなく、内側の粘膜がまるで彼を迎え入れるように熱く脈打った。

「……いい子だ、ハル。お前はこんなに、俺を欲しがっている……」

 一寸の隙もなく俺を彼の色で塗りつぶしていくような、執拗な準備。
 神獣は、俺の腰を持ち上げ、再び仰向けへと圧し伏せた。

 乱れた髪が寝台に広がり、激情を湛えた黄金の瞳が真っ向から突き刺さる。

 彼は俺の膝の裏を掴むと、それを大きく割り、自身の肩へと担ぎ上げた。
 無防備に晒された俺の最奥へ、膨れ上がった彼の熱が容赦なく押し当てられる。

 それはもはや魔力の中和を超え、俺という存在すべてを食い尽くそうとする凶暴な渇愛に満ちていた。

(……ああ, もう, ……この熱が欲しい……)

「……俺を、全部、あんたで満たしてくれ……」

「あんた, ……ではない。俺の真名は、氷牙(ひょうが)ひょうが。……呼べ、ハル。お前の声で、俺を殺し……生かしてくれ」

 その「願い」を飲み込む間もなく、氷牙の熱い質量が、俺の最奥を一気に貫いた。

「っ, あ……あああぁぁぁ……ッ!!」

 肺の中の空気がすべて押し出されるような衝撃。
 結合部からダムが決壊したかのような勢いで、氷牙の膨大な魔力が俺の体内へと直接叩き込まれる。

「……ぁ, ひ……っ, ひょう, が……ぁっ, あぁ……ッ!」

 名前を呼ぶたび、震えた喘ぎが溢れ出した。
 組織への怒りも矜持も、すべてがその熱量に飲み込まれていく。

 突き上げられる衝撃のたびに、腰が、足先が、指先が、快楽に焼かれて勝手に跳ねる。

「……ハル, 見ろ。俺を, 拒まないでくれ……」

 氷牙が低く、獣の唸りに似た切実な声を漏らす。
 彼は俺の身体を砕かんばかりに強く抱き寄せ、一滴残らず俺の内側に注ぎ込んでくる。

 せり上がる熱に、喉が、胸の奥が、熱く灼けつく。

「あ……っ, ん, ああぁっ! もっと, ………を, 俺の中に……ッ!」

 もはや自分が何を言っているのかも分からない。

 逃げ場のない快楽の嵐の中で、氷牙が俺の耳元に顔を寄せた。

「くっ…………ハル, 地獄もお前と一緒なら悪くない。……俺の、この熱をすべて、お前が受け止めてくれ」

 その言葉と共に、俺の最奥で、最も密度の高い魔力の奔流が爆発した。

「あ, あ……あぁっ……ひ, あ……ああぁあぁ……ッ!! ひょうが……氷牙ぁっ……!!」

 焼けるような、けれど至福の熱。
 俺は熱に浮かされたように目を剥き、氷牙の首筋に必死に縋り付いた。

 更なる衝撃が俺を突き抜け、視界は真っ白な光に包まれた。
 自分を壊し尽くすほどに熱い男の腕の中で、俺は幸せなほど深い闇へと、その意識を沈めていった。

 ◆

 再び意識を取り戻すと、嵐のような「中和」が終わり、部屋には静まり返った夜の闇と、微かな白檀の残り香だけが漂っていた。

 全身を包むひどい倦怠感けんたいかんの中で、上半身を起こした俺は、自分の心臓のすぐ上、白い肌に浮かび上がった奇妙な紋様に目を留めた。

 青白く淡い光を放つ、氷の結晶を鋭い牙で囲ったような、見たこともない複雑な紋様。

(……なんだ, これ。中和の副作用か……?)

