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第一章
1.春の日の小さな大事件
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三月、オスタラの日。
この日は昼の長さが夜の長さと同じになる。
女神ダヌのしろしめす島国、ダナンでは春の復活を祝う儀式が行なわれた。
オスタラの儀式は俗人には秘せられている。修行を積んだ賢者の中でも、特に選ばれた者たちが、特別な場所でひっそりと執り行う。かわたれどき、椀を伏せたような形をした丸い塚の上で無数の光が揺れる。光は正確に東西一直線に連なり、太陽を導く。
それを遠くに見やって、人々は安堵の息を吐く。
―――暗い季節は終わった。
森ではハンノキが眠りから覚め、枯れ色の野にはハリエニシダの黄色が広がる。人々は無邪気に、太陽が力を取り戻したことを祝い、喜び合うのだ。
オスタラの翌日。
ダナンの王子アリルが、相棒のサバ猫、シャトンと共に魔法の通路を通って森の庵に着いてみると、床一面に松ぼっくりが散乱していた。
「ああ、またやられた……」
アリルはがっくりと頭を垂れ、腹の底から溜め息をついた。鉛色の髪がぱさりと垂れて顔を覆う。
「たった二日、留守にしただけなのに」
アリルが秋に四代目『森の隠者』を襲名してから、半年になる。
この庵で春を迎えるのは二度目だ。
忘れもしない、あの夏の嵐の日。半死半生の子猫を抱いたアリル王子は三代目隠者フランに保護され、以来ずっと彼に師事してきた。この庵には王宮にいては手に入らない「知」がある。そう直感したからであり、自分の身に起こった不可思議がどのような意味を持つのか、それを知りたかったからでもある。
王子が住まうダナンの王城は遠いファリアスにある。しかし、城と庵の間には近道があった。庵の押し入れだった小部屋が、王子の自室のクローゼットに繋がっている。三代目フランがこじ開けた魔法のルートだ。
実際、学ぶことは多かった。人として生きる術。人の持たぬものを持つ者として、他を救う術。初代隠者より伝わる「高邁な智」があり、役人であった二代目が遺した貴重な記録があり、幼少期を墓荒らしとして生きた三代目の「世知」があった。
興味は尽きず、王子は足繁く庵に通った。王宮と庵。どちらが自分の住まいであるか分からなくなるほどに。
一年が経ったころ、シャトンと名づけられた子猫が魔法動物の生き残りであったことが判明した。魔法動物というのは、猫妖精とは違う。人類誕生以前、神々の時代の獣なのだそうだ。
人語を解し、話しもするが、その言葉を聞き取れる人間は稀である。
何の不自由もなく彼女と会話をするアリルを見て、フランはアリルを自分の後継者に指名した。もちろん資質を見込んでのことだが、彼は本音も隠さなかった。
『いやあ、いい弟子を持ったなあ。これで隠者生活とおさらばできる』
もちろんアリルは辞退した。体よく全てを押しつけられてはたまらない。
『僕にだって、都合はあるんです』
王子と隠者の兼業は不可能だ、と訴えた。
『今まで通りで構わんさ』
四代目を引き継いだところで、大きく状況が変わるわけではない。魔法の通路を使って、王宮と庵を行き来する生活が続くだけだ。アリルの勤勉さが仇となった。
『いつまでもこんな所でくすぶっている訳にはいかないからな』
実年齢は知らず、三代目も見た目は青年。諸般の事情によりやむなく隠遁生活を送っていたが、世捨て人になるにはまだ早い。
うきうきと旅支度を始めた師匠を、十六歳になったばかりのアリルは必死で引き留めた。
『僕一人では何もできませんよ。考え直してください』
『俺にもできたんだから、大丈夫だって』
フランは聞く耳を持たなかった。
『根回しはしておいてやるし』
『どこへの根回しですか』
フランはふっと視線を宙にさまよわせた。
『まあ、あちこち』
隠者の庵は森の中の一軒家ではあるが、近在の村とはそれなりに付き合いがある。隠者の知恵を求めて訪れる人たちがいる。そんな責任を一人で背負いきる自信は無かった。
『結界だって生きているから、滅多なことはないし』
