イニス・ダナエの物語

楓屋ナギ

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猫と王子

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 憶えているのは、とても寒かったこと。                            
 空からたくさんたくさん水が落ちてきて、体中が痛かったこと。
 地面は水浸みずびたしで、どろどろで。歩こうとするとすべって転びそうになった。
 まぶしい光が世界を覆い、激しい音が世界を震わせる。目も耳も役に立たなくなった。
 ごうごうと風が渦を巻いて吹きつける。もう動けない。
 小さな獣は深い森の中でうずくまり、目を閉じた。彼女は自分が何ものであるかも知らないまま、濡れそぼち、みすぼらしい綿埃わたぼこりのような姿になって生を終えようとしていた。

 ドドドド――…。

 地響きが近づいてくる。大きなものがすごい勢いでそばを通り過ぎて行った。
 泥飛沫どろしぶきが上がる。溜まり水が大波となって彼女を押し流した。木にぶつかり、その衝撃で彼女の意識が覚醒かくせいした。
(なにか、いる)
 獣の鋭い感覚が、生き物の気配をとらえた。
 本能が小さな獣に、「歩け」と命じる。
「にー……」
 彼女は力を振り絞った。わずかに残った命の火をかき立て、正体も分からぬものに向けて訴えた。
(――……!)
 ふわりと身体が宙に浮いた。すっぽりと包み込まれる感触。
 水と、あの嫌な光と音が遠くなる。
(あたたかい)

 夢うつつの中、彼女は聞いたことのない音で会話するふたつの声を聞いた。

 ――魔法動物の生き残り。
 ――女神に愛された者。

 音の切れっ端が頭に残った。
 意味は分からない。分かったのは、もう泥水の上で寝なくてもいいのだということ。
 ここは乾いていて、ほどよく明るくて、暖かい。ここにいれば怖いことは何もない。
 ふう、と鼻から小さな息が漏れた。もう安心だ。ごろごろと喉を鳴らし、彼女は深い眠りに落ちた。
 
 目が覚めると、大きな生き物が自分を見下ろしていた。その生き物は、藍色の目を細めて心地の良い音で彼女に話しかけた。
「シャトン」、と。

 * * *

 一人の少年がいた。名はアリルという。
 彼はダナン王の長子で、『王子』と呼ばれる身分であった。
 十五歳になった年、ウィングロット公がダナンの王に反旗はんきひるがえした。反乱軍の鎮圧ちんあつ。それが彼の初陣となった。選ばれし精鋭たちに交じり、王と共に都を出立した王子に、周囲の者たちは次代の王としてふさわしい戦功を期待した。
 ところが彼はしくじった。
 道中、急激な天候の変化に見舞われて、軍からはぐれた。
 奇妙なことに、同行の騎士たちは誰も王子の姿が消えたことに気づかなかった。
 皆が王子の不在に気づいたのは、戦が終わり、勝利の知らせを持って王と共に意気揚々いきようようと城に帰還したときだった。女王に王子の所在を問われ、王は返答にきゅうした。

 ――王子が行方知れずになった。

 勝利の喜びに沸きかけた王宮は、騒然となった。
 混乱のただ中に、当の王子が姿を現わした。騎馬で城をったはずのアリル王子は、なぜか城の自室から帰ってきた。その肩に灰色の子猫がちょこんと座っていた。
 王子の姿を見た者たちは、あまりの変わりように声を失った。

 アリル王子は語った。
 嵐にい、コーンノートとアンセルスにまたがる大森林、ケイドンの森に迷い込んだ。そして、伝説の大魔法使いマクドゥーンの流れを継ぐ『惑わしの森の隠者』に命を救われた、と。
 ウィングロットとはまるで方向が違う。にわかには信じがたい話だった。

 ところで、イニス・ダナエには古い言い伝えがある。
 女神ダヌは、ときに気に入った人間をひょいと手のひらにつまみ上げる。選ばれた者は女神から愛と特別な恩恵を受け、それと引き換えに大切なものを失う。
 
 アリルは、王の長子として皆の期待に応える絶好の機会を失った。
 しかし女神は、彼が自分に選ばれた者であるという証しに、衆目しゅうもくにも明らかなしるしを残した。ほんの少し前まで「太陽のような」とたたえられた黄金色の髪は輝きを失い、色せて、百歳の齢を重ねたかのような鉛色に変わっていた。
 人々は『おそれ』を思い出した。

 ――女神は確かにおわすのだ。
 ――不可思議な力は、まだ生きているのだ。

 人ならぬものは存在する。不可解な事象はどこでも転がっている。

 ――自分もいつ遭遇するか知れないのだ。

 人々は王子から一歩距離を置いた。
 王宮で大勢の人間に囲まれながら、王子は今までに感じたことのない孤独を覚えた。胸に抱いたちっぽけな猫の温もりが、心に吹き込もうとする冷たい隙間風から彼を守ってくれた。

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