 指でそっと触れてみると、ドクン、と自分の鼓動に合わせてその紋様が明滅する。
 そのとき、背後から熱い体温が俺を包み込み、引き寄せた。

「……起きたのか」

 あんなに尖っていたのが嘘のように穏やかで温かい、氷牙の吐息だった。

 神獣の顔には、これまでの荒々しさは微塵もなく、慈しみに満ちた笑みが浮かんでいる。

 王都の、冷たい事務局の椅子に座っていた頃には決して得られなかった、絶対的な安心感。
 俺は、この獣の腕の中が、世界で一番「安全な場所」だと感じている自分に困惑し、慌てて視線を泳がせた。

「……っ, ひ……氷牙」

 恐る恐るその真名を呼ぶと、氷牙は心底愛おしそうに目を細めて微笑んだ。

(……だめだ, こいつ, 笑うとこんなに綺麗なのかよ)

 俺はあまりの破壊力に耐えきれず、視線を反らせた。耳まで熱くなる自覚がある。
 けれど、すぐに気を取り直して顔を上げ、胸元の光る紋様を指さした。

「そういえば……これ、何なんだ? さっきから消えないんだけど」

「それは俺の印マーキングだ。俺がお前を器に選んだ証だ」

「……はぁ!? そんなの、事前説明にはなかったぞ!」

 思わず声を荒らげた俺に、氷牙は少しだけ不思議そうに瞬きをした。

「……嫌だったか?」

「……嫌、じゃないけど……。……あんたの地獄を半分背負うって、決めたのは俺だし。……今さら、文句を言うつもりはないよ」

 視線を逸らしながらボソボソと告げると、一瞬の沈黙の後、視界がぐるりと回った。

 氷牙が俺の肩を押し、再び黒曜石の寝台へと押し倒したのだ。
 枕に広がる漆黒の髪が、氷牙の白銀の長髪と混ざり合う。

「……お前は、本当に……」

 氷牙の感極まったような声と優しい口づけ。
 俺は真っ赤になりながら、強引に話題を逸らした。

「……そ, そういえば!!! あんた, 俺に軽々しく真名なんて教えて良かったのかよ! 神獣にとって真名は魂の譲渡に等しい禁忌だって聞いた事あるんだけど!」

 上擦った俺の声に、氷牙は少しだけ俺を抱く腕の力を強めた。

「そうだな、神獣は真名を教えた相手に魂を縛られる。お前は俺を自由にできる」

「はっ!? ちょっと、馬鹿かあんたは! あんたの命運, 俺が握ることになるんだぞ!」

 焦る俺とは対照的に、氷牙の黄金の瞳は静かで、一点の曇りもなかった。

「構わない。お前になら、俺のすべてをくれてやる。……だが, お前は俺の地獄を半分請け負うと言っただろう。……そんな男に預ける名なら、惜しくはない」

 氷牙の真っ直ぐすぎる信頼(重愛)じゅうあいに、俺の理性が粉々に砕かれていく。

 三百年の間、孤独に牙を剥いてきた獣が、たった一夜を共にした俺にすべてを明け渡した。
 その事実が、怖いくらいに甘く、重い。

 俺は顔を背けながら、小さく、震える声でその名をなぞった。

「氷牙, あんた……三百年以上も生きてて、そんなにチョロくて大丈夫なのか……っ」

 情けなくて、愛おしくて。
 俺は自分の照れくさい気持ちを隠すように、ボソボソと毒づくのが精一杯だった。

 すると、氷牙は意外そうに眉を上げると、ふっと愉快そうに喉を鳴らした。

「その言葉をそっくりそのままお前に返す。お前も、俺に負けず劣らず相当にチョロいぞ、ハル」

「……はぁ? なんでだよ」

「初めて会った俺に向かって、『地獄を半分請け負う』なんて言い出す男が、お前以外にどこにいる?……そんなに無防備に懐に入ってくるお前こそ、相当にチョロいんじゃないのか」

「それは……っ!」

 痛いところを突かれ、ぐうの音も出なかった。
 確かに、俺だって狂っている。去れと言われたのに、この男の孤独に自ら踏み込んだのだから。

 お互いに、相手のために自分を明け渡しすぎている。

 俺は気恥ずかしさを誤魔化すために氷牙を突き放そうとしたが、身を動かした瞬間、手首と腰に走った痛みに「……っ!」と顔をしかめてしまう。

 それに気づいた氷牙が、何も言わずに俺の手首を掴み、あざの残る場所にそっと熱い唇を落とした。

「……あざになっているな。俺が、強引すぎたか」

 氷牙が、すまないと言いたげな、けれど独占欲を隠しきれない瞳で俺の患部を見つめた。
 彼は俺の手首を優しく取ると、その紫色のあざが残る肌に、そっと、吸い付くような熱い口づけを落とした。