庵の近辺には初代隠者、伝説の大魔法使いマクドゥーンの術が施され、悪意ある者の侵入を阻んでいる。人であれ、それ以外のものであれ、迂闊に足を踏み入れれば延々と深い森の中を彷徨い続けることになる。
ただし、結界にも穴はある。悪意無きものには効き目がない。戸締まりが甘ければ獣が庵の中に入り込むこともあるし、人ならぬものたちのふとした出来心で、ベッドの中にイガのついたままの栗を仕込まれることもある。
『絶対に無理ですって』
『大丈夫、大丈夫。心配すんなって』
食い下がる弟子を、フランは軽やかにいなした。
『しばらくは準備期間ってことで、たまには様子を見に帰ってきてやるからさ』
そんなやり取りがあった翌朝、アリルが庵を訪れるとすでに三代目の姿は無かった。別れの言葉も、書き置きもなかった。
準備期間とやらはいつまで続くのか、それはフランにしか分からない。
(師匠は今ごろ、どこの空の下を歩いているのやら)
愚痴と恨み節は心の中に。ダナンの王子は箒を取り上げると、慣れた手つきで床の掃除を始めた。
「きのうの昼間、様子を見に来たときには何もなかった」
シャトンはひょいひょいと跳ねるように松ぼっくりをよけながら、部屋の奥へと入ってゆく。
「やられたのは、その後だね」
夜が長く日差しの弱まる冬には、闇を好むものたちの力が強まる。妖精たちが本領を発揮する季節だ。この冬は何度やられたことか。フランが庵の主だったころより格段に回数は多かった。
庵の常連、デニーさんには「新しい隠者へのご挨拶。親愛の証だよ」と言われた。
けれどアリルにはそんな風に考えることはできなかった。
(かれらと対等に渡り合える日は来るのだろうか)
溜め息の数ばかりが増えていくような気がする。
「木の実があるよ」
椅子の上に飛び乗ったシャトンが、ころんとひとつ、転がる丸い実を見つけた。
「これはハシバミだね」
何もないテーブルの真ん中に、ハシバミの実がひとつだけ。誰が何のために置いていったのか。まるで意味が分からない。
松ぼっくりは油分があって良い焚き付けになる。
ハシバミの実、ヘーゼルナッツは美味しいだけでなく薬効がある。血の巡りをよくしてくれるし、風邪にも効く。粉末にして蜂蜜酒に入れれば咳止めになる。
「贈り物としていただく分には、ありがたいんですけどね」
いただく理由がない。
「何かのお返し、とか?」
すとん、とシャトンがきれいになった床に飛び降りる。
「ここから何か持っていったんじゃないのかい」
少し前、卵が十個ほど、入れてあった籠ごと行方不明になったことがある。しかし次の日にはきちんと返却されてきた。戸口の前に置かれた籠の中には、珍しいきのこが三本入っていた。価値観の違いはどうしようもないが、人ならぬものたちは律儀なのである。
「どうでしょうねえ」
床を掃いて松ぼっくりを一カ所に集めてみると、小さな山ができた。これを片づけなくては。
たしか、納屋に使っていない飼い葉桶があったはずだ。
「ちょっと納屋を見てきますね」
箒を壁に立てかけ、玄関の戸を引き開ける。――と、その足下でシャトンがぴくっと耳をそばだてた。
「猫の鳴き声がする」
アリルには聞こえない。
シャトンは迷い無く木立の中に駆け込んでゆく。銀の被毛がきらりと光って木陰に消えた。
「あっ、ちょっと待って……」
バリッ。
後を追おうとしたアリルの足が何かを踏んだ。
「うわ」
慌てて足を引っ込めて、自分が踏んだものを確かめる。
「また、松ぼっくり」
庵のそばに松の木はない。
顔を上げてシャトンが向かった方を見ると、点々と地面に松ぼっくりが落ちている。
「つまり、こっちに来いってことか」
何ものの仕業であれ、シャトンの様子を見る限り害意はなさそうだ。
早春の日差しは優しく、風は柔らかい。
アリルは目印をたどりながら、淡い緑が芽吹く森へと分け入った。
―――おわぁ…。
猫に似た声が聞こえる。
道しるべが途切れ、その先にシャトンの後ろ姿が見えた。ハシバミの木に向かって座っていた。
丸く密生して伸びる太さの違う数本の幹。その根元、枝の間に挟み込むようにして麻袋がひとつ置かれている。大きさはアリルの腕で一抱えほどか。
袋はもごもごと動いている。
「ああう…」
声の主は袋の中に。
「え?」
わずかに開いた袋の口から、中身がちらりとのぞく。アリルの思考が停止した。
「猫じゃなかった」