「っ, な……ななな, 何して……っ!?」

「……こうすれば、俺の魔力が馴染んで痛みが引く。お前を傷つけたままにするのは、……今の俺には耐えがたい」

 そう言って、彼は俺の腰に残った痕にも、丁寧に、羽毛が触れるような唇を寄せてくる。
 スッと痛みが引き、代わりにそこから火花が散るような甘い痺れが全身に回った。

 あざの一つ一つを、祈るような口づけで塗りつぶしていく氷牙。
 治癒、なんて言葉では到底説明がつかない。

 これは、昨夜の続きだ。
 俺という「器」の隅々まで、自分の愛を刻み込もうとする儀式。

 耳の先まで真っ赤に染まった俺を、氷牙は少しだけ顔を上げ、熱を帯びた瞳で見つめてきた。

「……ハル。お前は本当に、俺を惑わせるのが上手いな」

「……っ, うるさい, ……性格の悪い、神獣め……ッ!」

 俺は、今度こそ顔を隠すように彼の広い胸板に突っ伏した。
 心臓の音すら彼に預けてしまった今の俺には、そんな無様な悪態をつくのが精一杯だった。

 氷牙の胸に耳を押し当てれば、ドクドクと力強い鼓動が伝わってくる。
 その拍動が、俺の心臓の音と重なって、一つのリズムを刻んでいく。

 すると、俺を抱きしめる腕がさらに強まり、逃げ場を塞ぐように大きな掌が俺の後頭部を優しく包み込んだ。

「……愛してるぞ, ハル」

 耳元で、羽毛のように柔らかく、けれど岩のように重い愛が囁かれた。

「っ……な……ぁッ!?」

 氷牙は俺のうなじに顔を埋め、深く、深く、俺の匂いを吸い込んでいる。
 その頭にある耳が、甘えるように俺の頬をくすぐり、ふさふさとした大きな尾が、宝物を守るように俺の腰から脚にかけて、しっとりと巻き付いてきた。

 三百年分の孤独をすべて塗りつぶすような、切実なまでの告白。

(……ああ, もう, 本当に……)

 声にならない悲鳴が、喉の奥で熱く込み上げる。
 冷徹な覚悟で仕事をこなすはずだった俺の日常は、もう戻らない。

 ◆◆◆

(後日談)
【二週間後:神獣様は、仕事の邪魔をする猫の如く】

 離宮に来て二週間。

 俺は異例の週5日の「リモートワークりもーとわーく」許可を貰い、離宮の一室で毎日業務をこなしていた。

 魔力暴走は俺と交わることでいったんは収束したが、「器になったハルがずっと隣にいないと、またいつ暴走を起こすか分からない」と、神獣様が殊勝しゅしょうな顔(白々しい!)でのたまわったからだ。