シャトンが、がっかりしたように頭を垂れて袋を眺めている。
そこには、とんでもないものが置き去りにされていた。
この日は昼の長さが夜の長さと同じになる。
女神ダヌのしろしめす島国、ダナンでは春の復活を祝う儀式が行なわれた。
オスタラの儀式は俗人には秘せられている。修行を積んだ賢者の中でも、特に選ばれた者たちが、特別な場所でひっそりと執り行う。かわたれどき、椀を伏せたような形をした丸い塚の上で無数の光が揺れる。光は正確に東西一直線に連なり、太陽を導く。
それを遠くに見やって、人々は安堵の息を吐く。
―――暗い季節は終わった。
森ではハンノキが眠りから覚め、枯れ色の野にはハリエニシダの黄色が広がる。人々は無邪気に、太陽が力を取り戻したことを祝い、喜び合うのだ。
オスタラの翌日。
ダナンの王子アリルが、相棒のサバ猫、シャトンと共に魔法の通路を通って森の庵に着いてみると、床一面に松ぼっくりが散乱していた。
「ああ、またやられた……」
アリルはがっくりと頭を垂れ、腹の底から溜め息をついた。鉛色の髪がぱさりと垂れて顔を覆う。
「たった二日、留守にしただけなのに」
アリルが秋に四代目『森の隠者』を襲名してから、半年になる。
この庵で春を迎えるのは二度目だ。
忘れもしない、あの夏の嵐の日。半死半生の子猫を抱いたアリル王子は三代目隠者フランに保護され、以来ずっと彼に師事してきた。この庵には王宮にいては手に入らない「知」がある。そう直感したからであり、自分の身に起こった不可思議がどのような意味を持つのか、それを知りたかったからでもある。
王子が住まうダナンの王城は遠いファリアスにある。しかし、城と庵の間には近道があった。庵の押し入れだった小部屋が、王子の自室のクローゼットに繋がっている。三代目フランがこじ開けた魔法のルートだ。
実際、学ぶことは多かった。人として生きる術。人の持たぬものを持つ者として、他を救う術。初代隠者より伝わる「高邁な智」があり、役人であった二代目が遺した貴重な記録があり、幼少期を墓荒らしとして生きた三代目の「世知」があった。
興味は尽きず、王子は足繁く庵に通った。王宮と庵。どちらが自分の住まいであるか分からなくなるほどに。
一年が経ったころ、シャトンと名づけられた子猫が魔法動物の生き残りであったことが判明した。魔法動物というのは、猫妖精とは違う。人類誕生以前、神々の時代の獣なのだそうだ。
人語を解し、話しもするが、その言葉を聞き取れる人間は稀である。
何の不自由もなく彼女と会話をするアリルを見て、フランはアリルを自分の後継者に指名した。もちろん資質を見込んでのことだが、彼は本音も隠さなかった。
『いやあ、いい弟子を持ったなあ。これで隠者生活とおさらばできる』
もちろんアリルは辞退した。体よく全てを押しつけられてはたまらない。
『僕にだって、都合はあるんです』
王子と隠者の兼業は不可能だ、と訴えた。
『今まで通りで構わんさ』
四代目を引き継いだところで、大きく状況が変わるわけではない。魔法の通路を使って、王宮と庵を行き来する生活が続くだけだ。アリルの勤勉さが仇となった。
『いつまでもこんな所でくすぶっている訳にはいかないからな』
実年齢は知らず、三代目も見た目は青年。諸般の事情によりやむなく隠遁生活を送っていたが、世捨て人になるにはまだ早い。
うきうきと旅支度を始めた師匠を、十六歳になったばかりのアリルは必死で引き留めた。
『僕一人では何もできませんよ。考え直してください』
『俺にもできたんだから、大丈夫だって』
フランは聞く耳を持たなかった。
『根回しはしておいてやるし』
『どこへの根回しですか』
フランはふっと視線を宙にさまよわせた。
『まあ、あちこち』
隠者の庵は森の中の一軒家ではあるが、近在の村とはそれなりに付き合いがある。隠者の知恵を求めて訪れる人たちがいる。そんな責任を一人で背負いきる自信は無かった。
『結界だって生きているから、滅多なことはないし』
庵の近辺には初代隠者、伝説の大魔法使いマクドゥーンの術が施され、悪意ある者の侵入を阻んでいる。人であれ、それ以外のものであれ、迂闊に足を踏み入れれば延々と深い森の中を彷徨い続けることになる。
ただし、結界にも穴はある。悪意無きものには効き目がない。戸締まりが甘ければ獣が庵の中に入り込むこともあるし、人ならぬものたちのふとした出来心で、ベッドの中にイガのついたままの栗を仕込まれることもある。
『絶対に無理ですって』
『大丈夫、大丈夫。心配すんなって』
食い下がる弟子を、フランは軽やかにいなした。
『しばらくは準備期間ってことで、たまには様子を見に帰ってきてやるからさ』
そんなやり取りがあった翌朝、アリルが庵を訪れるとすでに三代目の姿は無かった。別れの言葉も、書き置きもなかった。
準備期間とやらはいつまで続くのか、それはフランにしか分からない。
(師匠は今ごろ、どこの空の下を歩いているのやら)
愚痴と恨み節は心の中に。ダナンの王子は箒を取り上げると、慣れた手つきで床の掃除を始めた。
「きのうの昼間、様子を見に来たときには何もなかった」
シャトンはひょいひょいと跳ねるように松ぼっくりをよけながら、部屋の奥へと入ってゆく。
「やられたのは、その後だね」
夜が長く日差しの弱まる冬には、闇を好むものたちの力が強まる。妖精たちが本領を発揮する季節だ。この冬は何度やられたことか。フランが庵の主だったころより格段に回数は多かった。
庵の常連、デニーさんには「新しい隠者へのご挨拶。親愛の証だよ」と言われた。
けれどアリルにはそんな風に考えることはできなかった。
(かれらと対等に渡り合える日は来るのだろうか)
溜め息の数ばかりが増えていくような気がする。
「木の実があるよ」
椅子の上に飛び乗ったシャトンが、ころんとひとつ、転がる丸い実を見つけた。
「これはハシバミだね」
何もないテーブルの真ん中に、ハシバミの実がひとつだけ。誰が何のために置いていったのか。まるで意味が分からない。
松ぼっくりは油分があって良い焚き付けになる。
ハシバミの実、ヘーゼルナッツは美味しいだけでなく薬効がある。血の巡りをよくしてくれるし、風邪にも効く。粉末にして蜂蜜酒に入れれば咳止めになる。
「贈り物としていただく分には、ありがたいんですけどね」
いただく理由がない。
「何かのお返し、とか?」
すとん、とシャトンがきれいになった床に飛び降りる。
「ここから何か持っていったんじゃないのかい」
少し前、卵が十個ほど、入れてあった籠ごと行方不明になったことがある。しかし次の日にはきちんと返却されてきた。戸口の前に置かれた籠の中には、珍しいきのこが三本入っていた。価値観の違いはどうしようもないが、人ならぬものたちは律儀なのである。
「どうでしょうねえ」
床を掃いて松ぼっくりを一カ所に集めてみると、小さな山ができた。これを片づけなくては。
たしか、納屋に使っていない飼い葉桶があったはずだ。
「ちょっと納屋を見てきますね」
箒を壁に立てかけ、玄関の戸を引き開ける。――と、その足下でシャトンがぴくっと耳をそばだてた。
「猫の鳴き声がする」
アリルには聞こえない。
シャトンは迷い無く木立の中に駆け込んでゆく。銀の被毛がきらりと光って木陰に消えた。
「あっ、ちょっと待って……」
バリッ。
後を追おうとしたアリルの足が何かを踏んだ。
「うわ」
慌てて足を引っ込めて、自分が踏んだものを確かめる。
「また、松ぼっくり」
庵のそばに松の木はない。
顔を上げてシャトンが向かった方を見ると、点々と地面に松ぼっくりが落ちている。
「つまり、こっちに来いってことか」
何ものの仕業であれ、シャトンの様子を見る限り害意はなさそうだ。
早春の日差しは優しく、風は柔らかい。
アリルは目印をたどりながら、淡い緑が芽吹く森へと分け入った。
―――おわぁ…。
猫に似た声が聞こえる。
道しるべが途切れ、その先にシャトンの後ろ姿が見えた。ハシバミの木に向かって座っていた。
丸く密生して伸びる太さの違う数本の幹。その根元、枝の間に挟み込むようにして麻袋がひとつ置かれている。大きさはアリルの腕で一抱えほどか。
袋はもごもごと動いている。
「ああう…」
声の主は袋の中に。
「え?」
わずかに開いた袋の口から、中身がちらりとのぞく。アリルの思考が停止した。
「猫じゃなかった」
シャトンが、がっかりしたように頭を垂れて袋を眺めている。
そこには、とんでもないものが置き去りにされていた。
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