 辺境の支部長は筋金入りの神獣擁護派だったらしく、俺が氷牙の暴走を鎮めた功績を「さすがハルくん。まさに救世主だ!」と涙ながらに褒め称えた。

「いいよいいよ、いくらでも! 好きなだけ離宮に籠もってくれたまえ!」

 そう言って、あっさりと連日のリモートワークを承認してくれたのだ。

 支部から持ち込んだ、無機質な机と椅子。

 ノート型魔導情報端末の前に座り、俺は溜まりに溜まった報告書を片付けていた。
 指先がキーボードを叩く規則正しい音だけが、静かな部屋に響く。

 漆黒の髪を耳にかけ、濃紺の瞳で画面を追うこの時間は、俺にとって「事務官」としての矜持を取り戻す大切な日常だった。

 その時。

 背後から音もなく巨大な影が忍び寄り、厚い胸板が俺の背中にぴたりと張り付いた。

「……ハル. いつまでその箱を叩いている」

 首筋に熱い吐息がかかり、さらりと流れる銀色の長い髪が俺の肩に零れ落ちる。
 神獣の逞しい腕が、俺の腰を囲うように回り、抗う間もなくぎゅっと抱きしめられた。

「……っ, ちょっと, 邪魔. 今, あんたに関する報告書作ってんだから。離せよ」

 俺は画面から目を離さず、肘で神獣の腹を軽く小突く。
 だが、この神獣は一度「構って」モードに入ると、驚くほどしつこい。

「暇だ。お前は朝から何時間その箱に向かう積りだ。そんな文字の羅列より、俺を見ろ。……それとも何か, それは俺よりも価値があるのか?」

「あるわけないだろ。でもこれは『仕事』。やらないと俺の首が飛ぶの。ほら、そこどいて――」

 俺がキーボードを叩こうとした瞬間、神獣の大きな掌が俺の手を上から覆い、キーボードへと無造作に伸びた。

「おい, 氷牙! やめ……っ!」

 ガチャガチャ, と爪先で乱暴にキーが叩かれ、画面には『さrせのしえじゃwらk』と、壊滅的文字列が並んでいく。

「……あ。おい! 何してんだよ! せっかく書き上げた報告書が……ッ!! あんたは、仕事の邪魔をしてくる猫かよ! ッ――」

 振り返れば、氷牙の耳が俺のキーボードを叩く音に合わせて、嬉しそうにぴこぴこと左右別々に動き、キーボードの上では銀色の太いしっぽが、わざとらしく左右に振られて入力を妨害している。

 怒鳴り散らそうとしたその時だった。
 神獣の大きな掌が、俺の頬を包み込むように添えられる。

「……っ」

 熱い。

 指先が肌に触れた瞬間、言葉が喉の奥に引っ込んだ。
 黄金の瞳が至近距離で、燃えるような執着を帯びて俺を射抜いている。

「吠えるな, ハル. 俺の『御世話係』が、お前の第一の仕事だろう?」

 低く、地響きのような声が鼓膜を甘く震わせる。

 言い返す間もなかった。
 神獣は俺の頬を固定したまま、逃げ場を塞ぐように顔を寄せ――。

「んっ……!?」

 それは「口づけ」と呼ぶには、あまりに猛々しいものだった。

 優しく触れるだけのものではない。
 まさに噛み付くような、強引で激しい独占欲の塊。

 俺の唇を割り、舌を滑り込ませ、吐息さえもすべて自分のものにしようとする執拗さ。

「……んぅ, ふ……っ……な……」

 さっきまでの怒りで熱くなっていたはずの脳が、別の、ドロドロとした熱に溶かされていく。

 頬を包む神獣の手は壊れ物を扱うように優しいのに、重なる唇は飢えた猛獣そのものだ。

 神獣は一度唇を離すと、銀色の髪を揺らして、俺の額に自分の額をぴたりと預けた。
 荒い呼吸が混じり合う。

「お前の心も、その漆黒も、濃紺の瞳も……一筋の髪から一瞥に至るまで、俺以外の何物にも使うな」

 ……重い。神獣の愛は、質量を持ちすぎていて息が詰まる。

 独占欲を剥き出しにした神獣の言葉に、俺は毒気を抜かれたように脱力した。
 頬に添えられた手の熱が、じわじわと全身に回っていく。

(……ったく。24時間365日、全霊でこの神獣に尽くせって? 王都中央官庁のブラック職場時代よりよっぽど過酷な労働環境じゃねーか)

 だが、不思議と心は満たされていた。

 理不尽に削り取られるだけの「消費」だった日々とは違う。
 俺という存在すべてを求められ、愛という熱を注がれる、狂おしいほどに満たされた時間。

 こんなに穏やかで温かい気持ちは、生まれて初めてだった。

「……ブラックどころか、暗黒だよ。あんたの隣は」

 俺が弱々しく毒づくと、神獣は満足げに目を細めた。
 今度は優しく、愛しさを確かめるように俺の唇をなぞった。


(完)
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